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作品 - 20110409_801_5134p

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


ドーナッツ

  右肩

 後ろから犬がしきりに吠えてくる。僕の歩いているこの通りは実は平板な白さの広がりで、目に映る何もかもが何処かからここに映写されているのではないか、と思える。だから道を歩いたり、立ち話をしたり、駐めた自転車に鍵をかけようとしている大勢の人たちは、見る角度がズレるとすぐに消える。見ている僕の体も映写されている。実体は僕の魂と、姿も見せずに真後ろで吠える犬だけだ。しかし、実体というものが、映写された周囲との間に核心的に重要な差異を持っているとは思えない。思えないでいる。「ミスタードーナッツ」とか「洋服の青山」とか「靴流通センター」とか、目に映る範囲には見慣れた看板もあって、それがどういうものかもわかっているのに、さてその建物に入っていったとして、僕が何をするべきかがさっぱりわからない。たとえば「ミスタードーナッツ」に入っていったとしたら、「いらっしゃいませ」と迎えられ、ドーナッツの盛られたトレーが並ぶ棚の前に立つことになる。ではドーナッツとは何かというと、食べ物であることははっきりしているのだが、どうやらそれは星雲の一部でもあるのだ。星雲の一部を財布から取り出した硬貨で購うとは一体どういうことなのか、がわからない。しかも僕の体は投射された映像なので、犬の声に脅かされてときどき揺れ、かすれ、虫の鳴くようなノイズを立てたりしている。「フレンチクルーラー」や「ポン・デ・リング」は、不定型な星々の集合体としてただ光り、見ているだけでも強烈な磁力線を僕の体へ流し込んでくる。そのはずだ。後ろからは犬の長い舌も伸びてくるだろう。どうすればいい?そう考えると僕は立ち止まってしまってまったく動けない。

 そんな夢から、午前六時に覚めた。ベッドから降りて潰瘍に苦しめられている胃に、いつもの重苦しさを感じながら、周囲の光景以上にその内臓感覚がリアルであることで、ようやく夢から覚めたのだと確信が持てた。そうしてみると夢の世界で実体をなくしていた自分はすがすがしい無重力状態にいたのだと気がつく。あの町並みの中で消えずに残っていた僕の芯、魂。それだって今こうしてポットから湯飲みに注いで飲む白湯の現実感に比べると、吹けば飛ぶような軽さだった。ああ、できるなら吹かれて飛ばされてしまいたい。窓は磨りガラスで何も見えない。けれどこの先には冬の曙光が海霧を輝かせる港があり、その奥から流れてくる、或いは奥へと流れていく漁船の影が、次々に浮かんできているはずだ。それは少し歩けば実際に見えてくる風景なのだ。何度か見たこともある風景、つまり現実の中で展開される幻想である。しかし、それは肉体と共にある僕の慰めにはならない。僕は夢の中の感情をもう一度なぞろうとする。夢の中の僕。世界と馴染むために自分が何をするべきなのかがちっともわからない、その僕。ともすればかすれて消えようとする僕を、僕はどうすればいい?今は記憶と予感の中にしか存在しない疑問と悩みがぐうっと捩れ、起点が終点と繋がって、もうそれは「フレンチクルーラー」なり、「ポン・デ・リング」なりの光るドーナッツに他ならない。とても甘い。

 では、「神」について語りたい。
  「神」はそれらしくまとまった存在ではなく現象です。もしくは現象として顕現するのです。
 と、かつてあなたは僕に言った。不思議だ。だから僕は毎日無意識に「神」を探していたようなのだ。あなたによれば、「神」は何処にでもいる。探せばどんな所にも必ずいる。だから僕を見ていない人、僕のことをまったく考えていない人の表情の中に、僕は「神」を見てとる。僕にとって「神」の依代は、特定の人ではなく、人が時間の中で獲得するフォルムであるようなのだ。たとえば、先日歯医者へ行って治療の始まりを待つ少しの間、仰向けに倒された治療用椅子の上で、歯科衛生士の藤村さんが窓へ向かいすっきりと背筋を伸ばして立つのを薄目を開いて見ていた。藤村さんはもちろん「神」ではない。この時の藤村さんと僕との関係に「神」が依り憑いたのだ。藤村さんは、僕のことや他の人のことをまったく見ていない。窓に貼り付いた虚空を見ていた。その濁りの只中に向け黒目がちな目をややつり上げて、罪あるものの総てを誅戮しようとしていた。はるか上空で水蒸気が凝結し始め、幾層にも重なり、終わりのない豪雨の準備が整っていく。あるいは最初のひと滴、それがすでに殺気を孕んだ弾となり、この地を狙ってひた走っているかも知れない。垂れていた藤村さんの右腕が浅く肘を曲げて持ち上がる。掌が脆い卵を包むようにすぼまり、その中から細い人差し指が伸びて足下の地表を指している。神話の身がよじれ、その蛇の頭を持ち上げた。
 この神話を生成しているのは診療用椅子の上の僕だったが、藤村さんからは遠く疎外されている僕でもある。僕は僕自身の想起する神話の体系自体からも完全に疎外されているが、にも関わらず神話の中心に位置する。今、この文章を記述する僕が診療用椅子の上を見ても、確かに僕自身の姿は見えない。大きな空白が診療機材に取り巻かれて椅子にかけている。その向こうにこの世の終わりを招来しようとしている藤村さんが立っており、「神」の依り坐す物語が、みっしりと鱗の詰まった大蛇となって、空白となっている椅子の上の僕の、小さな脳髄へ回帰しようとしている。瞼のない眼を持つ頭が顎を大きく開いて尾を噛むとき、僕はもう一度先日の夢の手触りを思い出す。新たなドーナッツが現れるのだ。結局僕は渇望する暗い穴だから、とてもお腹が空いている。ドーナッツが食べたい。砂糖でコーティングされた巨大な「フレンチクルーラー」の肌が、僕の周りをぐるっと巡っている。甘い匂いもする。
 物語の円環の中で、僕はこの文章の題名を『ドーナッツ』とすることに決めた。藤村さん、あなたに読んでもらいたい。

文学極道

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