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作品 - 20110131_365_4998p

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白亜紀の終わり

  右肩

 アンモナイトは古生代デボン紀から中生代白亜紀にかけて栄えた後、やがて絶滅した。僕らにも馴染みが深い巻き貝だ。
 「ずいぶん長い期間に渡って栄えたんだけど、白亜紀後期に絶滅する頃には、種としての疲労が溜まっていたんだな。それがこれだよ。」
と、彼は展示されている化石を顎でしゃくった。アンモナイトは通常円盤状に巻いているのだが、その化石は出来損ないのクエスチョンマークのように見える。
 「異常巻き、っていうんだ。絶滅期に特に多く見られる。こりゃレプリカなんだけどな。」
もっとへんな形に巻いたものもあるんだ、と彼は言った。大学の付属博物館でのことだ。
 もう二十年近くも前の話。

 そのことと、彼が死んだこととは特に関係はない。彼は住んでいたマンションのベランダから転落死した。何らかの原因による事故死だとされた。大学を卒業して7年目のことだ。彼は故郷の旭川に帰っていた。葬式に行くには遠すぎる。電話帳の見本文を使って、弔電だけ打った。

 彼の妻が初七日の後、首を吊って自殺したという知らせがあった。
「状況からいって後追いだろうね。」
と僕は麦酒を飲みながら言った。
「今時珍しい話だよ。君は僕が死んだら後を追うか?」
妻は酒が飲めないので、テーブルに両肘を突いてぼんやり枝豆を食べていたが、声を出して愉快そうに笑った。
「ばかね、そんなわけないじゃない。まだやりたいことがたくさんあるから。」
 九月の半ば頃の日曜日。まだ暑かった。彼女の背後に、ダイニングキッチンの南側のサッシが開け放ってあった。雨の上がった後、庭の芝生と、隣家の竹藪の緑がしっとりと濃かった。午後の三時頃だっただろうか。時々涼しい風が入る。姿は見えなかったが雀の鳴き声も聞こえた。彼女は瑠璃色の半袖のシャツを着て、今までになく髪の毛を短くしていた。白い首の長さが目立った。六年間一緒に暮らしたうち、その時の姿が一番印象に残っている。彼女はとりたてていうほどの美人ではなかったが、この時は妙に綺麗だった。僕は、彼女の生涯で最も美しい場面の目撃者になっていたのかも知れない。何ということもないこの瞬間がこれから先記憶にずっと残るとは、その時は考えもしなかった。死んだ友人とアンモナイトを見た時もそうだったが。

 妻はそれから二年後に、交通事故でなくなった。僕のショックは大きかった。加害者である運転手は、向こう側から歩道を歩いてきた彼女がふいに車の前へ飛び出したので避けようがなかった、と主張し続けた。「こちらを見て運転席の私と目を合わせながら、身を躍らせてきたんです。あの人の姿がスローモーションのようにはっきり見えました。」事故の目撃者は居ない。僕の周りの人間は誰もが、運転手の都合の良い作り話だと怒った。彼女はそんな人間ではない、と僕も人にはそう言った。仮に飛び出したのが本当だとしたら、急に目眩でも起こしたとしか思えない。
 だが、信じられないことだが、ひょっとして自分から車の前へ飛び出した可能性が絶対にないとも言えないのだ。それは今となっては確かめようがない。

 そんなことを考えるのは、時々僕自身にも特に強い理由もなく死の誘惑が襲うからだ。三途の川の向こう側には何もない、犬一匹さえいるわけがない、と固く信じているのだが。
 その度に僕は、人類も異常巻きを始めているのだ、と考えてその場をやり過ごすことにしている。そう考えるならば、僕も、死んだ三人も、同じ絶滅の歴史の一部に過ぎない。絶滅の大きな流れの中で、僕らは生まれては消えるミクロの現象である。個体の生死は、白亜紀後期のアンモナイトと同じく、種の衰亡を彩る無数のエピソードの一つに過ぎないのだ。種全体が衰亡すると、死の様相はより内部的要因に特化して、今までよりも多少理解しにくい異常性を帯びるというわけだ。

 どのみち人生に悩むほどの意味なんかない。そのことも素直に納得できるようになった。

文学極道

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