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作品 - 20110103_974_4947p

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


キューピーと

  右肩

 君と歩くと、皆にこやかな表情でこちらに目配せをして過ぎます。名前も知らない人たちだけどいい人たちだ。僕も軽く頷いたりして挨拶を返す。なぜだろうね。こんにちは。
 君は首のもげた大きなソフトビニール製のキューピーです。肩の間から穴をのぞき込むと、中に油の浮いた水が溜まっていて、陽の加減で虹色の反射が見えてくる。君が何かを話そうとするとちゃぽんと音がする。君、何をいいたいんだろうか。まったくわからなくて僕はつい笑ってしまう。ちゃぷん。しかし僕の笑いは君の笑いです。
 日干し煉瓦を積んだ家が果てもなく続き、狭い路地に日が当たったり翳ったりするけれど、実際仰いでみて空に雲があった試しはない。総ては人の妄想に兆す影なのだ。影。建物の伸ばす影、黒い折り紙を乱雑に重ねる影の輪郭。そこを外れると、太陽がそのまま零れてきて煎餅のように砂地を四角く灼いている。
 影からも光からも、目を離したわずかな隙にたちまちひとつ眼の悪霊が生まれ、溢れる。それは、瑠璃鳥が鳥という形を崩したような声を上げて徘徊する。手の甲や首筋、耳たぶ、鼻、唇。小さいやつらがところかまわず噛み、もぞもぞと下着の中にまで入ってくる。嫌になります。君はキューピーだから煩わされない、そこのところはとても素敵だ。人でなくなったものの美点の一つに数えてもいいと思います。本当だよ。
 忙しく立ち働く人たちもいる。座り込んだり、寝転んだり。思い思いの姿勢で、濡れたものが乾くというただそれだけの時間をやり過ごす人もいる。唐突に走り出し、また突然に笑い出す子供たちと、その手を引っ張る母親たちがいる。ここへ今夜、光るものの破片が大量に降り注ぎ、僕らがみな感情からも想念からも物理からも隔たった、冥い粒子の隙間へ追い落とされるなどとはとても思えない。思えませんね。
 短い腕を明るい空へ逆八の字に開いている君、バンザイ。生きものバンザイ。頭の失われた君が愛しい。ぴたり揃えた脚。もの言えばちゃぷんと水が鳴る。僕は何かを思い出そうとして果たせないのだけれど、君が好き。風景の中で僕はやがて消えてしまう町の風の一部です。青い空を翼もなく飛ぶ、夜の予兆が僕です。それが遙か中間圏の静寂から滅び去った世界を顧みているのです。君、違いますか?
 僕は君の失われてしまった大きな頭を抱きかかえるようにキスをする。有無を言わさずキスをするのは、つまり、皆が何処にもないものを愛せるようにするために神様の仕立てた最初の実験体、それが僕だからです。

 いかがですか?返事はいらない。だから黙っていて。しばらくは黙って。僕にこんなふうに、好きに言わせておいて下さい。

文学極道

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