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作品 - 20101227_865_4919p

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


あとは眠るだけ

  右肩

 出来事に順序はない、と思いたい。何が進行していたとしても、何が起きている途中であったとしても、僕に残された選択肢は「すぐに眠る」の一事でしかなく、僕がそのことに倒錯的な信仰心を抱いていたとしても、それは悪いことではない。
 意識は瑠璃色の谷筋の隘路を下って昨日へ進む。飴色の流れに沿って薄紅色の湖へ遡行する。湖。それは今さっきスターバックスの女性店員から黄色のランプの下で受け取ったマグカップの中にあってもよい。今日は明日からすれば既に昨日だから。だがそこが何時であり何処であり、それが何であっても僕にとっては認識の位相が幾層にもずれた未知の次元なのだ。シナモンの匂いがした。机に肘をつき顎を支えた右手から頭が落ちようとしていた。落ちようとするのでしがみつくと、僕は大理石の円柱を抱いている。真っ白でありながらどこかしら確信的にピンクであり、冷ややかでありながらわずかに熱を持つ予感がある。そしてそれは犬ほどの感情も持たず、冬の蝿ほどの記憶も持たない。ただ石の柱である。僕はすがりついたまま、滑らかにかつ滑らかに滑り落ちていく。気持ちの良い滑落だ。重力のままにありながら、僕は自由だ。酔ってしまうくらい自由だ。自由だと言える。
 眠りはまた浅緑の蔓である。僕が昼間職場でしてきたこともすべて、荒れ果てた記憶の神殿の列柱なのだから。絡みつくままに眠りが眠りの葉を茂らす。夕景。広い葉の和毛が逆光の中で泡立つように美しい。会社の伝票にレーザープリンターで打ち出されていたアラビア数字や製品の略号が、短い繊毛に埋もれながら優しく浮かび上がる。今は読み説くことも発音することもできないその文字が、神に捧げる呪言なのだ。言葉の内実は薄暗い。「愛」という感情がそうであるように。そしてそれは人生の薄暗さに通ずる、と僕は考えてみる。昼間、会社では僕の席の真上の蛍光灯が切れかかり、ゆっくりとしたテンポで点滅していた。僕は犬の呼吸の、あるいは蝿の呼吸の、あるいは脚の長い羽虫の呼吸のテンポで明滅する世界を見つめ、俯いてじっと祈る。祈るように考える。そこに詩はない。
 何に何を祈るの
 何に何を何するの
 これはそれそれあれはあれ
混濁が眠りの本質であるから、と僕は神殿の床に仰向けに沈み込んで思っている、だから目前のこの場面が唐突に美しいということもある。生きることが決して間違わない。そんなこともまたある。
 ここを外れて、外。外のまた外側、夕暮れに渋滞する車列からエンジンのアイドリングの音が聞こえてくる。バックするトラックのブザー音。硬質なもの、金属パイプのようなものがいくつかかち合う音もする。遠い神社で松の梢が騒ぎ、シャンシャン鳴る鈴が次第次第に数を増す。増せるぶんだけ増してゆく。聴覚の領域が隙間なく埋め尽くされると、僕はすがるべきものから体を離し、粗い粒状の光、形のない映像となった淋しさの中を、額にある眼を見開いたまま、ぐんぐんと沈んでゆく。これでいい。新たな冒険が始まるのだ。冒険には語りうる一切の内容がない。世界が開き、世界が閉じる。記憶と論理と感情に先駆け、前方の扉が開く。その刹那後方の扉が閉まる。前方の扉が開く。通り過ぎた扉が後方で閉まる。冒険とは主体と世界そのものの運動なのだ。僕は底のない眠りの深淵を、喜びとともに疾駆する。
 旅する意志のなすところ、僕は神のように明晰に眠り、水に沈む石のように真っ直ぐに生きることを選択したのだった。たとえ隣席でマグカップが床に落ちて激しく砕けようとも、僕は迷わない。目覚めない。

文学極道

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