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作品 - 20101129_418_4862p

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林檎のある浴室

  リンネ

 自宅の風呂である。いつから浸かっているのか、まるで思い出せない。ひだ状に醜くふやけた指を見れば、どうやら相当の間ここにいたということが分かるが、それにもかかわらず、私は、一向に風呂から出ようという気持ちにならずにいる。
 そしてそれはどうも、すぐ目の前にいる女のせいであるということが分かっていた。向かい合わせに浴中で座っているが、まったく黙りこくっている。何かに怒っているのだろうか。どうしてこのような状況にあるのか分からないが、石鹸の香りに混じって、女の体臭がかすかに感じられ、それが私をこの場に引き止めているようである。

 浴室はしだいにふんふんと湯気に溢れている。その様子がどうもおかしい。両手で必死に扇いでみるが、厚い霧に阻まれて、少しずつ女の顔が見えなくなっていく。そのまま、すぐに目の前がまっしろになってしまった。
 湯気は不思議なことに、鎖骨から上だけを覆っているのだが、むしろ自分はそのことで不安である。私は、さっきまで見ていたはずの女の顔が、すっかり思い出せなくなっていたのだ。浮かんでくるのはまずどうでもよい人の顔ばかりで、思い出そうとするほど、女の顔がそれらに埋もれていく、という、妙な状態になってしまった。

 ふいに、誰かのすすり泣くような声が聞こえ、私はどきりとして耳をすませた。どうやら、その泣き声は、湯船の中から聞こえてくるようである。
 水面の一点をしばらく眺めていると、突然そこから、林檎が一つぬっくりと浮かんできた。これはいったい、どういうことだろう!
 私は手を伸ばし、その林檎に触れようとするが、奇妙なことに、水面に立った波にのって、林檎が自分の手を避けてしまう。何度も掴みかかるが、そのたびにゆるりと見当もしないほうへ逃げていく。そうしているうちに、私はひどく悲しくなってしまい、林檎を見つめたまま、もう何もせずにぼうっとしている。

 女の足がいつのまにか、自分の股間まで伸びている。そのせいで私は、なんとも恥ずかしい気持ちになってしまった。女のほうはそれを察してか、先ほどから、ふたを開けたようにかしゃかしゃと笑っている。その笑い声がますます羞恥心を高揚させ、私のからだは驚くほど紅潮していた。
 湯水の中では、女の素足がうねっている。質感といい、動くさまといい、まるでイカのように滑らかだ。林檎が、波に押されてじっくりとこちらに近づいてくる。私は女の足により、しだいに絶頂に迫りつつあるが、それにつれて、目前の赤く丸い果物が、心なしか膨らんでいくように見えた。そしてよく見れば、その果実の球面には、向こうの女の顔が、そっくりと映りこんでいる! その女の首が、のどやかに、こちらを見てにこにこと笑っていた。

 ああ、これで女の顔が思い出せる、と私は目を細めて覗きこんだ―――が、そのとたんである。私は興奮のあまり、痙攣的に林檎をつかみ取って、あろうことかそのままかぶりついてしまったのだ。するとどうだろう、突然、女の足がよりどころなく、湯船の中をあっちへこっちへと、困惑したように行ったり来たりするではないか。
 私は二口、三口と、繰り返し、林檎をかじった。トマラナイ。トマラナイ。霧はなおも浴室を満たしているが、女ははじめのように、すっかり動かなくなってしまった。
 そんな折、湯船の中から、ふたたび何かがすすり泣く音が聞こえてくる。つまり、新しい林檎が水面に浮上する、という予感の芽生えである。私の視覚は、まだそこに現われる前から、冷たく、丸く太った林檎の姿を想像して、実に無邪気に喜んでいる。
 女はすでにそこにいないが、残り香によって、私はそれに気づかない。だがむろん、それはとりたてて重要なことでもなかった。
 浴室はますます湯気に溢れている。

文学極道

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