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作品 - 20101127_383_4858p

  • [佳]  星霜 - 破片  (2010-11)

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星霜

  破片

 青く開けていくビル群に横たわるアリアが名前を欲しがる、その耳打ちは誰にも聞かれてはいけないよ、人々はいつだって起きるのではなく、起こされるのだから。時間。冷たく呼吸もない建物たちの天辺と、まだ少し黒い空との交差するあの辺り、溶け合うようにして、だからこそ遠近で際立つ境界の、さらに向こうからやってきて、眼を細めながら夜明けにまどろむ、交通整備の制服にしみた。風雨に晒されて均質になったアスファルトにはなんだか光る粒々が散らばっていて、わたしたちはそれを「星が落ちた」と表現する、星が落ちるとわたしたちの眠りは次第に薄れていく、そうして今度は落ちた星が集まり、太陽になって浮かぶんだ、わたしたちはそうやって起こされているから、伸びやかで繊細な旋律のアリア、今は歌ってはいけない、愛されて美しくなるアリア、唇に指を当てて。



 雨が降ってくると星たちがいないから、人間っていうのはね、動きたくなくなる、じっとしていたくなるから、そういうときに旅ができたらこれほど素晴らしいこともない。身体を動かさなくても人はどこへだって行ける、この踵はザンクトゴアールの赤茶けた石畳に驚き、肺はプラハの清冽な風で喜んだこともある。きみもどこかへ出るといい。丁度外は雨が降っていて、時差でどこかの誰かが眠っていようとも、きみが煩く思われることはないだろうから。それにしてもこの雨は長い。溺れてしまいそうだ、星も、太陽も。だから、わたしの吐息もどこへも行かずに、二酸化炭素の濃度を強くして、再びこの身体の血液に乗って旅をする、そしてまた吐き出され、動かなくたってこれが生きてるってこと。



 これといって言葉を使う必要がなかった。ひとり何事かを呟いてみても、それは誰にも渡らず部屋の隅で口を開けているゴミ箱に吸い込まれてしまうから。少し寸法の合わないカーテンの隙間を、短命な星たちが縫い合わせていく、それでも仰げば同じ場所に瞬くのは、墜落した後再生しているからなのだろうか、わたしや、わたしたちのように。わたしの部屋。コンピュータや雑多な書がもはや部屋の空間自体のように僅かも身じろぐことなく在る中で、安っぽい天板だけの机に、メトロノームが揺れている、LentoかGraveか、わたしたちはいつも議論していたけれど、どうやらあの針はLentoで振れていて、今にも聞こえてきそうだね。脳細胞やその組織に鮮やかな色彩で音色を醸す、もう待てないと囁かれても、わたしは言葉を持たない、だから音を歌う、ありふれたイタリア語の音階で、ゆったりと荘重に。
 


 どうしてあんな場所にいたのかずっと不思議だった、黄金の恵み、葡萄の収穫や厳かな洗礼に生きる人たちの傍でないのか、硬すぎる街並みや暗闇のような夜明けに身を震わせるきみは少し滑稽でさえあったように思う。全く動こうとしないきみの声はそれなのに弾んでいて、澄んだ声がビルやモニュメント、タワーといった無機物にまで、その原子を割り込み、陽子や電子と絡まった、その時からここには星が降る。人間という生物を刻む。雪が積もるように、首を少し持ち上げて正面に見た信号機には、星が積もり、たくさんの影を作る。

 背の高い建物に囲まれたスクランブルの交差点には、なんとか数えられる程度の人だけが歩いていて、ちょっとずつ落ちてくる光の粒々には見向きもしない、雨と違ってあたたかいはずの星降りなのに、冬の空気はわたしたちの吐息を勢いよく引っ張り出す。時だ。空から星がなくなる、だからこんなにも、夜明け前は暗い。

 ひとひら、落ちてきた星を拾い上げると、その上に星じゃないものがぶつかって、ちいさく空気に噛みついて消えた、星が濡れている、規則正しい形状の結晶は星に食べられて、そうして濡れた星がわたしたちの頭上に落ちてくる、降ってくる、きみは歌う、音程をヴァイオリンの音色に変えて、人々は眠っているのに、わたしたちは歌う、指先は、星に届いたのに、閉ざさなければならない唇には、もう届かないのさ。

文学極道

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