あなたが頼まれて巌邑堂に茶請けの練り菓子を買いに行ったとする。帰路、通りすがりに金木犀から呼ばれたものの、そのまま山県さんの屋敷を過ぎるところまで来てようやく足を止めた、と。
花の色は濃厚な黄色。
振り向くと今もう見えない小花を照らすのと同じ光が、雲間から路地に注いでいる。注がれ溢れ、こぼれている。電線の影が地上に揺れ、路側帯の白線と平行してアスファルトを走る。
あなたのスニーカーは白いコンバース。くたびれた靴紐が蝶結びのループを大きく左右に垂らしている。密度の低い午後三時だ。車と人が通らない。塀の向こうから張り出した楠が揺れ、いくらかまとまった量の葉が擦れ合う音がする。
あなたは死の世界にいる。今日はあなたが死ぬのに良い日和であった。刺激を差異として陳列する「世界」で自己充足するのが人間だ。あなたはそう考えてきたとする。だから、あなた自身がいない「世界」はあり得ない、と。
あなたはあなたのいない世界を歩き出す。山県さんの屋敷の脇から、狭い狸坂を下る。表具屋の羽目板の外壁に節穴があり、そこへ楓の葉が葉柄を引っかけて揺られている。それを見る。茶色の体毛に覆われた猫が空中で丸まっている。電柱の下に三分の一ほど雨水を溜めたバケツが置かれている、その角を右に曲がる。「菊」という漢字が見えた。冬蜂のようにあなたは歩く。
こんにちは、「世界」。ごきげんよう、「人間」。
あなたにはあなたの体が下界の狭隘な路地を抜け、色彩の多様な大通りへ出て行くのが、豆粒ほどの大きさで見えている。それはあなたではない。あなたは畳一枚ほどの白すぎる雲の上に正座し、左手の懐紙の上に乗せた巌邑堂の菓子を、桜の枝から削りだした楊枝で割っている。薄緑の菓子の肌の上を、季節風が吹き、潮流が循環する。その地殻、マントル、外殻、内殻。楊枝が深い記憶にずぶずぶと切り込み、割れめから甘く霞んだ黒色の餡が溢れ出す。
一方、豆粒のあなたはガラスや、ガラスでない扉からいくつかの建物に出入りした後、夫または妻の待つ場所へと徐々に接近していく。「愛」ということがらについてあなたは考え、そんなものは何処にもないということに気づく。新鮮で、穏やかな驚きを感じている。それはたちまち性愛の喜びに勝る。
むくと猫が起き出すと体を伸ばし、あなたの記憶の中の六角柱に飛び乗った。それは雪のように白いが、かつて神社で手に取った神籤の串を納める木箱と同じ形だ。茶色の猫もすぐに白くなり、白い州浜の砂を歩く。白砂はあなたの懐紙であり、二つに割られた練り菓子が生々しく濡れた食欲を舐め上げる。あなたの膝元に開いた柔らかな穴から神籤の串が飛び出す予感もある。
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作品 - 20101115_186_4828p
- [佳] 旅への誘い - 右肩 (2010-11)
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旅への誘い
右肩