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作品 - 20100901_118_4681p

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ナルシス・ナルシス・

  リンネ

 さて、どうやら人々はひどく急いでいるようである。こんな瓶の中でいったい何を急ぐ必要があるのだろうか。誰も立ち止まる気配を見せない。ともかく、誰もがせかせかと動き回っているので、なんとなく活気のある風景ではある。――それにしても、瓶の中に人が住んでいるなんて! 
 Nは、そのことに驚くというより、どことなく不安だった。しかし、途方に暮れる思いに陥りながらも、彼はその不可思議な瓶の観察を続けている。
 なるほど、いくら瓶の中とはいえ、これだけのスペースがあれば何らかの動きは取れそうである。誰かがこうするというとき、どこかにこうしないという人が現れる。このとき一方の人の動きに隠れてしまう人ができるが、こうして生まれた陰影がこの瓶独特の世界観を作り出すようだった。瓶の内部では、様々な人物が交錯して現われ、一時一時に見え方が変わっていく。それはまるで万華鏡のような具合である。
 しかし、どうも変な気持ちだった。Nはいつのまにか、瓶の住民の存在が妙に鼻についてきていたのである。異世界とでもいえるような場所で生活する彼らに対して、こちらから一方的な嫌悪感を抱くというのは、なんともおかしな話ではないか。そんな理不尽なNは、きっとどうしようもなく愚かな奴なのだろう。だが、そうやって自分の内面の醜さを確信しつつも、彼はやはりその瓶の観察を続けるのであった。
 ガラスの表面に映り込む、Nの間延びした顔の向こうで、住民はせっせと動き回っている。まるで、泳いでいないと死んでしまうカツオのようである。瓶を軽く振ってやると、底に溜まっていた埃のような粉が舞い上がった。瓶の中では人々が無関心にそれを見上げている。住民たちの活動の一切が止まり、それに沈黙が続いた。
 立ち止まる人々の中に、見覚えのある女がいた。若々しく、蟻のような光沢のある黒髪が、背筋の半分くらいまで伸びていた。それがどことなくエロチックである。肌が白いのだが、それは美しいというよりも、むしろ頼りなさげで、色素のない白という感じだった。Nは、その女の顔がよく見えるようにと、引き出しから虫眼鏡を取り出して瓶に顔を近づけた――が、やや手間取ったせいか、すでに人々は元のようにせかせかと動き始めていた。あの女はどこにも見当たらなかった。瓶のふたを開ければ、匂いだけでも微かに残っているのではないかと思ったが、別の女のものかもしれないことを考え、それはやめた。
 Nは気を沈ませた。自分の愚鈍さに眩暈がする。どうも今日は悲観的になりすぎるようだった。たかが瓶の中の人物ごときに、なぜこうも――Nは久しぶりに外の空気が吸いたかった。そして、まるで水中を浮上する泡のように無自覚な足取りではあったが、しばらくしてようやく彼はその部屋を抜け出したのである。

 昨晩降った雪で、外の景色は青白くなっていた。雪はまだぱらぱらと降っており、道行く人はみんな傘を広げている。道路ではチェーンを巻いた車が、何かを潰す音を残して走っていた。途中、今日は自動車があまりに無関心に走っているではないか、などという変な感傷に襲われた。雪景色で町がひと際静まり返っていたせいだろうか、あの車のうちのどれかには、よもや一台くらい無人で走っているものもあるのではないか、とまで訝る始末である。Nは、どこにも行く予定などないのに、ひどく焦った歩調で通りから通りを抜けている。次第に見覚えのなくなっていく町並みに快感を覚え、Nの足取りは溺れるように速まっていく。町はのっぺらぼうのように表情を失い、Nはただ夢中になってその中を歩いている。道を。道を? 町が見えない。
 いつのまにかNは帰宅している。なにやらテーブルに置かれた瓶を掴んで、それをまっすぐ上に放り投げた。もう何も考えることがなかった。後のことは何も知らない。何かの割れる音がする。それが女の叫び声に聞こえる。なぜか、おお、それはNの声にも似ている。
 そのことに気が付く私とは、なかなか冷静な奴である。
 部屋は再び沈黙している。

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