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作品 - 20100823_946_4649p

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


津田さんと僕。それぞれ

  右肩

 私、うつむいて自分の足もとを見た。白い爪を揃えた素足がらららららとサンダルへ透けている。
 脚は膝の少し上まではそのまま脚。でももっと上、私の体は空色のワンピースを着ていたり、白いブラウスに薄桃色のスカートを穿いていたり、突然裸のままだったり。
 私、決定的に乱れている。誰?何?何ひとつ定まらない。
 でも、そのことに不満を持つ私はもういない。

 背中が裂けた。めくれ上がった鋼板の角が皮膚を切った。力ずくで肉を切った。背骨を削った。吹き出した血はいち度空へ上がってから落ちてきた、ゆっくり。
 そのとき。聞こえる全部、言葉の全部、頭の中全部が悲鳴。私は悲鳴。赤く沸騰して輪郭がとんだ。
 すぐ、紫の平板な板、静かな板になった。頬の下のアスファルトと倒れている私。路面と私、存在の様子が似ていた。見たところ、私は半分ねじれて血の中に突っ伏していた。大破した車の中で、お父さんとお母さんが笑って死んでいた。ほんとうに笑っていたかどうかはわからない。そういうふうに見えた。

 お父さんとお母さんと、車と私の体は迅速に片付けられた。色々な工程を踏んで何処かできちんと処分されている。
 るるるるる。歌われて音符のような、私たち。
 人生は神様のアイディア、夏空にかえる。メガネスーパーの看板と入道雲が重なる空。電線。電話線。やはり眩しい。

 今、うつむいて足もとを見ている私。私の、体のようなもの。
 そこから後ずさってみると、背中は割れている。割れ目からむりむりと押し出されてくる、ピンク色の肉塊。血にまみれて柔らかい。路面に落ちてべちゃっと潰れた。私の自己愛というもの。その後から、茶碗の欠片が少し、折れたハサミと髪の毛のからまったヘアーブラシ。古い文庫本とセブンイレブンのビニール袋。片方だけのソックス。どろっとした血と一緒に落ちた。
 振り向いた私。私の顔も笑っている。死んだ人が笑うことに意味はないようだ。

 私が振り返る。別の私、鴉の私は翼を開いて降下した。私の背中に爪を立ててとまる。翼を畳む。背中の断裂に嘴から潜り込む。私が私を啄むため、しきりと首を振りながら。私、食欲旺盛。私は私の貪欲に身を任せる。削り取られる愉楽と。満たされる快美と。
 腐肉、恍惚、腐肉、恍惚、腐肉。
 私はゴミ、めくるめくまでゴミ。
 私を突き抜け、食い破り、鴉の私が突き出した首を捻って見上げると、包まれた瞼の隙間から、私の眼球が、少しだけ覗いている。漆黒の瞳、金色のふちを持つ虹彩。

 雨が降る。鴉は雨の使い。

 私が雨を降らせている。今は私が、風のない町にぱらぱらと降り注いでいるものの正体だ。
 山の稜線に交わり、街路樹の繁茂に重なり、屋並みにしたたり、蜘蛛の巣に絡め取られ、あるいはまた鳥の姿を得て、屹立する電柱の頭でああと鳴く。漆黒の翼は月のない夜と変じ、貪婪な嘴は町に番うものの精気を啜る。お、情欲に腰が震える、背筋から北極星まで一気に震える。雨の水紋を崩し、神社の池の鯉が浮き、墓地裏の沼の鯉が沈みながら、私の食道、私の胃、私の腸管をずるずると時が流動する。両腕で乳房を抱けば発せられないやおよろずの言葉が町に充填される。生垣の根元から百足が這い出し、ピカピカと甲殻を光らせながら足を蠢かすとき、放送局の電波が私の体を抜け、私は参議院議員選挙、山形三区の開票状況について速報する。「続いて自由民主党選挙対策本部からお伝えします。」と唇が動いて地鳴りの音と重なる。発光、雷同。遠いところ、無数の波の跳躍。
 もう私、地霊になってしまった。



 予備校のかえり道、自販機でコーラを飲むときに見た。路側の花束と、横に立つ津田さん、あなたのようなもの。
 あなたは笑っている。口だけ笑っていて、開いた眼に瞳がない。
 僕はあなたが好きでした。僕らのクラスでは木部と杉浦、四組では三浦があなたのことを好きだった。それから僕の知らないでいる何人かも、たぶん。ただ、あなたはもう燃やされて、思い出とか何とか、人ではない、わけのわからないものに還元されている。死とは実体を持たない抽象的な概念だ。そうやってあなたが、どんなに生前の姿を保って立ち続けていても。
 夕闇の中を山から雨が近づき、ライトを点灯したバスがやってくる。あなたを残してバス停へ走り出す僕。
 僕は変容していく。津田さん、あなたも、木部も杉浦も三浦も。死者も生者も変容していく、そのことに変わりはありません。

文学極道

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