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作品 - 20100614_308_4470p

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


「六月」もしくは「青いポロシャツ」

  右肩

 六月が始まった。覗き見る指の間から指の向こうの景色が生まれ、それはどうしてもやるせない。水に無数の島山が浮かぶ奇景だ。雨の匂いがしてしまう。僕は泣きたくなる。泣きたい、という衝動が連なり、小さな太鼓を鳴らして行進する。
 音には緑の蛇が巻き付いていて、死んでしまえと赤い舌を出している。言われなくとも僕は死ぬ。手足二十本の指に二十個のほの白い爪を持つ人間、そんなつまらないものに過ぎないのだから、僕は。六角形の恋が、目の隅の黒い機械から転がりながら出てくる。箱に詰められることもなく、ため息とともに広大な世界に拡散して見えなくなるもの。もしくはそれは、昼餉の後のさびしい空白の時間、後頭部に飛んでくるひらひらした影の気配。昨日、吊られるように跳ね上がり、コッカースパニエルが追いかけていたあれがそれだ。そんなものを追わなくとも、どうせ僕らはばらばらに飛んで散っていく。「僕ら」と僕は言い、突っ伏して言葉をぐいと喉に詰まらせ、後はもう一切何も言えなくなる。目を閉じると六月でも何月でもない空が動かし難く、かつあいまいな色彩で体を覆い始める。色の呼び方を与えられない雲。雲。雲に連なる靄。
 家々の屋根で太鼓が鳴っている。

 かつては「あらかじめ失われている」という言葉が好きだった。今は痛み以外の何もかもが僕から失われようとしていて、僕以外の人々はみなガラスの目で、空間としかいえない空間を見ている。素敵だ。泣きたいという衝動たちはそれぞれ小さな潜水艇に乗り込んで辛い海底の風景を漂い始める。泥の上にわずかに石が乗るだけの、単調な起伏が続く海底。太鼓の音はそこでつぶつぶとした小さな小さな泡になってしまう。水の中をとりとめなく浮き上がっていくためだけに。それもそれで素敵だ。が、ちっとも美しくない。

 「愛は手続きへ解消してゆく。」カフェの窓の下に車が見える。その、ハンドルに被せられていたタオルが言った。タオルの下をくぐり抜けてフロントガラスに居所を移した羽虫も性という手続きを負っている。「では、虫の愛はあらかじめ解消されているのか?」椅子の上で組んだ足の、汚れたスニーカーの先に魂をひっかけておいて、体はひたすら老いる練習を繰り返している僕が聞く。タオルは黙って吸い込んだ汗を咀嚼している。僕のテーブルに置かれたアイスコーヒーのグラスが答えた。「犬に仏性はあるのか、という問題と似たような形式がその質問にはある。それだけだね。」と。車の羽虫がふっと飛ぶ。しかし閉じられた空間に出口はない。今度はカーエアコンの吹き出し口にとまる。フェイスタオルには「I LOVE SPORTS」と書いてある。車の種類は〇二年製の商用ワゴン、トヨタプロボックスだ。目前のアイスコーヒー。グラスは実はほとんど空で、溶けかかった氷がわずかに残る。凝結した水分が玉となって付着している。そんなこんなの辛さ。乾いた涙腺が震えるだけの辛さ。

 僕のかわりに誰かが泣く。美しく泣くのは本当に難しい。泣くのは人に任せよう。その人が、今あそこにいる青いポロシャツを着た、腕の太い大柄な男性でも良いし、そうでなくてもよい。いずれにせよ、彼は僕よりもしっかりと、ちゃんと泣けるにきまっている。彼の人生については何も知らないが、そうにきまっている、と考えなければもう僕は生きていけない。
 六月の島山が、とうとう光を浴びることのないまま僕の目の裏側で夕闇に沈もうとしている。やるせなさも終わる。午後二時半のこの場とは関係なく、僕は幻視の中の一日を早ばやと閉じてしまう。指を広げる。広げた指をまた閉じる。その指の向こう、ああ、どうにも辛そうな表情で、青いポロシャツの男はトレーに乗せたキャラメルマッキアートを自分のテーブルに運んでいる。辛そうなふうに見えてくるのだ。彼こそが本当の悲しみを泣く。
 希望は僕の知らない場所にしかないのだから。

文学極道

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