柿の若葉は一枚残らず光に浸り、濡れていた。よく光る、舌に甘い若緑の幻惑。人生は甘い、どう考えても。いや、実は何も考えていない。
僕は柿の木の下に仰向けの形で倒れ、五月の晴天に向き合う。得体の知れない記憶。それが若葉の向こうから透けてくる空だ。僕は何も考えていなかった。
ただ慕わしいのは、ひとつの葉の表を這っている蝿の影だ。輪郭の不鮮明な影が裏側に透けている。六本の肢を張り動かない。または、思い出したように微妙に前進しようとする。叢に隠された猫の死骸の、半開きの口から羽化した群体の突端が、柿の葉の上にあって音のない微細な揺動をともにしていた。かつて真珠色の蛆虫であった、それが。
そういう白さに連なる皮膚が、裸の重量で僕に覆い被さっていたことがある。湿り気を持ち、絶えざる流動を内部に包含するもの、その外形としての女性。彼女は今でも僕の脳の特定の領域に浸透している。脂の塊のように白い脳の、言葉で説明できない秘所に、だ。だから、目を閉じるとあの時と同じに彼女が僕に重なってくる。ひしゃげた乳房が僕の体の上を滑り、動きの中で乳首と乳首が触れあったりもする。太腿の上に太腿が乗り、崩れて交錯する。とても気持ちいい、などとため息のような言葉も耳に流れてくるが、もちろん、今僕のペニスは下着の中でただ尖っている、それだけのものだ。
目を開けば、まさに蝿が空に飛ぼうとしている。蝿は小さなペニスであり、広大な空へ無防備に孤独を曝して飛ぶ。猫の死骸の、赤黒い肉の裂け目へ帰るのだ。帰るのならば、という仮定の中で、僕もまた彼女の断裂の中にのめり込み、互いに温かく残響する快感へと感覚を返すことができる。
もうどこへも帰らない、と彼女は囁いてそのまま僕の耳朶をしゃぶった。舌先を起点として総てが曖昧に濡れている。重なって二人、揺動をともにする。それから彼女の肘がベッド脇のキャビネットにあたり、分厚いガラスの灰皿が落ちた。絨毯の上の、そのごとんという音が再現し、それが僕の意識に優しく手を当て、若葉の下の肉身へ押し返してくれる。
若葉の季節は、生まれたての光の季節だ。遥か遠くの海が眼球の裏でうねっている。波の起伏の中で光が呼吸し、得体の知れない記憶、僕の総ての感覚はその広大な幻から流れ込んできている。
(僕は上半身を起こした。柿畑の緩やかな斜面の向こうは、弟夫婦の家だ。そうだ、弟夫婦の家が見える。大きなダンボール箱のような家の中に、使わない時にはきれいに畳まれて、セックスが収納されている。弟は今頃は勤め先の設計事務所でCADのモニター画面に向かい、その妻はボランティア活動先で古着の仕分け作業をしている。社員旅行でハワイに行った時、マカデミアチョコ一箱、傾けると軸にヌード写真が浮き出るボールペン一本を土産にくれた弟。僕は立ち上がる。だが、本当に「弟」は存在するのか。
ハワイに行って土産を買ってきたのは僕で、がらんどうの空間でぽつねんと暮らしているのも僕だ。そもそもこの僕は「弟」夫婦の性的妄想の具現化かも知れない、と思いながら立ち上がり、ズボンの尻をはたく。ポケットに手を入れてみると、タバコの箱のかわりにハーブキャンディが数個入っていた。)
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作品 - 20100526_982_4421p
- [佳] 若葉は濡れている - 右肩 (2010-05)
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若葉は濡れている
右肩