やわらかな水
になることも
できず私は今
日もあなたを
潤すことがで
きないでいる
手をにぎって
欲しかったの
ただ指先にふ
れてくれるだ
けそれだけで
とつぶやくあ
なたの枯れて
しまった涙ほ
どさえにもあ
なたを満たす
ことができな
い私は未だ決
してやわらか
な水ではあり
ませんでした
あ、あふれています
もう、とどめようが無いのです
私たちは溢れているのです
手遅れでした
口づけをするには 遅すぎました
あなたが どこか遠くへ行ってしまう 前に
私 は、
距離感を失いました
あなたに触れることさえも
できないのです
せめて水面の奥底
かすかに映る あなたの顔を
壊さないで下さい
指先で水面に
触れた瞬間す
べての湿気は
私たちが愛し
合った日々に
変りあふれだ
し私はそれで
も決してやわ
らかい水では
ありません。
最新情報
2010年05月分
月間優良作品 (投稿日時順)
- みず (MiZu) - 葛西佑也
- すべり台をさかさにあがる - はなび
- Ending - yuko
- 水晶 - ゼッケン
次点佳作 (投稿日時順)
- 自警 - パン・おべんとう
- 雲 - ゼッケン
- 追憶の冬の日暮れの物語死にたる猫と川を旅せり - 右肩
- 渇いた失語で緯度もない - ただならぬおと
- M子の近況 - debaser
- G - yuko
- 若葉は濡れている - 右肩
- ちいさく ちいさい ちいさくて - 葛西佑也
* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。
みず (MiZu)
すべり台をさかさにあがる
わたしの恋人はすべり台をさかさにあがる
さかさにあがる景色のすみに砂場が見える
砂場のかげにスコップが見えるスコップの
向こうにちいさなちいさなあなたが見える
そうしてわたしの恋人はすべり台をすべる
すべって砂場に滑り落ちる滑り落ちて膝を
すりむいて泣いている泣虫を夕日がさらう
サイレンがわらうさらわれた子供達のかげ
すべり台をさかさにあがると怪我するのよ
でもおもしろいよ上からすべるとさかさに
あがるがぶつかるとはな血がでるんだぼく
鉄棒にぶら下がっててもはな血がでるんだ
わたしの恋人はすべり台をさかさにあがる
よくみると子供達は皆さかさに遊んでいて
さかさに遊ぶものたちに許されている景色
わたしの体を通り抜けてサイレンがわらう
Ending
紺青にけぶる空を薙ぐようによぎる、小型の戦闘機は燈色に燃える閃光をつれて。ゆっくりと浮き上がりはじめた海面に、硝煙にむせた妊婦たちが次々に溺れていく。あなたはやわらかな耳朶をふるわせて魚道を探す。冷たい海のそこを、天色の目をしたこどもたちがパレードのようにつらなって、透明なからだに透ける無数の静脈がふつふつと、沸騰しているよ。きみたちの削ぎ切れた甘皮がビルとビルのすきまをやさしく埋めていく。
*
白い鳥たちが残した羽を、ひとつひとつ空に、縫い付けていく配達夫たちの横を、僕はパラボラアンテナを背負って、そうだね、今世界は一番綺麗だと、つぶやきながら階段を昇っていく。平らかな海にぶつかって、つぶれる骨の音は新しい光のために。ねえ、そこでここで、高い建物から順に、倒壊していくのが見えるよ。海面は上昇をつづけ、境界がほろほろと崩れていくせかいで、ぼくの輪郭もまた螺旋状に崩れていき、行き場のない悲鳴がそこここに反響している。
*
弱いピストルが銃声を鳴らして。無数のあなたが空へ、飛び立っていく。乱立するビル群がうす青く発光するので、たまらなく飛び降りていく生き物たちの、鼓動が僕を抱いて、もつれた足を甘く噛む。耳の奥底を水が流れる音が聞こえるかい。海面の暗さがあなたの瞳に似て、反射する赤い光に僕は誘い込まれてしまいそうで足をはやめて僕は、海の深度をはかる正確な計器になる。
*
空を切り裂いていく、あなたがよく左耳につけていたピアスのような形の舟までもが飲み込まれていく海に空に朝に夜に。こどもたちの隊列はよりいっそう長くうねり、その熱が海をぼこぼこと唸らせる。浮かんだ妊婦たちの放射状にのびた髪は色がぬけてまるで花のようで、僕の背中のアンテナは狂った電波ばかり受信してもう使い物になるのかもわからない。瓦解するせかいの音がこだまする、僕たちの終焉を抱いて。
*
あなたを越えて僕はここでさいごの生き物でありたかった。戦いを終えて着床したばかりの精子たちまでもがみな死んで、あらゆるが破水して羊水がせかいを埋めていく。そうだ、僕たちははじめからだれもゆるされてなどいない。そんなことははじめからわかっていたんだよ。目の端を彗星がよぎる。すべてが壊れて今、あなたの鼓動だけが耳に遠い。
水晶
マミー’ズ・マムの店では
ぼくをミイラにしてくれる
ぼくは即身成仏コース49日間を選択した
頭蓋穿孔をオプションにつけた
三角形のアクリルの板を4枚貼り合わせただけの
頭に載せるピラミッドのミニチュアはサービスだった
ブルーとイエローとピンクの中からピンクを選んだ
ぼくは茶目っ気があるとマムに思われたかった
当日、言われたとおり頭髪を剃り落としてきたぼくは
店の奥の小部屋に通された
部屋の中央には床に釘付けされた椅子が一脚ぼくを待っていた
椅子の座面には穴が開いていた
あそこから排泄するのだろう
ぼくは血栓が生じるのを防ぐ弾性ストッキングを履かされた
それから椅子に縛り付けられる
マムは点滴の袋を金属製のスタンドの先にぶらさげながら言った
楽しんでね
頭蓋骨を削られている最中にぼくはすこし酔った
ごりごりという振動が頭の中いっぱいに広がって
眼球を裏から押したからだ
それ以外はとくに不快感は覚えなかった
マムにピラミッドのミニチュア(ピンク)を
穴を開けたばかりの頭頂に載せてもらった
似合うわよ
ぼくは少しばかりの愛想笑いをマムに返した
眠かった
点滴にそういう薬が入っているらしい
49日間をかけてぼくはこれからミイラになる
方法は複雑ではなく、基本餓死だが、
最初は水分と養分を点滴で補給される
意識を維持したまま
ぼくは7週間かけてじゅうぶんに肉を失っていく
死のスピードを上手に制御し、過程を可視化する
ぼくは変貌するだろう
死に始めてから2週目、ぼくはいまだに腹が減っていた
それから幻覚ばかりみていた
声も聞こえていた
穴を開けた脳の表面を何かが這っている
腐ったのだろうか
ぼくはマムに尋ねた
マムは心外の意を表明する皺を眉間に寄せて言った
違うわ、根を張っているの、いまは
それからいまに立派な世界樹があなたの頭のてっぺんから
伸びて世界へと枝を張り巡らせる
ぼくはたぶんマムに言ったのだろう、そんなことになったらピンク色のばかげた
小さなピラミッドのミニチュアが世界樹の頂で風にぶらぶらと揺れるんだね
夜の雲の上を飛ぶ国際線の飛行機の窓から
揺れる三角形のアクリルが月光を反射しているのを見る
5週を過ぎた頃、部屋にぼくとマム以外の他人をマムが連れて入ってきた
スーツを着た男たちに囲まれて腫れ上がって痣だらけの顔をした、
わずかに残った黒髪からアジア系だろうとは思うが、
性別の見分けのつかない人物を
事務用の折り畳み椅子を持ってきて
ぼくの前に座らせた
お願い、視て
薄くなった瞼は開かなくてもすべてがぼくには見えていた
ぼくはその人物を見た
何かを視た
ぼくの口から果てしない桁数の数字が流れ出る
人物がぎゃあ、とわめく
男たちに連れ出されていった
ありがとう、マムはしかし、その指先は
ぼくに触れなかった
7週目に入ってマムは最後の点滴を外した
いよいよ行くのね、寂しい
マムは部屋の電球を消し、扉から出て行った
ドアを閉めるときにいちど振り返った
ご利用ありがとうございました
一礼してマムは小部屋の扉を閉めた
カチリと外から鍵をかける音がして
ぼくは暗闇の中で思った
うそをつけ
マムはぼくをいちどだけ道具として使った
支払わせなければ
ぼくは干からびた舌先の肉を噛んだ
血はわずかに出た
ぼくは薄くなった肉片を噛み切った
心臓が光を放った
噛み続けよう
これでじゅうぶんだ
一週間後、ぼくの脳天から伸びた世界樹が星の侵略を開始する
人々は
それぞれの葉っぱの上でいままでに食べた分の皿を洗わなければならない
自警
始まりも終わりも予感できないし
落ちる花びらは、拾わなかったことのほうが多い
私は開業する
この森に少し入る
沈みゆく船は誰のせいなのかを見つけに
なぜだろうか
真夏に焼かれたプラットホームが、ひどくまぶしいのは
縁台にあがった猫が、たったいま居た場所を振り返るのは
朽ちた倒木のうえで、羽虫の群れが影を刻み
戻せない時間の行方を追っていた
かつて海流だったものは、もはや瀕死でむしろ食べ頃
みずみずしい体温を、いま
手放さなければならないという悲劇が
光を放つ
ふっと飛び立つような気配で
ああ飛べないのだという驚きを、全身で放っている
玄関にくたびれていた、父親の靴
革靴のしわ
目をつむって、もう繰り返さないから、と誓った
無口だった自分がずっと悲しかった
涙だけが、騒がしく
沈黙という名の信仰を、まぶたが破れるほど守っていた
今朝、飲み口の欠けた器で
くちびるが切れたことを、不意に思い出して笑う
今日はやけに重たい服を着ている
まるでゼロで割るふうに、そんなことを考えてみる
飛び立つような気配
目の前に横たわる職務
咳をこらえる
森が一斉に歌いだす前の、
たったひとつの静けさのために
雲
窓を見ていた
ぼくが動かなければ窓も動かないようだった
一間しかないフローリングの床にぼくの首は転がっていた
見える範囲で窓を見ていた
ガラス越しに視界は流れない雲で充填されていた
真空パックの光沢で密封されていた
ぼくの首が、あるいはぼくの首以外が
ビニルの皮膜で包まれていた
そろそろ猫が鳴く時刻だろうと思った
部屋にはもともと猫がいないことを思い出した
猫好きだったことなど一度もなかったが猫のことを思った
すこし悲しい気持ちになった
ぼくは自分をすこし悲しくするのを好んだ
感情的沈黙に耐えられない
水面から水滴が撥ねる
ぽちゃんと音を立てて元の水面に落ちる
世界はそうやってあした終わるそうだ
ぼくとかがふたたび水面に落ちて無秩序に溶け合う
果てしない自由度を持った光速の運動体になる
ぼくとかはなんとかと見分けがつかなくなる
個性と自由は相反する
それがあした起こる
そんな日の前日は
にゃーと鳴く
すこし悲しくなった床にぼくの首は転がっていた
コンタクトレンズがついたままの眼球を動かすと
天井はまだある
見慣れない白さだった
床と天井の区別はまだあった
キッチンのテーブルには
ガラスのコップが置かれたままになっている
場所と物が互いに近くなり始めている
記憶からガラスのコップに水を注ぐ
白くなっていく天井壁床
椅子机首、いっさいが白くそして低くなる
色のある花を一輪、
白い部屋に挿した
花の名前は分からなかった
あの花の名前を知らないぼくを置き去りにして
天井から窓の外へ
首の視線は移った
名前のなくなる日の前日
花の名前を探さなかった
悲しいことがなにもなかった
いっさいが白くそして低い
部屋が
雲を見ていた
追憶の冬の日暮れの物語死にたる猫と川を旅せり
僕に四歳以前の記憶はない。だから、三歳の僕が夕焼けに呑み込まれて真っ赤になった町に立っていたというのも、本当かどうかはわからない。ただ、眼窩から大きく目玉が飛び出し、ひしゃげた胴体の下腹辺りから内臓をはみ出させたびっこの三毛猫に対する愛情は、彼の実在が本当であるか否かにかかわらず本物だ。彼は頭蓋の割れ目から鼻まで滴る脳漿をしきりに舐めながら楽しそうに歌を歌っていた。
「ねこねここねこ、こねこねこ。いぬいぬこいぬ、いぬきつね、ねんねねんねこ、ねこまんま。」
すり寄せてくる体の毛並みが心地よく暖かい。傷口から覗く白い骨。泥濘から伸びる茎の先の、白蓮に似た匂いがする。
猫と僕は手を繋いで、真っ赤な町の真っ赤な商店街のアーケードを通り抜けた。商店街に人気はなく、どの店でも神仏への供物が売られている。道の突き当たりの堤防まで来て、猫の手を借りて引き上げてもらった。ひときわ赤い川が流れ、ざざざ、ざざざと枯れ薄が波うつ。それから僕らは河原を歩いた。無数の烏が舞い上がり、飛礫のように小さくなって、また降りてくる。川の上流は氷の国で、そこでは夕日も氷の森に閉じこめられ千年間虚しく赤いのだろう、と、僕らはそんな話もしたかしれない。この地方でも、その冬の寒さは格別であったからだ。やがてさらさらと雪も降り始めることとなる。脂の乗った暖かい焼き魚が食べたい。猫と僕は無邪気にそんな話もした。寒風に身体が痺れてくると、何もかも楽しいからだ。
その後の、三歳の僕と猫の行方は知らない。それはこの物語が不断に進行し続けているためなのだろう。僕は時々そう考える。
渇いた失語で緯度もない
白御飯に吹きつけられる
その吐息に巻かれたかった
僕は箸をおく
きみは今なにも見なくていい
僕は箸をとる
言葉が自ずと
推敲されてゆく思いがして
たまらず口走る
僕は失くしたい
それがなにかも判らないのに
僕は時間を喪うことから考える
食卓の木材から
触れあった足の爪まで苔産して
腐朽した米をきみが口に詰めたまま
老いて舌が垂れさがっている
干乾びた麦茶を
僕は持とうとして
指が痙攣する
きみが
死にたいと言う
風に運ばれて
やって来ては居なくなって
その風をも運んできては
やがて居なくなる
それだけを
ひたすら待っていた気がする
僕は周到に抱えてきたつもりの言葉が
一つもなかったことに気付く
醤油に浮く脂と脂の円い境目を
なぞる僕の箸があたって
焼魚の
今にもまだ動きだせそうな枯骨
きみは今なにも見なくていい
茶碗が湯気を吹く
僕は箸をおく
なみなみと麦茶を注ぐ
きみは今なにも見なくていい
自分に監視されているような
異和感をとり払った手の甲に
涙がついている
M子の近況
近くまで来たM子から連絡があったので
駅前の喫茶店で久しぶりに会うことにした
M子は最近飼い始めた猫の話と
田舎の母親が大病を患って
看病を任された妹から毎日のように電話が掛かってきて
あんまり眠れないのよとそんな話をした
外は雨が降っている
えっと火曜日の午後だっけ
かつて妻だった女は財布からしわしわのレシートを取り出し
それをコップの縁できれいに伸ばしていた
天気予報のお姉さんのように清楚な人が
向こうのテーブルで回転椅子に縛られ
M子はそれを昔の自分みたいに無残ねえと笑った
それに妹が死んじゃったらわたしたちっていっかんのおわり
喫茶店にいるM子と
猫に名前をつけないM子と
それからみんなの知っているM子と
本当のM子はどーれだ
会話の合間には
ストローから互いの空気を吹き込んで
いろんな人形を膨らました
次の太陽電池は
22時を過ぎているのにこの明るさ!
と驚いて
ぼくたちは外に出る
無数のマンホールを避け
最寄駅へつながる道を行った
ぼくとM子はプラットフォームで電車を待ち
M子はハリウッド行きの電車に飛び乗り
ぼくはそれと反対に向かう電車に飛び乗った
車内は朝の混雑がとっくに緩和され
ぼくたちがかつて愛用していたシルバーシートには
知らない人がたくさんいて
M子は元気にやっているかと訊かれる気配がないので
そのM子なら元気にやっている
しかしながらそのM子の母親は大病を患っている
看病を任されたのはそのM子の妹
そのM子は最近猫を飼い始めた
猫の名前ならそのM子が知っている
それから他愛のないいくつかのことを彼らに伝え
白昼の吊革にぶら下がるために
そろそろ立ち上がるつもりなのに
頭という頭がぼくを抱えてしまっている
G
降り積もる雪の重みに
夜が
耐えきれず落ちていく
そうして彼女らは埋もれていくのだ
ひるがえった真夏の
影を踏んだあなたと
鳴くこともなく
死んでいった虫たち
絶えず
流れていくものに
足首まで浸して
スカートをたくしあげて叫んでいた
首筋を
太陽が焼く
かつて
わたしたちは自由だった しかし
その陰で
すべてはすでに失われ続けていた
、失われたのだ
柔らかい肌の少女が
刺を踏みながら歩いていく
その跡を
血が流れない
わたしたちは
見て見ぬふりをする
こころの弱いわたしたちはあなたを知らない
知ろうともしない
そして
雪のなか傘を点す
夜の底を
掃き
清める彼女らの
いのちの影が
揺れて
ろうそくは消え
ただ
うだるような暑さが
ひとびとを圧し
広大なビル郡は
光を
反射し続けている
地中を
水が流れ
小さな
小さなわたしたちは
しめやかに
根を張り
その上に雪が積もる
若葉は濡れている
柿の若葉は一枚残らず光に浸り、濡れていた。よく光る、舌に甘い若緑の幻惑。人生は甘い、どう考えても。いや、実は何も考えていない。
僕は柿の木の下に仰向けの形で倒れ、五月の晴天に向き合う。得体の知れない記憶。それが若葉の向こうから透けてくる空だ。僕は何も考えていなかった。
ただ慕わしいのは、ひとつの葉の表を這っている蝿の影だ。輪郭の不鮮明な影が裏側に透けている。六本の肢を張り動かない。または、思い出したように微妙に前進しようとする。叢に隠された猫の死骸の、半開きの口から羽化した群体の突端が、柿の葉の上にあって音のない微細な揺動をともにしていた。かつて真珠色の蛆虫であった、それが。
そういう白さに連なる皮膚が、裸の重量で僕に覆い被さっていたことがある。湿り気を持ち、絶えざる流動を内部に包含するもの、その外形としての女性。彼女は今でも僕の脳の特定の領域に浸透している。脂の塊のように白い脳の、言葉で説明できない秘所に、だ。だから、目を閉じるとあの時と同じに彼女が僕に重なってくる。ひしゃげた乳房が僕の体の上を滑り、動きの中で乳首と乳首が触れあったりもする。太腿の上に太腿が乗り、崩れて交錯する。とても気持ちいい、などとため息のような言葉も耳に流れてくるが、もちろん、今僕のペニスは下着の中でただ尖っている、それだけのものだ。
目を開けば、まさに蝿が空に飛ぼうとしている。蝿は小さなペニスであり、広大な空へ無防備に孤独を曝して飛ぶ。猫の死骸の、赤黒い肉の裂け目へ帰るのだ。帰るのならば、という仮定の中で、僕もまた彼女の断裂の中にのめり込み、互いに温かく残響する快感へと感覚を返すことができる。
もうどこへも帰らない、と彼女は囁いてそのまま僕の耳朶をしゃぶった。舌先を起点として総てが曖昧に濡れている。重なって二人、揺動をともにする。それから彼女の肘がベッド脇のキャビネットにあたり、分厚いガラスの灰皿が落ちた。絨毯の上の、そのごとんという音が再現し、それが僕の意識に優しく手を当て、若葉の下の肉身へ押し返してくれる。
若葉の季節は、生まれたての光の季節だ。遥か遠くの海が眼球の裏でうねっている。波の起伏の中で光が呼吸し、得体の知れない記憶、僕の総ての感覚はその広大な幻から流れ込んできている。
(僕は上半身を起こした。柿畑の緩やかな斜面の向こうは、弟夫婦の家だ。そうだ、弟夫婦の家が見える。大きなダンボール箱のような家の中に、使わない時にはきれいに畳まれて、セックスが収納されている。弟は今頃は勤め先の設計事務所でCADのモニター画面に向かい、その妻はボランティア活動先で古着の仕分け作業をしている。社員旅行でハワイに行った時、マカデミアチョコ一箱、傾けると軸にヌード写真が浮き出るボールペン一本を土産にくれた弟。僕は立ち上がる。だが、本当に「弟」は存在するのか。
ハワイに行って土産を買ってきたのは僕で、がらんどうの空間でぽつねんと暮らしているのも僕だ。そもそもこの僕は「弟」夫婦の性的妄想の具現化かも知れない、と思いながら立ち上がり、ズボンの尻をはたく。ポケットに手を入れてみると、タバコの箱のかわりにハーブキャンディが数個入っていた。)
ちいさく ちいさい ちいさくて
昔から方向音痴だった。『なんとか通り』に面している建物です
だなんて言われても、道の名前なんて覚えていないし、自分が何通
りを歩いているのか分からなくて、いつまでも目的地にはたどり着
けなかった/ずっと前から探し続けている思い出も、『なんとか通
り』に落として来てしまったらしいのだけど、見つからなくって新
宿の伊勢丹まで買いに行った。似たようなものを見つけてもメイド
イン外国だったり、妙に高級感があったりでぼくが探しているやつ
とはなんかが違っていた/国産で庶民っぽくて値段もリーズナブル
だったという記憶だけはあるのだけれども、形だとか色だとかは全
く思い出せなかった。
満員電車にゆられてクタクタになって家に帰った。渇いてしまっ
た口の中を潤すために、冷蔵庫を開け閉めしたり、食器棚からコッ
プを取り出したり、そんな日常的な動作のひとつひとつがなんだか
妙に可笑しく感じられてひとりで小さく笑った。これがちいさな幸
せなのだとしたら、いつまでも続いて欲しいなと切実に思った/テ
レビの上に飾られた写真をずっと眺めていたら、写真の中の人々が
動き始めたように感じた。それからはじめて、ぼくたち家族四人が
写っているのだと分かった。いつの写真なのかは思い出せなかった
けれど、なんとなくこの写真に写っている場所が『なんとか通り』
な気がした。今日の夜ご飯はクリームシチューだというので、ぼく
も野菜を切る作業を手伝おうと思った。おいしくなあれ、おいしく
なあれと、小躍りしながら、時間は止まらずに流れ続けている。