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作品 - 20100423_199_4339p

  • [優]  春練 - 坂口香野  (2010-04)

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


春練

  坂口香野

真昼どき
田中の道で
なで肩、というかすべらかな円筒形をした男が
さっきからしきりに話しかけてくるのだが
わたしはこのひとをたぶん知らない
風のリボンはつめたく
脳天には発育不全の白髪が数本
その上を直射する日差しが熱い

足の裏から
ぷつぷつと湧き上がっているでしょう
サイダーの泡みたいなものが
ええ、と答える
そんな気がするし、そうでない気もするけれど
まぶたが重くて億劫だから

そのガスをね
止めないで
ずうっと充満させてごらんなさい
体中が細かな金色の泡に満ちてくる
ね 気持ちいいでしょう
ええ、と答える
小さい頃から
この感じはたしかに知っていたけれど
わたしはあなたを知らないのだ

ね そのまま
眉間の力をすっと抜いてごらんなさい
ほら 火がついた
髪の毛の先に
そう このガスは揮発性です
木々の梢に漂う薄茶色の靄
この季節 すべての生き物は
ひとしくこのガスを呼吸して
ひそやかに燃え上がっています
雀もヒヨドリも
あの可憐なメジロでさえ
微細な冠毛の先に萌黄色の火をともしているのです
流れを止めてはいけません
ね 金色の泡はあとからあとから
ちっちゃな虫みたいに這い上がってくる
くすぐったいでしょう
笑いたいですか
笑ってごらんなさい
さあ

ええ と答えてはまずいが
いや と答える無様さを思う
ええ と答えて消えてなくなりたい
その快感ときたら
血の池地獄で食らう極上シフォンのごとし
と最近生還を果たした友達がいった
その凛と張ったるひとみは巴御前のごとし
わたしにはあの真似はできない
わたしには覚悟がない
だいいちわたしは
この男を知らないのだ

ふんっ、と鼻息でガスを押し出してから
あ、と声を出す
まだ声は出る
男はどうしました、といって
やさしくわたしの顔をのぞきこむ
ええと 今頃大変失礼ですけれど
あなたはいったいどなたでしたっけ
ああ失敬
申し遅れましたが
僕は笑ひ山のヤマカガシです
人間を辞めたくなったらいつでもご連絡ください
真昼どきの光の中
彼の輪郭はくたくたと足元の影に向かって折り畳まれ
横道へ曲がってすいと消えた

文学極道

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