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坂口香野

選出作品 (投稿日時順 / 全4作)

  • [佳]    (2010-01)
  • [優]  十三夜  (2010-02)
  • [優]  春練  (2010-04)
  • [佳]    (2010-06)

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


  坂口香野

ひとりがすき ひとりがすきとつぶやきながら
あなたはひっそりと歩み寄ってくる
いったいなにがしたいのですか

冬枯れの道を歩いてた
金色の光のなかを
前方からいろんなものが飛んできた
瀕死のルリタテハ
ぼさぼさ髪のヒヨドリ
最後尾よりまっしぐらに向かってきたのは
禿げ頭を赤銅色に輝かせたスズメバチが二匹
思わず顔をかばったところ
両手の甲をぶすり ぶすり
その切っ先は太く鈍くふとん針のごとしで
しびれた手はもげそうに重く
あたしは胴体までつめたくなりかけた
うう死ぬっすよこのままじゃ

ええ知ってますともあなたの言うとおり
ひとりはすてき
ひとりはごくらく
ひとりは100%クラウドウール製ハンモック
でも最後の瞬間だけはひとりじゃいやなのです
どうかそばにいてください
この冷え切った手をとってください
なんてね
しみじみと懇願
しじみと乾麺
椎の実とトースト

両手の穴は
まるで聖痕
あたしは殉教の聖女さま
といいたいところだが
どっちかっていうと粘土細工に開けた鉛筆の穴
まんまるで血の一滴も出てないし
なんのありがたみもありはしない
大丈夫? 大丈夫? 大丈夫?
心配そうにあたしの顔をのぞきこみながら
やれやれ、あなたはいま逃げ出したくてたまらない
それでいてあなたはいいひとでいたい
おばかさん
とっとと行っておしまい
ひとり乗り羊雲にのって行っておしまい

枯れ枝みたいなその手は火のように熱く
この世がぜんぶ消えてなくなっても
きっと忘れない
かつて、この手をぎゅっと握ってくれるひとがいて
その手をぎゅっと握り返したということを

ええとですね
できれば行く前に濃いめのコーヒーを淹れていってください
椎の実トーストによく合うんだから
うんわかった、とあのひとは仔細らしくうなずき
益子焼のマグカップになみなみとブラックコーヒーを注いでくれる
両手でマグを包んで温める
指先にかすかに血がかよって
手の穴をすきま風が通りぬける
羊雲がよろけながら目の前をはしる
(そのふちどりの黄金がつつましくひかる)
そんなにあわてなくたっていいのにね
ありがとう
さようなら


十三夜

  坂口香野

道は工業高校の前を通って
青渭神社の森へと続く
市民農園には大根が植わっている
春先の青首は塩によくなじみその薄切りは霙にも似る
酒蒸しにおけるあさりの断末魔および釈迦涅槃図との関連について
菌床しめじ社会における養分格差および古代原木への憧憬について、等々
ひょろ長い二本の脚でせっせと歩を進めつつ
君は熱心に話してくれる
ご自慢のパンクロッカー風ブーツはよく光っているし
お話はとても興味深いのだけれど
等々や云々がにょきにょきと並び立ち
雲がうようよ増えて空はすでに真っ暗だし
月はいまどこにいるのだろう

 繰言は果てなき千の海鼠雲
 君よ蹴破れ光浴びたし

うーん
どうかなあ
やってみてもいいんだけど
なにせ俺はアキレス腱が弱いしさ
こないだなんか右足の平目筋がひらっと砂にもぐっちゃって
足首がぶらぶらになっちゃってまあ、困った困った
知ってる? 平目って白身だろ
白身の魚って全身が速筋繊維なんだぜ
速筋はつまり瞬発力に関わる筋肉ってこと
砂に隠れて近づいた獲物を捕食する魚だから
すばやい動きが重要なんだな
だけど平目筋は遅筋繊維が著しく優位な抗重力筋、つまり赤身の筋肉なんだぜ
矛盾してると思わない?
そんなわけで動きの鈍い俺の赤い平目は
すぐまた捕まえられたんだけどさあ

いやもう君の話はわかりにくいし
わたしは空腹で目が回りそうなのに
天は食用に適さない鉛色の海鼠だらけで真っ暗だから
いますぐお願いしますよ、ええ
うーん
しかしなあ
俺こないだ平目に逃げられていらい右足に捻挫ぐせがあるし
中・高と帰宅部だったし
この靴だし
いいからいますぐ
アレグロビバーチェ・コンブリオ
はなはだ急速に活気をもってよろしく頼むわ、というと
君は小さく唸り
それでもきっちりアキレス腱のストレッチを行ってから
平目に逃げられていないほうの左脚で土を踏みしめ
ひょろ長い右脚を振り子の要領で蹴り上げた 
パンクロッカー風ブーツ(スコットランド製)がしずかに宙を舞い
海鼠の群れに吸い込まれていく
君はぽかんと空を眺め
私もぽかんと待ちたかったが
間が持たないので雑草をむしることにした
どくだみの赤い根は柔らかくまた深い
靴はきっかり三十七秒後に落ちてきて
大根葉の間を数回バウンドしたのち
すっくと土の上に立ち上がった
はるか頭上に肉眼で五円玉大の穴が穿たれており
そこから月夜の青がのぞいていた

君は得意そうに鼻の穴を大きくして
こっちを見ずにブーツの泥を払っている
ありがと、というと
そんだけ? という顔をする
だって驚くことじゃない
広辞苑にだって書いてあるよ
子どもは風の子だが
じつは男子は一生を通じて風雨の王であり
いついかなるときも大気を動かすことができるのだと
そんな記述見たことないぜ
ああ、これは辞書の本文じゃなくて
巻末付録の品詞活用表だとか旧国名地図とかの後についてる
「この世のしくみ」っていう薄い袋とじ別冊に載ってるのよ
ほんとかなあ
ほんとだよ

いまや群雲は靴穴を基点に真二つに裂けて
十三日目の月がそのつややかな輪郭をあらわす
空の道ははるかにひらけ
どこかの窓から青菜を茹でる湯気の匂い
ついでに言っとくと
女子の役割は日月のすこやかなめぐりを守ること
だからね あの月はわたしがのぼらせたのよ
そうか そいつはまことにお役目大儀
今宵はひとつ互いのわざをたたえあい
菜の花とあさりの辛子和えかなんかで
きゅっと一杯やろうではないか
異議なし、しかし
唯一残された問題はあさりの調達法のみ
空の浅瀬で獲れるものかどうか
菜の花はここに咲いてるのをちょっと失敬するとして
大丈夫、調布パルコの魚屋さんがまだ開いてるだろ
閉店は九時だよ
間に合わない
走るぞ
うん

 騒ぎ立つ雲の波間をゆく月は
 腹の底までpinkgold也


春練

  坂口香野

真昼どき
田中の道で
なで肩、というかすべらかな円筒形をした男が
さっきからしきりに話しかけてくるのだが
わたしはこのひとをたぶん知らない
風のリボンはつめたく
脳天には発育不全の白髪が数本
その上を直射する日差しが熱い

足の裏から
ぷつぷつと湧き上がっているでしょう
サイダーの泡みたいなものが
ええ、と答える
そんな気がするし、そうでない気もするけれど
まぶたが重くて億劫だから

そのガスをね
止めないで
ずうっと充満させてごらんなさい
体中が細かな金色の泡に満ちてくる
ね 気持ちいいでしょう
ええ、と答える
小さい頃から
この感じはたしかに知っていたけれど
わたしはあなたを知らないのだ

ね そのまま
眉間の力をすっと抜いてごらんなさい
ほら 火がついた
髪の毛の先に
そう このガスは揮発性です
木々の梢に漂う薄茶色の靄
この季節 すべての生き物は
ひとしくこのガスを呼吸して
ひそやかに燃え上がっています
雀もヒヨドリも
あの可憐なメジロでさえ
微細な冠毛の先に萌黄色の火をともしているのです
流れを止めてはいけません
ね 金色の泡はあとからあとから
ちっちゃな虫みたいに這い上がってくる
くすぐったいでしょう
笑いたいですか
笑ってごらんなさい
さあ

ええ と答えてはまずいが
いや と答える無様さを思う
ええ と答えて消えてなくなりたい
その快感ときたら
血の池地獄で食らう極上シフォンのごとし
と最近生還を果たした友達がいった
その凛と張ったるひとみは巴御前のごとし
わたしにはあの真似はできない
わたしには覚悟がない
だいいちわたしは
この男を知らないのだ

ふんっ、と鼻息でガスを押し出してから
あ、と声を出す
まだ声は出る
男はどうしました、といって
やさしくわたしの顔をのぞきこむ
ええと 今頃大変失礼ですけれど
あなたはいったいどなたでしたっけ
ああ失敬
申し遅れましたが
僕は笑ひ山のヤマカガシです
人間を辞めたくなったらいつでもご連絡ください
真昼どきの光の中
彼の輪郭はくたくたと足元の影に向かって折り畳まれ
横道へ曲がってすいと消えた


  坂口香野

あしたにはあえるのだ
と思ったら
心臓が身構えて
つるべをきりきりと巻き上げ
血はわざとらしくゆっくりと巡りだす
この風なら船脚は速そうだ
でも君の船が港に着くまで
時間は十分にある
今夜はうすのろの野良犬みたいに
たっぷりと眠っておかなくては。

最小限の力で穴をあけるには、錐の要領で押しながらねじ込むこと。夜の鰯雲は雨のきざし。どうにもならんよ、と歌いながら、君は脚漕ぎアヒルボートで傍らをゆく。黒い凪、後の月、銀製スプーンの櫂なんか放り捨ててしまえよ、と君が歌うと、手の中の櫂はとぷん、と気持ちよく沈んでいった。あらら、これでは困るじゃないの。知らないよ、と子供のように歌いながら、君はペダルを踏んでさらに沖へと漕ぎ出していく。おおい、どこ行くの、帰ってくるんじゃなかったの。ええい困った、本当に困った、救助を、できれば至急、と、櫂も帆もない小舟の上でおぼつかない手旗信号を振り回しているうちにサイレンのごとき黎明ブルー、
朝がくる。

朱の空
三角波
消えゆく星
静かな接岸
ひょいと踏み切る
波止場の板がぐわんと揺れる
差し出される手のひら
長距離を泳ぐ魚の背びれ
迎えうつ
抱擁する
消えてなくなれ、
私の体。

船の上では冷凍エダマメばかり、あとは海つばめを釣って食っていたのだそうです。つばめなんてどうやって食うのよ、そりゃ、こうかたはしから羽をむしって素揚げにするんだよ、手羽先みたいでうまいよ、嘘をつけ。ま、いいや、嘘でもなんでも。ほら、日が昇る。空の空色がはるか洋上まで澄みわたる。朝食はイワシの開きと赤カブの塩もみとひじきご飯だよ。え、それだけですか? はい、急だったんだもの。

蜂蜜金のトランペットが鳴っている
吹流しが馬鹿みたいにひるがえる
日に透けているくしゃくしゃの笑顔
これでいいのか、と叩きつけると
これでいいのだ、と跳ねかえり
腹の底へ音もなく着地する
おかえり
昼の月
粉々にこわれた
夢の化石
あたたかく
やわらかな
たいせつなひと。

文学極道

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