桜の精はガムを噛むのが好き。緑色の厚いジャンパー。前ファスナーを引き上げて一番上へ。その襟元、灰褐色のボアが首を巻く。「ロシアの密漁船で河口まできた。船、どこもションベン臭くて。まいったよ。」「仕方ない。頼んだんだろ?乗せてくれって。」と聞く。うなずいた。桜の精は鼻を啜る。口から出したガム。親指と人差し指でつまむ。しばらく見ている。その丸い塊を彼女は地球と呼びたいらしい。そうかな?「紳士的。あいつらは極めて紳士的だった。」桜の精は言った。体を売った、その具合が悪くなかったということのようだ。「お前はどうなの?」僕の方をちらと見て、言う。意地が悪い。首を回し、底の厚いゴム長靴をボコンと踏み鳴らす。ひゆっ、川へガムを放り捨てている。
東風の抜ける町。吹く。屋並みが震える。電線、テレビアンテナ。ほらね。ああ、みな震える。砂塵が立つ。桜、すべてが開く。砂。目をつむる。吹きつのる温かさ。こよなく温かいものせつないもの。せつない。傍らに立つ桜の精、男たちと肌を合わせてきた彼女の体臭。あらゆる女たちの息のにおい。桜の匂いだ。くらくらと視界のけば立つ幻臭。それだ。霾の中に。
歌っている、桜の精。「徐州徐州と人馬は進む」そりゃ何だ?「わからない。」
橋を渡る。コンクリートの河岸に散乱する、あれは乾いた魚。魚だね。海藻の破片。そうだね。どろんと暗い、水は暗緑色。吹かれる波、霾曇の海から逆流している。満潮。桜、咲く。咲くだろ?桜、散る。散るね?水面にひとつ、花びら。二つめの花びら。三つめ?四つめだよ。花の屑。屑。屑。花筏?波の起伏。そう、呼吸する。
「徐州居よいか住みよいか」歌う、桜の精。「往けど進めど麦また麦の 」「波の深さよ夜の寒さ」麦秋、まだ先だね。
桜の精はもうここにいない。ごぼ。ごぼぼ。ごぼ。やがて。白い空の闇。朝のふうな夜。満ち来る。くるくる。膨れあがる眼球。その、孕む諸々。昨日花びら、今日花びら。花を見る眼球。破裂。血を噴かす、花。吹雪く。
橋脚の下に放置された、古い木造船の舫綱を解き、僕は川を漕ぎ去った。朽ちかけた艪を握り岸辺の樹々を見まわしながら。水の落花は、漕ぎ行く舟の跡見ゆるまで。花さそふ比良の山風、そうかな?離れ去る僕を見送る。薄暮。白暮。どこにも着かないので、まだまだ漕いでゆくようだ。艪の音。左胸辺りの永い静寂。最も白く硬く、乾いた場所。別の場所、そこへも花の屑は吹き寄せられる。
*引用(「麦と兵隊」 作詞 藤田まさと)
*4月25日改訂しました
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作品 - 20100420_151_4333p
- [優] 桜の精と僕 - 右肩 (2010-04)
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桜の精と僕
右肩