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作品 - 20091231_591_4052p

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


クウキ

  右肩

 八月二十三日、病棟三階。廊下の窓からすぐ下を見ると、向こうは微妙に歪みを持つ木造アパートで、その狭い庭に蓬、茅萱が密生する。

 午後の直射日光から沈む混濁。混濁の草いきれ。

 芙蓉のひと叢は、屋外階段の先、二階の部屋のドア付近へ届こうとしていた。麻の開襟シャツにジーンズ姿の僕がセブンイレブンのレジ袋を持ってそこに立ち、病衣を着た僕と目を合わせる。

 その僕が立つ背後のドアのさらに背後、室内の上がり口には、扉付きの下駄箱があり、その上には丸い金魚鉢。蘭鋳が泳いでいる。

 鉢のガラスを隔てた蘭鋳の視野に衣料メーカーのカレンダーが掛かり、グアム島の海岸に立つ、白いワンピースの少女が八月のグラビアの中にいる。

 麦わら帽子を被り、こちらを見て笑おうとしていた。笑う直前の表情にまだ不安が残っている。

 金魚の視界で、映像は人の形を結ばない。茫洋とした色彩が染みつくだけだ。しかし、その中にも不安は飛散し赤茶色の細かい染みを作っている。既に秋の冷気を持つ点。点々。

 あらかじめ敷かれた軌道を、総ての生物と無生物が滑らかに遅滞なく移動する。

 たとえば病棟の窓へ舞ってくる菓子のビニール袋に書かれた「太子堂」という太文字。それがすすっと表意の役割から離れ、爪先できりきり回転しつつばらばらな言葉の隙間に落ちていく。そして光の裏側、闇の深みに音も無く吸い込まれると、もう戻らない。

 少し前、医者から再検査を言い渡され、ショックを受けた。命の終焉がドラマの形をとって動き出したように思えたのだ。サイドブレーキの故障した2トンほどの積載量を持つトラックが、ゆっくり坂を滑り始めたような気がした。もちろん、運転席には誰もいない。

 病衣の僕は窓に向かったまま、アパートの前に立つもう一人の僕に繋ぎ止められている。

 金魚の視界の中の、白いワンピースの少女が実体を失って世界を浮遊していた。空気の中に溶け込んで、誰にも見えず、感じず、何の影響を及ぼすこともない。それは人間の五感には既に捉えられない存在であった。

文学極道

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