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作品 - 20091223_404_4041p

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私家版・死者の書

  右肩

 ロードスターのトップをオープンにして走っていると、地上すれすれを飛んでゆく桃色の海月のようなものと擦れ違い、思わず身体をひねって振り返った。だから、僕はカーブを曲がりきれず激突し、死んだ。白いガードレールに車体が突き刺さる。僕の実体が大音響の真ん中で揺すられ、一気に肉体から外れた。最後に見たのは半分黄葉したイチョウの街路樹だった。それが破砕されて広がり、緑と黄色の無限のタイルとなった。タイルは猛スピードで攪拌される。攪拌されつつ視界を満たす赤い雲の懐へ、延々と、音もなく、なだれ込む。その破片の一群は、あれは僕自身なのだ。と、臨死の僕が理解する。子どもの頃神隠しの森で見た夕焼けの匂いがしてきた。激しく変形した車から、僕の動かない片腕が突き出ている。それが見えた。

 僕は、人間の数十分の一ほどしかない大きさの鳥人となって、雑然とした机上に置かれた白いコーヒーカップの縁に、外向きに腰掛けていた。何処の誰の机かはわからない。積まれて崩れ落ちたポストカードの束をすぐ下に見下ろしていたけれど、そこに書かれているのがどの国の言語かすらもわからない。僕にとってそれはもうどうでもよいことだ。コーヒーの匂いのする湯気が背中から全身を包み、僕の体はじっとり濡れている。たたんだ翼では、密生した白い羽毛の先へ、じわじわと滴が流れ始めているようだ。
 やがて女性が飲みかけのコーヒーを飲むため、やってくる。何処の国のどんな人種で、どんな顔をして何を考えているのか、僕は知らない。特に興味もない。ただ、性器の痛ましい乾き具合や、子宮で醸成される重苦しさへの共感だけがある。受胎告知をするにはそれで充分だ。処女が受胎し、僕がそれを告知し、そのあとに何か、大きな、意味の塊がこの世界へ繰り出してくる。それが何かは僕の問題ではない。何だろうそれは?

 部屋の窓から、青紫の山なみや蛇行する川のきらめきが見える。地形の起伏に沿って緩く波打つ麦畑。麦秋。正確に発声されるソプラノの旋律のような、麦の色。所々の立木がひらひらと新緑を翻している。近景は窓枠で唐突に切断されているが、こちらへ向かう径をゆっくり歩いてくるいくつかの微小な影も見える。あれが人間である。これから誕生する何かによって、大きく揺さぶられる群体のかわいそうな一隅だ。あれらもやがて赤い雲へと流れ込むべきものの一部だ。

 あるいは、生まれ来る大きな塊は僕自身なのかも知れないし、来るべき変動の中で真っ先に粉々になる甲虫がその時の僕なのかも知れない。その両方かも知れない。とにかく役割を終えた僕は、翼を開いたまま茫洋たる未来へ向いて変容していく。そのことはわかる。
 今はこの位置から見えない太陽が、おそらく僕なのだ。雲の影が地上を滑らかに這って進む。背後にあるもの。昼を作り、また昼を作ろうとするもの。夜を作り、また夜を作ろうとするもの。

文学極道

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