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作品 - 20091130_864_3989p

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トトメス3世

  右肩

 トトメス3世は、かつて僕の飼っていた猫の名前です。非常に癇の強い猫で、いつも神経質そうに前足で首の裏を掻いていました。特に雨の前の日にそれは激しく、餌皿を持った僕の手をいらだたしく爪で引っ掻いてまでそんな行為に没頭するのでした。これがあんまり激しかった年、七夕の日に豪雨が襲い、天竜川の鉄橋が倒壊したほどです。雨に興奮する猫だったのです。
 それは彼が目を閉じるごとに、どうにも不吉な夢が襲って来るからなのです。つまり飴色の鼠の大群が押し寄せて、彼の眠りの海の中へずぶずぶと押し入ってくるのです。とてもおいしいので、トトメス3世はやってくる鼠を手当たり次第に食べるのですが、食べても食べても雨粒のように押し寄せて来るのです。しまいには尋常でない満腹感でくたくたになり、吐く息にまで鼠の血が混じるほどですが、それでも鼠の来襲は止みません。眠りの海の領域は、トトメス3世の意識の7割を上回るのですが、広大な海も徐々に徐々に丸くふくれあがった鼠の死骸で埋まっていくように思われます。それは彼が目を覚ますまで延々と続きます。来る日も来る日もこんな夢が繰り返されるのですから、夢の海は次第次第に狭められてゆきます。このままでは彼の心地よい眠りは飴色の鼠にまったく奪われてしまうに決まっています。
 こんな状況に置かれた猫ですから、彼には死を待つことのほかには頭の後ろを掻くより仕方がなかったのです。いや、他にどんな選択肢があったというのでしょう。彼が亡くなって30年近く経ちますが、食事の最中に時々箸を止めて、僕はあの気の毒な猫のファラオのことを思い出すのです。

文学極道

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