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作品 - 20091031_871_3903p

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フェリーボート

  右肩

 今度市村さんと連れだって滝さんのお見舞いに行きます、という君からの短いメールを携帯で受け取った。滝さんは胃の三分の一を切除してしまい、気力を無くしている。僕が見舞いに行ったときには、紙のように白く乾いた表情を窓の側へそらして、「医者の言うことはさっぱりわからないよ。」と何度も同じことを繰り返した。スチーム暖房のパイプがカンカンと音を立てていた。六人部屋には4人の患者が入り、七〇歳くらいの老人が、痰の絡むような咳払いをしていた。君も恐らく同じ言葉を聞かされ、同じ風景を見るに違いない。

 彼の病室の窓に貼りついた憂鬱な曇り空、その裏側へ潜るようにして僕は町を逃れた。だから旅路は雲の世界の地図に従うのだ。船が空も海も境界線をなくしてしまったような靄の中を進んでいく。窓の向こうにかろうじて小さな島が見え、そんな人も住まないような島の存在が、悲壮なまでに強く現実を主張しようとしている。そうでなければ僕もこのフェリーももう何処へも辿り着かないで、永久に靄の中を漂わねばならないのかもしれない。時計を見る。午後二時よりまだ少し前だ。連日の睡眠不足と旅の疲れに景色の単調さが重なって、僕はさっきから強い眠気に襲われている。ところが、船中のテレビの音や、子供の歓声のせいか、眠りが眠りにならないで、切れ切れの意識がひどくはかなく流れていくばかりだ。船の揺れはほとんどなく、エンジンが船体を震わせる音がこもる。

 君と、市村さんや滝さんも入れて、十人に少し欠けるくらいの人数で、富士五湖にある長者が岳へハイキング登山をしたことがあった。藪の向こうに富士が見え隠れする眺望の良いコースだった。そこで、僕らはドッペルゲンガーの話をした。その時のことが僕の意識に滑り込んできた。「ブロッケン現象というのがあってね。」と滝さんが言う。あの時見えていた富士は見えず、僕らは霧の道をむやみに急いで登っている。「霧の中に自分の影が移る現象でね。純粋に光学的なものなんだが、影には光の輪がかかる。でも自分の影なんだから、これもドッペルゲンガーさ。」僕らの登る方向に大きな影が光輪を被って立っている。それは僕の半生を尾のように引いているもう一人の僕の姿だった。僕は絶句した。君は目線を僕の影に貼り付けて意地悪そうに笑う。元気よく滝さんが続けた。「ドッペルゲンガーは死の予兆だ。確かに死の予兆だが、何、人生は総て死のメタファーだからな。同じことだよ。」そういう滝さんは、いつの間にか病室で体中に管を通されている。「死ぬのはあなたじゃないか!」と僕は恐怖に駆られて叫んでいた。その時僕は病室の天井の片隅に貼りつく離脱した幽体だ。

 意識が戻ると、僕は今朝買った新聞に目を通そうとした。相も変わらぬ戦争報道が、大見出しで並んでいる。大局のつかめない、統制された情報の断片に何があるというのだ。僕は手にしたばかりの新聞をテーブルに放らなければならなかった。「ブッシュ」「バグダッド」という二語が、特大の活字になって逆向きにこっちを睨む。窓へ目線を逃しても、船はまったく靄から抜けようとしてはいない。

 君とは、肩に手をかけることさえできないまま別れた。転職して隣の市へ引っ越す、と聞いたのも人づてだった。そのくらい電話でもメールでも何でもいい、直接僕に知らせてくれたら良かったのに。それなのに、なぜ今頃滝さんの入院した病院の名を他の誰かでなく、僕に確かめようとするのだろう。まさか僕を苦しめるためでもあるまい。君は小指くらいの大きさの、緑の蛇だ。意地悪で危険で優美な鱗に覆われている。すすっと僕の胸ポケットに入り込んで、知らない間に何処かに噛みつこうとしている。僕は君を見失ってしまった。魂の痛みだけが、君の存在を間接的に関知する。君とは誰だ?むろん、僕が僕自身を誰だと知ってこんな疑問を持つわけではないのだが。

 僕はカウンターでコーヒーを飲むために席を立った。途端に大変な勢いで走ってくる三、四歳の男の子とぶつかりそうになり、かろうじてかわした。彼は泉の水が噴き上がるような、ものすごい笑顔で僕に笑いかける。まだ大きな頭、細い手と足。長い未来。この小さな出来事がよほど刺激的だったのか、全身を声にしたように叫ぶと、彼は黄色いトレーナーのチワワ犬のプリントともども走り去っていった。愛しい、と思った。そのまま自分のいた席を振り返る。すると、さっきまでの僕が片手を上げて愛想良く合図してくる。これもまたいいではないか、僕よ。僕の向こうには嵌め殺しの丸窓があり、ぱらぱらと降り始めたらしい雨が、斜めに水滴を走らせている。島影は既に視界から消え、靄を背景にゆっくりとこちらへ向かってくる採石運搬船が見えた。

文学極道

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