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作品 - 20090923_015_3811p

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


どこへ行きますか

  右肩

夕空のにおう冷たいキップを買いませんか?
小さな気泡のような呟きで書き入れられるわかりにくい目的地を
街を練り歩く魑魅の呻きからすれ違いざまに掠めとって
僕と一緒に鮫型のクラシック・トレインへ乗り込みましょう。
あとは夢の谷間で翼をもぎ取られたやせっぽちの仔鹿のために
二人して未明の涙を流すだけです。
そうです、だから行かなければならないのは
クリスマスという言葉さえまだ誕生していなかった頃の
ヒロシマという黒い荒野の初冬です。
悲しみにもならない感情の震動で粉々になった
ピュアな光の欠片のように、ときどきは虹に似た予感として
列車は影から影へまったくばらばらに走り抜けていくでしょう。
ひしゃげて潰れてまたひしゃげたシャンパンのガラス瓶が
引き伸ばされてひねり回され笑われて攫われて転げ落ちる。
縮れた枯草が山からの風にゴオと鳴る急傾斜の坂道を
僕とあなたの列車も軸の磨り減った鉄輪を希望の湧出で浮かせ
一気呵成の落雷となって走るのです。

そこはかつてダリヤと蝉と海の予兆に満ちていました。
新しい木材の切口の発する香りを気に留めながら
僕は石造りの橋を渡った。
美しい小舟のわずかな上下動が僕の核心を
過去と未来との間で隔絶した夏を
睡りを促す母の手となって揺らします。
行き会う人たちの顔・顔・顔
表情というものがまるでない顔の間に作られたスペースに
身体をぴったり嵌めるのも未熟な悦楽への曖昧な刺激でした。
トタン屋根の軒下に掛かる物干し竿には洗いざらしの下着が
絞り皺を残したままかさかさに乾かされていましたっけ。
やがて重い影がごろごろと転がるだけの歪な野原にこの街は変わり果て、
黒い器のどれにも黒い中身がぎっしりと詰められます。
今度は何の壜、どんな缶の蓋を開けるのですか、と迷いの風がつむじを巻くほどに。

白い太陽を絞ると真っ青な海が冷涼に滴り
アルコールに漬ければ甘い夕暮れが赤く零れます。
海の藻屑となって海溝に沈んでいる不定形の塊から見ると、
僕たちの鮫の軟らかな腹部がすべすべとしたシルエットになって映る。
それが遙かな高みで悠々と身をくねらせながら
それでも重力に引かれて少しづつこちらへ沈んでくるのです。
こんなにゆっくり近づいてくる迫ってくるもっとも純粋な舞踊。

列車の窓から覗く人々の顔はとても美しい。

文学極道

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