#目次

最新情報


選出作品

作品 - 20090421_128_3473p

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


僕のほら穴の仮面パペット人形

  黒沢


1・

このような話を、信じられるだろうか。

僕がいる、
後ろぐらいほら穴には、春と夏と、秋と冬とがあり、大気さえ循環している。ひどく陰惨な冬の風が、吹き続けている夜もあるし、いるはずのない春虫の羽音が、始終そよぐ神経質な夜もある。
僕がこのほら穴に棲みついて、もう何年になるのかわからない。ここの空間には、いたる所に欠落があり、植物も大地も、水も、従って川も無いし、風があっても、地形の変化がない。

夜ばかりあっても、朝はない。
動物もいないし、
何より言語をあやつる人の存在と、その概念がない。

僕はこのほら穴で、のべつ幕なしに、大気の気配ばかりを感じている…。それは、決して悪いことじゃない。誰にも理解できない、遥かな天体力学の動揺につられ、この見なれた空間では、満ちていく大気の手つき、衰退していく大気の余韻などを、いながらにして感じることができる。それに、季節特有の変化、
というものもある。

ああ、光もないし、天も地も、ない。
それでもここは、
れっきとした世界そのもので、僕自身の場所であるのだ。どうか、
僕の満足を想像して欲しい。


2・

僕のほら穴には、僕が三角坐りする、
みじめな窪み、だけがあって、
それ以外といえば、華奢な仮面のパペット人形がいる。

こいつは、またぞろ、
何処かで傷を付けられてきたらしく、暗がりに、背中を向けて立ちんぼしている。ああ、僕に近寄るわけでも、僕から遠ざかるわけでもない。安っぽい仮面は、白いペンキ塗りだ。ボディの素材は、異国のチーク材であるらしく、それにこの世のものと思えぬ奇妙な糸が、ちいさな頭部と、ひょろ長い胴部、寸足らずの脚部などに絡み付いている。
その糸がちょろちょろ動けば、
少し遅れ、仮面パペット人形の首や、手が、胴体が動く。だが、
本当の仕組みは、僕にもわからない。

何よりも、このほら穴はとても暗いから、仮面パペット人形は、いつしか、僕という感情の分身のようになって、今も僕のわきで、泣いたり、悔しがったりしている。


3・

さて、ほら穴の春。
僕の代わりにこいつは泣いていて、その背中が揺れているのでわかる。わずかに光っている頬をみても、識別が可能だ。そのため、僕はいつの場合も、泣くことができない。
ところで僕の現実の人生に、具体的な障害があるわけではない。いや、もっと大きな前提として、僕は断じて、仮面パペット人形ではない。

続いて、夏。
仮面パペット人形は、僕と眼をあわせない。その理由は、さっぱりわからない。

ほら穴の秋。
仮面パペット人形は、またぞろ何処かで傷付けられている。
ところどころ糸が切断され、それが人体の腱を思わせ、ぶきみで不快だ。風が吹くと、ぶら下がった糸が、脆く煽られる。僕はそれを、
みじめな窪みから、始終。じっと見ている訳だ。

冬。
僕はよそよそしく、仮面パペット人形を見ている。こいつが何者なのか、知ろうとする意欲すら、もうない。おきまりの循環だ。だが、知る、ということは、知ろうとする熱意こそは、おそらく生存に許された、
唯一といっていい出口だと思う。
僕が関心をうしなった仮面パペット人形は、窪みのそばにいて、一段と華奢に見える。
大気の動揺にあわせ、ちょっとあごを持ち上げて、匂いを嗅ぐような仕草をしている。さっきから、それ、ばっかりだ。


4・

こうして、また一年が過ぎた…。

このような話を、信じられるだろうか。僕は最近、
年齢、
というものを持つようになった。

一年の、その次のまた一年によって、質的な変異が起こり得ることを知った。時間というものは、何と嫌らしく、何と分厚くしつこいものか。だが、僕がそれを言ったところで、何になるだろう。ああ、
僕も、仮面パペット人形も、隔てなく変異していく。ここのほら穴の、闇に慣らされた目には、微細な違いが手に取るようにわかる。おそらく、三十年は下らない永すぎる鍛錬で、僕は、仮面パペット人形を構成するチーク材、糸、ペンキ、涙…、あらゆる材質のわずかな差異すら、空んじる程にいえるようになった。

もちろん、
僕自身に起こるそれをも。

ところで僕の現実の人生に、具体的な障害があったわけではない。
僕の年齢は、これまでも確実に足し算されていて、
ただそれは、残りの時間が少なくなった事実を、当たり前のように意味するだけだ。


5・

そして、
或る年の、冬の夜のことだ。

みじめな窪みに、すっかりなじみ、
僕はそこで、居眠りさえするほどになった。僕の、後ろぐらいほら穴にだって、雪ぐらい降る。何年かぶりに見たその雪は、ひどく軽く、儚くうずを巻いて僕たちを包んだ。

僕たち…。そう、
仮面パペット人形は、すっかり体に油が回って、糸がずたずたに切断され、僕のよこで、おなじ雪を見ている。白塗りの仮面のペンキは、所どころ捩れあがって、剥がれて基底の材質が見える。何より、僕をおどろかせたのは、こいつ、
僕と眼をあわせるばかりか、
時おり、僕の心のなかを、まっすぐ今は覗き込んでくる。

仮面パペット人形が、
踊りはじめる。
どういう悲しみを、何処から、この世の複雑な感情を、
掻き集めてきたのか。
踊りだす、仮面パペット人形は、僕のほら穴の広やかな空間を、どういう訳か疾駆していく。それにしても、傾いでいる背中。糸が垂れおちている首。寸足らずの脚は、下手糞なステップを踏んでいるし、どう見ても、まるで全体が出来そこないなのだ。
部分から部分へ、全体を前にして逡巡し、また部分から、こまやかな部分へ。僕の独白にどれほどの意味があるというのか。

擦り切れているチーク材と、
腐食が進んだ色のない糸、
透明度の落ちた涙。
何より、傷のように横に走っている、仮面のおもての細すぎる眼。

さて、仮面パペット人形の踊りに、
音楽の伴奏、などない。だが、下手糞なステップが打ち鳴らす足音は、春、夏、秋、冬に関わらず、僕のほら穴のしたしい空間を、際限もなく満たしてくるのだ。おかげで、遥かな天体力学の、深々とした動揺の気配が、どう工夫しても汲み取れないばかりか、
僕には、ここに、
僕だけの確かな世界が、あったことすらわからくなる。どうか、
僕の不満足を想像して欲しい。

いつしか、泣けなかった僕が、涙をこぼしながら、
手を叩いているのに気付く。
僕は拍手しているし、この、みじめな窪みのなかから、知らず抱えていた膝をほどき、立ち上がった気がするのだけれども、僕には覚えがない。


6・

僕のほら穴の仮面パペット人形よ。

僕にはこいつが、何故、今さら踊り始めたのか、
その理由がさっぱりわからない。
どのように考えても、全くわからない。

文学極道

Copyright © BUNGAKU GOKUDOU. All rights reserved.