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2009年04月分

月間優良作品 (投稿日時順)

次点佳作 (投稿日時順)

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


リビングの底

  小禽

sindehosiisindehosiisindehosiiと呟くパソコンの前で一人。すぐそこの大テーブルでは橙色の灯の下で家族が夕飯を囲んでいる。海底でひとり泡を吹き出しては喰らう深海の味。彼らは泣くことが出来るがわたしには出来ない。この海はかつて私の悲痛から生まれた。これ以上に泣くという事はない。そう教えてやりたいが余りにも遠い。お前らの食っている魚はわたしの海を泳いでいたんだ。わたしが育てたんだ。そう言ってやりたいが言う術がない。海は日々深みを増す。リビングの底は沈む。


  ひろかわ文緒

夜空を映す水溜まりを
やさしいバネで飛び越えた
草はらを分けていく風に
振り向く、先の
屋根の上には風見鶏が
カラカラと、鳴いて

泳ぎながら眠る魚を
ほほえみあって食べたい
かなしくないうちに
血液にしてしまえるように

軽トラックが砂埃をあげて
舗装されていない道を
走っていった
荷台の幌は
かすかに持ちあがり
はたはたとなびく
幌の下に隠された骨の行方は
えいえんを含んだ海でさえ
知ることはないんだろう
砂粒が口の端をかすり
舞い上がっていく

路肩に沿ったガードレールの
錆ついた部分を
そっと、爪で弾いて
金属の振動を確かめた
腕に残る痣を隠す
袖口の温度に
触れたことはありますか

誘蛾灯から
またひとひら、翅が燃え尽きる
予感がして、風に
密やかに告げる

電信柱のもとに
白い花を手向ける老人
その掌はやさしいばかりでは
なかっただろう
だけれど
些細な仕草も
誰かが許していくから
月はふるえて
ただ、美しいに違いなかった

灰色の鳥が絡み合って、落下する
途端、翻って、

岬には
子供たちが集まって
手をつないで
まぼろしのように建つ灯台を
囲んでいる
揺るぎない明かりの先にあるのは
お母さん、
きっとあなたも
まだ見たことのない、
あなたです


「ミドリさんがやってくるわよ!」

  ミドリ

風見鶏が緑色のカラーベストの屋根の上で、くるくると回っている。なだらかな勾配の屋根の上で、三毛猫が一匹寝そべっていて、陽はとっくに空の一番高い場所で、燦々と中庭の緑の芝生を照らしつけている。ぼくらはこの街で一番の名士であるクジラ氏と会食をしていた。話題はおそろしく多岐にわたり、ここでそのすべてを紹介することは難しいかもしれない。ぼくらはカベルネ・ソーヴィニヨンを酌み交わし、ワインについての話題は特に興が乗ったものになった。いうまでもなくカベルネ・ソーヴィニヨンはボルドー地方を代表する高級種であり、そのスパイシーな香りとバランスの取れた酸味と渋味が味わい深いワインを生み出す。とりわけクジラ氏はワインの歴史に造詣が深く、世界中に12のワイナリーを所有し、その品質管理にも尽力してきた人物だ。彼はその大きなお腹を揺すりながら、ワインは非常にデリケートな酒であり、高温や温度差の激しい場所に置くと風味が低下するなどと語り、これを彼一流のウィットでこう結んだ。「ワインの様なデリケートな人間に政治はできやしない。それは恋愛だとて同じことだよ」例によって彼は大きなお腹を膨らまし、馬鹿でかい声を張り上げて笑った。それはまるでこの見上げる様な青い空を、丸ごと包んでしまう錯覚さえおぼえる様なブルブルとした振動を響かせ、ぼくらの鼓膜を劈いた。またクジラ氏が愛犬家であることが話題になった時、彼は人間にとって一番大事なことは忠誠心であり、犬は完璧なまでにその美徳を備えていると言い切った。ぼくらの中で一番年若い青年が、不満気にその意見に異議を唱えると、彼は咥えていた葉巻の火をボウと膨らまし、その青年に逆にこう問いかけたのだ。「では君にとって君に反対するものは敵ではないのかね?」青年は戸惑いを見せた後、少し間をおいてからクジラ氏に向き直りこう切り返した。「昨日の淵は今日の瀬という歌があります。ぼくは反対するものの意見にこそ学ぶべき教訓がある考えますよ」そういい終えると彼はグラスの中のワインを一気に飲み干した。ぼくらの中には若輩者の甘い考えだと笑うものや、「今日の情は明日の仇って言葉もあるぜ」などと「ヒュー」という甲高い手笛とともに失笑するものさえいたが、クジラ氏は満足そうにフォークをローストビーフに直角に突き立てると、豪快に口の中に押し込んだ。そして彼は、誰彼に問うこともなしに、「危険なやつだ!」そう言ってまた豪快に笑うのだ。ところでぼくらの街ではある問題が市民の暮らしを脅かしていた。ちょうど今から5年前の6月21日の話だ。ぼくは勤め先である第九区街の目抜き通りをオフィスに向かって車を走らせていた。その日は大きな商談があった。ぼくは朝からソワソワし、鏡の前で3度もネクタイを結び損ねるほどナーバスになっていた。それもその筈で、約3年がかりで進めていた交渉が、成約するかしないかが決まる日にあたっていたわけだから、その日のことはよく覚えている。出社したのは7時半のことで、ビルの管理会社の男が駐車場の車止め脇にある、ささやかな花壇に緑色のホースを使って放水していた。「おはようございます」ぼくはいつも通りの挨拶をした。だが、男が不思議そうな顔をしてぼくの顔をマジマジと見るので、思わず立ち止まり。「今日は晴れるそうですね。いや、最近の天気予報はあんまり当てになりませんけど・・」などと当たり障りの無い会話を向けると、彼はこのぼくに向かって、驚くべきことを口にしたのだ。

       ∞                      


そしてこの日以来、ぼくらの街は全てが変ってしまったのだ。この「全て」。という言葉を、この言葉をこれを読む我が最愛の読者諸君は、文字通りの意味として受け止めて欲しい。なにしろ。何一つ昔の姿を残すものものなく、あらゆるものが、一気に全てを飲みつくしてしまうあの恐ろしい天変地異の様に姿を変えてしまったのだ。この街の事件は、あまり世界では知られてはいないらしい。数年前。とある外国のジャーナリストと名乗る女性が(仮にここではモニカ氏としておく)がこの街に一度取材に来たことがある。その時、彼女に最初に対応したのが、前述したクジラ氏であった。その内容はこのようなものである。

       ∞

クジラ氏「あなたは信じないかもしれないが、これは事実である」
モニカ氏「”事実”の同定は私たち仕事であり、あなたたちの主張ではない」
クジラ氏「我々は”主張”するものではない。事実はあなたの目で見て欲しい」
モニカ氏「あなたたちは”隠して”いる!」
クジラ氏「何一つ隠し立てはしていない。あなたに真実を直視する勇気がないというだけの話だ!」  


注記:上記の会話はクジラ氏の(※当時)秘書の議事録から一部を抜粋したものである。尚、転載についてはクジラ氏の  
   同意を得たのもであり、この場を借り、改めてクジラ氏に謝意と感謝の意を捧げる。
   
                
   
     ミドリ(著)「ミドリさんがやってくるわよ!」(株)文学極道
                   2012年6月21日第一刷発行

            


公共交通機関

  ゼッケン

ぼくは冬のバス停に立っている
乗るまいと決心していた
バスは凍結した滑りやすい道路をまだ来なかったが
しかし、バスのあの巨体
視界をすべて塞ぐであろうあの
圧迫感

必ず視野の右端から入ってきて
全体を埋めて目の前に止まったとき
圧縮空気の解放音がして
扉が開く、そのとき
ぼくは果たして
乗らないでいられるだろうか
真冬のバスはすでに時刻表より遅れているのであり
動かないぼくを見て
ぼくを見下ろす窓の向こう側にいる全員が舌打ちするのだろう
車内には無人の扉から寒気が流れ込むだろう
ぼくを乗せるためにバスは止まった、しかし
ぼくはその期待を裏切ってみせる
巨大な鉄の期待を、だ
ぼくは他人を傷つけたいくせに
報復を恐れている
ぼくは彼らの時間を10秒ほど浪費させるのだ
歩道に立ち止まっている限り
ぼくは優位であり
時刻表を守れないバスは焦っており
ぼくに罵声を浴びせつつも
凍結した道路を走り出さねばならない
外壁から氷と雪を振り落としつつ出発したバスの最後尾の席に陣取った人物は
ぼくのことを振り返りなどしない
事象の生起は予定調和だが
それは予測可能であることを意味してはいない
復讐心は
冬のバス停に立ったぼくを不安定にしている
可能な未来を置き去りにして立ち去ってしまいたい
凍結した滑りやすい道路を
バスはまだ来ないようだ


問題はない

  鈴屋


電柱が並んで立っている(問題はない)
白いミニバンが曲がっていく(問題はない)
三月、休日、曇り、午後三時半、コーヒーショップの窓際(問題はない)
宅配の車がマンションの前でハザードランプを点滅させている(問題はない)
人が通る(問題はない)
ここまで問題はない(問題はない)

 
コーヒーを飲みほす
カップの底に薄茶色に染まった砂糖が残っている
スプーンで掬って舌にのせたい、と考える
客が出入りするたびにカロンカロンと鈴が鳴る、耳に障る
タバコに火を点け、また外を眺める
女が通る
「女」という一字がこめかみに浮かぶ
BMがよぎる、Mスポーツだったか
BMは好みだ、中古屋の志村に相場を訊こうとおもう、4・5年落ちのセダンでいい
今のインテグラには五年乗っている、これも中古
先月、リアバンパーの左角を潰した
ジャケットのポケットでケイタイがはしゃぐ、雀荘からだ
「須藤さん、見えてるわよ」
志村は?と訊くと、今日は一度も顔を出していないという
窓ガラスに顔をよせ空模様を窺う
雨の気配はない
「雨」という一字がこめかみに浮かぶ
胸元のパン屑を払い、灰皿にタバコを圧しつけ席を立つ
通りに出て、気分を計る
こんなものか


雲が薄く張っている、日がクラゲのように泳いでいる
狭い舗道、老夫婦らしき二人連れが前にいる
男のほうが「いつつつ、いつつつ」とかなんとか、愚図っている
いっこうに進まないので追い越す 
石段の上に出る
歩をとめて市街を眺める
空と地面のあいだで住宅やビルや塔や電柱や広告や女や事務所や樹木のたぐいがベタベタ横たわっている
くだらねえ、と考える
木とか空とか人とか地面とか雲とか住宅とか犬とか雨とか電線とか窓とか腑分けして呼んでいること
呼んでつなげて知らず知らず文脈など考えていること
くだらねえ、と考える


薬屋に寄ってドリンク剤を飲む
財布を覗いて札の数を確認する
その先
パブスナックのドアが開いている
暗がりの中、男がくわえタバコでモップ掛けしている
その角を曲がる
路地の奥で明るいうちからアクリルの看板が光っている
うす緑の地に赤く「麻雀」と抜いてある
にわかに、血がめぐりはじめる
皮膚に、指先に、頭蓋に
血がめぐりはじめる
今日、はじめて肉が新鮮になる
二階に上がる階段めざして、おのずと
歩が速まる


マーブル

  ひろかわ文緒

新聞が配達される夕方だから、あたしは早急にパソコンを消して、冷凍庫から蜜柑を取
り出し、子どもたちに均等に分けてあげなければならないのだけれど、数をかぞえられ
ないことをたった今、たった今知ったのだった。うさぎのぬいぐるみの耳をちぎってし
まったあたしの左手を、半ばあきらめ顔のママを、鮮明に思い出せるよ、台所の床に横
たわり腐敗していく、パパのことだって。

  +

夏には、空中に金魚が泳いでアスファルトからはとうもろこしが吹きこぼれる。甘い匂
いがして、うつくしいねと呟いていたのは、赤いランドセルを背負った。ランドセルを
背負った少女、はあたしであって、決して佐藤くんなんかじゃなかっ、た。麦わら帽子
を被った佐藤くんを見たのは、あたしが最後なんだと、刑事のおじさんや佐藤くんのお
母さんは肩を揺すぶるのだった、だけど(だから)、佐藤くんはただ、蜻蛉を捕まえに
いっただけだよって、首のない蜻蛉は珍しいからコレクションにするんだって虫とり網
をもって嬉しそうに、崖の方に走っていったんだよって、全部を話して、あたしが健や
かになったら、あ、頭上に蜻蛉、が、飛んでいって。飛んでいったそいつには首がなか
った。
縁日にはお面を被った人がいっぱいいるから、こわい。だけど佐藤くんはこわくない
よ、だから帰っておいでよ、

  +

セーラー服がまるで似合わないから学ランが着たいと主張して、弓子先生を困らせてし
まったことがあった。ガクガクふるえる脚を見せるのが嫌、リボンを結ぶのが苦手、釦
を必ず留め違えてしまう、自覚ばかりして、する、ばかりだったのだから。何故あたし
には「しゃかいのまどがないの?」
お姉ちゃんは睫毛に器用に黒色を塗り、瞼に金色を塗り、エナメルのヒールを履いた。
社会人はとても金属質なのよ、姉は溜め息をつき、呟きながら携帯電話を扱う。あたし
はといえばリコーダーを、「もう授業には使いません、」と先生に注意を受けてもクラ
スメートにひそひそ笑われても、机の中にいつでもしのばせていた。 吹くことなんて
なかったのだけれど、おそらく、自分で決意したことではなかったのだと思う。口笛で
さえ上手に吹けなかったのだから、おそらくは。「行って来ます。」お姉ちゃんはそう
云ってどこへでも行ってしまう。デパートやホテル、東京、海を越えた遠い国、名前が
変わる、先にだって。笑顔で、

  +

血圧、の意味が分からなかった。病院の看護師さんは何も話さず唐突に、無表情に計り
はじめ、(締め付けられ)(弛められて)、終わったあとにようやくニコリとする。を
繰り返す。血圧、の正体が分かる頃には、円周率だって導き出されているのだろうね。
早く、早くそうなるといいのに。かなしげな記号など、もう使いたくはないのだから。
先生が、あんまり多くのお薬をお出しになるから、ノイローゼになりそうです。口を尖
らせて、診察室から飛び出して。ねえ神さま、確定からあたしを仮定してほしい。ソー
ダ水みたいにさ。ぬかるみがはじけて、

  +

パパに買ってもらったものといえば、ピンクのカチューシャくらいで、今はもう、あた
しの頭には小さくて、鏡台の上でただの飾り物みたいになって、いる。大して大事でも
ないのだけれど、壊されたり無くされたときには多分、許さない。ぜったいにころすん
だと思う。例えばそれが高橋さんであったりあたしであったり世界であったり、したと
しても。でも安心してほしい、パパは包丁に刺されて、おびただしい血液をあたしたち
に見せてくれたから、ずっとだいすきのままだよ。

  +

足元に猫が擦り寄る。胴の長い犬を昨日、玄関にくわえてきた口で(狩猟がとても得意
な動物なのだ、鋭い爪は下弦の月の、終末みたいだと感じる。)丁寧に鳴いてみせる。
さびしいというより前に背中を丸めて髭を揺らしてみせたのなら、すすきのように溶け
ることができたはずの。鳴き声。お腹がすくだなんて汚らわしいことだってママはおっ
しゃった。それだってあたしたちはお腹がすくようにできているから、せめて感謝をし
ないことが重要なのよ、と。煮干しを適当な皿に入れて、差し出す。ちゃんと感謝しな
い。咀嚼をして、ふくよかな腹へと流される煮干し/彼らのカルシウムについて考えた
とき、あたしは全くの無防備になるのだった。ほら、涎がだらだら垂れる、冷凍蜜柑み
たいに、じくじくと正常になる。

  +

マーブル、仕組みが理解できたときに子どもたちはまんまと生まれた(体内の組織全
部、
混じり合わせたい、)。赤みのある肌でけたたましく声をあげる子どもには、ありった
けのミルクを与えなければならなかったし、最も必要であった。ある、と、知って

た。与えなければ

―――――脈、瞳孔、ひとつ、またひとつ、確認する。(数字、かぞえられる。よ!…

子守唄を誰か知っていますか、ワルツでもいい、暗示にかかるだけのいのちならまだ、
あるはずだ、から、だから、あたしの知らない、初めてを、うたを、うたってやりた
い、

            マ マ 、 )))

  +

まっくらなだけの電線。ひかりが消えては灯る、その間を縫うように草の道、素直にね
むる子どもを抱いて、ほほえんで、ゆく。


女神

  右肩

木製の丸椅子に
坐って
その上からひとり
毛布の皺のような
世界を見ています。
裸の私は
若い。

春の日はいちめんの菜の花。
そよげば暮れる
何もかも
暗い黄色
と黄色。
ね、そうでしょ?

目の奥へ
ねじこまれた
朧な歌
に抱かれていると
むしろ真っ白な肌。
あてどなく垂れて
宙を踏んでしまう足。
その薔薇色の爪。
愛とか何か
答えがないまま

スタバのカップに刷られた女神
かも
しれません。
 
そこに触れる
だらしない私の
指に
じわりと温かなものが
にじむような
匂いを
放ち
過ちが
さわさわと
堆積してゆく、
その愉楽。

たすけて

(どこをさがしても
 あなたがいない
 あなたがいなくてもいい
 そもそもあなたというものがない
 ここ)

指を舐めると
明日の不安が
粘膜の熱にはさまれ
ぴくりと尖った頭をもたげて
はしる。
唇の端から
事のあらましがごぼりと溢れ、
すてきです。

何も残さない
眠りのなかから
光るべきものがみな光る
から
だ。


Je veux savoir ce que je veux

  はなび

Je veux savoir ce que je veux
私が言う 
わたしを食べてしまいたいと

Je veux savoir ce que je veux
わたしは答える 
私はわたしを食べてしまいたい

Je veux savoir ce que je veux
私がこうも言う 
わたしを飲み込んでしまいたいと

Je veux savoir ce que je veux
わたしは答える 
私はわたしを飲み込んでしまいたい

Je veux savoir ce que je veux
わたしは知りたい わたしの欲望

Je veux savoir ce que je veux
わたしは知ってる私のことを

Je veux savoir ce que je veux
わたしは私の言う事なんて聞かない

Je veux savoir ce que je veux
食べられるものなら食べてごらん

Je veux savoir ce que je veux
飲み込めるものなら飲み込んでごらん

Je veux savoir ce que je veux
欲することがわからないわたしについて

Je veux savoir ce que je veux
欲することがわからないとは何なのか

Je veux savoir ce que je veux
わたしは私の言うことなんて聞かない

Je veux savoir ce que je veux
私はわたしを抱きしめてはくれない

Je veux savoir ce que je veux
私はわたしを騙してはくれない

Je veux savoir ce que je veux
私はわたしに心地良い嘘をついてはくれない

Je sais ce que je dis
そんなことはすべて恋人にまかせておいて

Je sais ce que je sais
わたしは私を侵蝕するのだ
あらゆる庭
あらゆる草原
あらゆる原生林のミミズのように
フリーダ・カーロの繋がった眉のように
蔓延る蔦の曲線のように
まっすぐに生きるのだ


No Title

  浅井康浩

初夏をどこまでも感じていたい。すぐりのはえた裏庭から、低気圧がひろがって南岸方面
の降雨の開始を早めてゆくのも、おでかけをするうえでのたのしみにしたい。ふわっとし
た雨のにおいを待ちながら、海岸をてくてくあるいて、フランボワーズだってつまんでみ
たい。そうやって過ごしながら、てのひらにつつまれたような、発酵したパン生地のよう
な匂いに、ふわっとからだをすくわれてみたい。気がついたころにはもう、雨の匂いにつ
つまれていて、ひとあしとびに、食卓へと歩をすすめている。あしどりはあかるく、あた
たかな雨域をやさしくよければ、生クリームとさっくり混ぜるころあいのような、そんな
感じで木イスにすわってひといきをつく。そのようにして、誰からもわすれられていたよ
うなオーブンの水跡のように、しずけさを添えてたたずんでゆきたい。



プレパラートはすぐに割れるだろう。ピントをあわすまえからの決まりごとだというのに、
ふわっとした水の粒子はいくつもの層を織りなしては消える。10倍×10倍程度での観
察ならカバーガラスをかけることもあるまい。グラニュー糖や水をはかったりしないで、
あっさりとかろやかに焼きあげるあなたのクラストをおもいながら、レボルバーを回転さ
せ高倍率レンズへかえてゆく。倍率を高くする前に,視野の中心に試料を動かし,ピント
をきちんと合わせることをわすれるのはいつものことだけれど、発芽するものたちの息づ
かいに耳をすませるものにとって、わすれてはいけないことなんてなにもないのだと、い
つだってそうおもっている。



写す、という気持ちをずっとわすれてしまっていた。かたちにはならないくらいの、かす
かな、あたたかなそれが、ただの一度だけ、わたしにはわからないくらいのゆるやかさで、
とおくにながれはじめるのをじっと見送ったまま、今日という日になった気もする。晴れ
た日の午後は、みずからの足跡をつけないように、そっと、あるく。シロツメクサを摘む
あなたを追いかけて、背中ごしにピントを合わせる。そうやって、あなたが見ているもの
とわたしが見ていないものが陽だまりのなかでまじわりつづけられるように、さらさらと
ながれる一日のなかに、これからの行き先をとじこめるために。



空気がそよぐように設計されたこの歩道の先につづいてゆくものが、どのような庭園術に
つながっていくのか、そのことを意識しない日はなかった。樹林にかこまれていることの、
そしてそのことによってうまれる直線へのささやかなしたしさを、環状へとつづく道筋や
写実的ともとれる水の流れでせきとめようとするたびに、庭園の空気には植物そのものが
ふくまれていことを知ってしまうから、しばらくは、この庭園の入口に視線をやって、息
をととのえなおしたりすることもあった。そうしておもうことは、a scene,a scene,a scene
それだけをたよりにここまでやってきたのだと。



ペーパーフィルターのミシン目にあわせて、かすかに底の角をなぞるように折ってゆけば、
あたたかな雨の湿り気がゆびさきへとつたわってくるようです。あまだれのようにおちて
ゆく82℃になるまでのしずけさは、缶の底にのこされたマンデリンの手触りをおもいう
かべるはじまりとなりますから、わたしの内側へと、耳をすませるように、かすかな弱音
としてさわやかな苦さがひろがってゆくことがわかります。もう知ることのできなくなっ
たあなたという人のひとときのすごしかたが、ドリップを通じてしずくとなってさみしい
響きをたててあらわれるなんて、そんなふしぎをあらためておもってしまうよゆうも、い
まのわたしにはあります。だから、もうあんしんしてください。そっと、ひとりぶんのソ
ーサーをよういして、ふちをつまむ。そうやって、いろんなものがすぎてゆきます。いつ
の日かこの珈琲がさらさらとこのからだを流れすぎてゆくことがあっても、それはささや
かないのちのひとしずくとなっているはずですから


クロリス

  ゆえづ

君はエプロン姿の小さな確信犯だった
それはとても可愛らしい
庭で摘み取ったケシの実を
エプロンの前ポケットにたんまり詰め込んでは
買い物に出た先々で
気の向くままにひねり潰してゆく
膨らんだポケットでもてあそぶ
ごろごろとしたこどもの世界は
はち切れんばかりのまるこい手から
砂粒のようにこぼれ落ち
町中へパステルのざわめきをばらまいた
僕はそれを花束にして
いつかのこども部屋に飾ろう

クロリス、クロリス
そよ風にゆだねた君の裸体
たまらず僕は走りだしたんだよ
ナナハンにまたがり
雨の降りしきる田園地帯を
あのしたたかな秘密を引っ剥がし
横殴りの雨の中を走り続けたんだ
蕾のような吐息を抱いた
なまっちろい奇跡は
クロリスがそっと僕に口づけすると
ビニ本モデルの上気した頬よりも
艶やかに咲いたよ

雨宿りがてら立ち寄った給油所で
濡れたシャツにぽてっと止まったのは
上翅いっぱいに星を抱えたてんとう虫だった
黒光る半円形のフォルムが美しい
おまえも翅を休めに来たのかい
ああ見ろよ虹だぜ
吐き捨てるようにそう言い残し
てんとう虫は飛び去っていった
ヒンジの緩んだジッポで
しけった煙草に火をつけると
僕はまた煤色の風になる


ラピダ

  いかいか

(散文の雨)


女は唇から言葉を吐き出して、身を震わせてから犬のように町に消えていった。消えたことが、ありのまま残り実った。果実は収穫され、男の口に含まれて、歯の間で荒く噛み砕かれ果汁を出し尽くすと喉の奥に最後の墓所を見出した。墓所は、爛れた神々の陰部のように開き、女の唇から再度言葉を奪ったまま煙をはき、煙から二十日鼠と人間が生まれ両者は接吻と不似合いな性器を見せびらかしながら岩でお互いの領土を隔ててしまった。海上の出来事は、すぐさま大陸に上がり足を生やし人間の間を駆け回った(まるで二十日鼠のように)。ビルケナウへ向かう猫の足取りは軽く、まるで僕らの描く何の面白みもない散文のようだ。そして、唇からは汚濁。流れ出したものがとまらずに、口々にあらゆることを押し流し、創世の七日間のように、あらゆる細部も大枠も放り出され、言葉すらも流された。墓所は開く、何度も、爛れた神々の陰部のように。


4月4日、その日の君は、

  はるらん


4月4日の土曜日、空から落下物が落ちてくるかもしれない、という
「落下物が落ちてくることはないと思う」ので、
皆さんはいつもどおり仕事をしたり、どうか普通でいてください、
とラジオのニュースが言っている
アメリちゃんは、まだまだ届かないわよっ、と余裕をかましている

「N領土内のA〜Fの上空を通過する」、
可能性に疑問符を残したまま、に赤い波線が立つ
落下物って、なによ?
落下傘、ピーナッツ、パラシュート
「海に落ちるはずなので、心配は無い」と思います

元外交官の奥さんは屋台で焼きたてのフランクフルトを売っている
華やかなドレスはもう1枚も残ってないのよ、と
ときどき美しい鈴が鳴るような声でコロコロと笑う
運河で船を待つカップルはフランクフルトとコーラを片手に
深いグリーンの水面を見つめ、
もっと透明になればいいのにね、と願っている

忘れ物をしたんだ、無くしちゃったんだ、何処で落としたのかわからない、
もっとよく探してみろよ、電話はかけたのか?
見つけろよ、何千、何万の中から
でも、どうやって?

4月4日、その日は友人の結婚式なの、
あさっては葬式で、今日は仮通夜さ、
4月4日、その日はウチのコ、一人で留守番なんです、まだ6歳なのに、

4月4日、土曜日、その日、自分は休みである
ドラえもんの映画が見たいと子どもにせがまれている
春休みだから町に唯ひとつの映画館は混雑するだろうな、
お金も無いしな、でもたぶん、出かけるかな、と思う
4月4日、緑のカバンと黒のカバンを持って、
あの日が近づいて来る


八十八夜語り ー季春ー

  吉井


二十六夜
 ちり花が          
 クリープして        
 またひとり         
 夜の門を          
 くぐりぬけて」       
 ことしの          
 富士は           
 雪ぶかくて         
 そして           
 またひとり         
 夜の門を          
 くぐりぬけて」       
 いった           
              
 カオリナイトが       
 つき立った         
 沼地を           
 春の雨が          
 ぬらし」          
 みずきに          
 ぶらさがった        
 つめの           
 垢             
   がかたまった      
 手首を
 春の雨が
 ぬらして」
 いった

 そして
 またひとり
 夜の門を
 くぐりぬけて」
 マテバシィの
 枯れえだに
 もたれ
 眼窩に
 たまった
 雨水を
 のみほして」
 いった


彼岸花

  ゆえづ

空に刺さった数多の指が
イチョウの葉を撫で
さわさわとくすぐったい風を奏でる頃
ばあちゃんのか細い腕を引き
ぼくは歩いていた
首筋をつたう汗に苛立ちを感じながら
となり町の病院へと続くこの畦道を
耳を澄ますと緑が染む
じっとりとうるさい陽射しは
ぬるんだ水田を跳ね
ただ申し訳なさそうに笑うばあちゃんと
夏が少し悲しかった
焼けた肌にぞわりと吹き抜ける
いたたまれないわびしさ
見知らぬ国の風景画のようだ

花びらを千切った
きみは生まれたての指先で
人はなぜ忘れてゆくの
知るためさ
それなのに日々はまだ
永遠のような顔をしてぼくらを追う
それなのにひとりぼっち
明けない夜に打ち拉がれ
赤い花のしたたり落ちる歌と
いまだ暗い血を掬って

母にばあちゃんの付き添いを頼まれ
ふくよかだったばあちゃんのひと回りもふた回りも大きくなって
ぼくはこの小さな田舎町へと帰ってきた
いつもの透析治療を終えると
ありがとうなありがとうな
ばあちゃんは何度もそう繰り返しながら
両手でぼくの腕をさすっていた
河川敷には青白い乙女たちがぞろりと立ち並ぶ
何百メートルと続く彼岸花の群生だ
それぞれ華奢な喪服にその身を包み
色づいたつぼみを高々と掲げ
帰路に長い葬列をつくっていた
どこまでも透き通るそのまなざしは
あまりに美しく
ばあちゃんそっくりで
ふと足を止めてぼくは見入ってしまった
水を打ったような静けさの中
ばあちゃんがぼそりと呟いた
何もかもよかったんだよと
最後の夏だった

きっとまだ許せないでいる
放射状に散った背中の爪痕と
ぼくらにまつわる一切を
あいの悪戯により
気が狂れたきみに困り果て
ごめんねとも言えず
ただぼくはもう死ぬんだとうそぶいて
ひとりぼっちのこころをしかと傷つけた
きみはきみを忘れてしまえばいい
そしてぼくはぼくをどうか許さないでいて

小さな影がぺたりぺたりと
真夜中の冷たい廊下を歩いてゆく
そして突き当たりの洗面所までくると
月明かりに鈍く反射するカミソリが
やがて胸に埋めたカテーテルを
それは静かに切る
叔父からの連絡により駆け付けたその朝
ぼくの目に飛び込んできたのは
ばあちゃんの白い長襦袢に咲いた
たくさんの彼岸花
見るなと父に目隠しをされたけれど
本当にきれいだったよばあちゃん

終わりを見ている
まぶたを開いたときから
忘れていられるあいだのぼくらでも
よかったんだよ
つぼみのまま枯れてゆく花よりは


言葉

  ぱぱぱ・ららら

偉そうな言葉は
僕の中には存在しない
と言いたい
 
再発見とでも言うべきか
それとも
幸せとでも言うべきか
 
僕は生まれる
言葉によって
それから
言葉によって死ぬ
 
 告白すると、僕は言葉を書き終える度に、もう二度と言葉なんて書きたくないと思う。インクが乾いたとたん、胸がむかつく、とベケットは言っていたそうだ。僕も同じ様に思う。それでも彼は書き続けた。ただ言葉を。マーフィーも、モロイも、マウロンも、それから名前の無いものも、語り続けた。シオランは、世界は絶望のきわみだ、と言い続け、そして、それでも生き続けた。書き続けながら。言葉を。
 
君はなんのために書くのか?
言葉を
ここで今更ながら
断っておくが
これは詩じゃない
言葉だ
それは太陽でも
愛でも
絶望でも
なんでもない
 
 僕はなんのために書くのか。これは僕自信に対する問いだ。別に内側を知りたい訳じゃない。僕は輪郭が知りたいんだ。ここでレズニコフやカーヴァーの言葉を引用してもいいのだし、それが僕のやり方かも知れないけれど、辞めておく。これは僕の言葉を捜す言葉だから。でも僕は僕の言葉よりも彼らの言葉の方が大事だ。僕の言葉なんて嫌いだ。
 
何も書くべきものは無いように思う
初めから。
それでも
僕は書いている。
なぜ?
またベケットに登場してもらうとすると、
彼の『名づけえぬもの』では、
無の中で
ただ無目的に喋りまくり、
さあ、続けよう。で本は終わる。
これは絶望か?
これは無か?
 
 僕が書くのは剥き出しの言葉だ。なにも引き合いに出してはいないし、隠してもいない。僕が海と書くとき、それは海で、僕が愛と書くとき、それは愛であって欲しい。
 
君が書くのは
詩か?
 
僕が書くのは
言葉だ
 
それは
そこら辺に落ちてる石にすぎない
 
石は絶望か?
石は無か?
 
 シオランは長い間、不眠症に悩まされ続けた。彼は言う。もし私が朝から働かなくてはいけない状況で生活していたのなら、きっと自殺していただろう、と。僕は不眠症で、朝から仕事が待っている。僕は死すべき人間なのだろう。野獣だし。なんて言うつもりはない。でも書いた。消すつもりはない。
 
もう書くべき言葉が思い付かない
振りをして
終わろう
いつだって
終わらなければならないのなら
僕だけがそこから
逃れるなんてことは出来ない
逆もまたそうだ
 
さあ、終わりにしよう
 
僕は言葉だ


さくら。

  亞川守紀

さくら
咲いている
一夜にして初潮おとずれ
新しい少女神立つ
めでたけれこちたけれ
飲み歌い
ちょうちんそよぎ
さくら萌え
さくら萌え萌え

さくら
咲いている
少女開脚のつけ根に
酔いつぶれ君といて
もてはやしながめみて
手をたたき
花はかぐわし
少女萌え
少女萌え萌え

さくら
散っている
薄桃の細き肢体に
淡い口紅塗り濡れて
身をそらし来にけらし
歓びの
風に舞い散る
少女舞え
少女舞え舞え

さくら
散っている
切れ長の尽きせぬ夜
柔い髪ひろげて君は
金泥の流れにたゆとう
有明の
月の足音
さくら舞え
さくら舞え舞え

さくら。
少女は数夜の夢にすぎず
耳たぶの白さにとどめおかれ
葉ざくらとなって目覚める君の
セーターの胸の膨らみ
ああ 密やかなおんなの生誕
乳房燃え
乳房燃え燃え


30ページ+5分20秒

  ミドリ


隣国がミサイルを発射した夜。ぼくらはベットの中で、一つになっていた。恋人たちの愛の巣になっている、このベイエリアに在るホテルを、ぼくらはいつしか、愛おしいと感じるようになっていた。電波の悪いテレビの音声や映像も、ティーバックに煮出された水っぽいお茶も、排気ガスにくすんだ夜景の煌きも気になりはしなかった。

ぼくが女を抱きしめるとき。この地上に足跡を残していった、数多の死者たちのことを考える。女も、同じことを考えるだろうか?強く抱きしめながら、彼女の顔を覗くとき、ぼくの脳裏を過ぎるのはいつもそのことだ。躊躇いがちに彼女の瞳の奥を覗き込む。
「何考えてる?」
「別に・・何も・・」
ぼくは生温かい彼女の中に身を沈めながらキスをする。できるだけ深い、魂に奥まで届くような強いキスを。多分、ぼくらが考えるよりずっと、魂は深みで繋がり合っていて、ぼくらを守護してくれている。
愛を何度も繰り返した夜。朝はぼくらが隠していた秘密の全てを、明らかにしてしまう。むろん、スッピンの彼女の顔は、夜に見たそれよりもずっと美しい。ただ在り来たりの日常にふたりがいるこの奇跡に、涙が溢れそうになる。

       ∞

戦争が起きたらぼくも兵隊にとられるんだろうか?そう彼女に問いかけると。
「もっと若い人達を選ぶわ。20代の若い子達。あなたはちょっと年を取りすぎているわ」
ぼくは不思議な気分に襲われた。
「日本の若者なんて、ヒツジみたいなもんだろ?ただ囲いの中で飼われてるだけさ」
「でもあなたはいいのよ」
「いや、戦争が始まればぼくも銃を取るね。相手がちょーせん人だろうがべーこく人だろうが祖国を守る為に銃を取る。そしていっぱい殺すんだ。きっと国から勲章をたくさん貰って英雄になって君の元に帰ってくるよ」
ぼくは誇らしげに言った。
「そうね。そうならない事を祈るわ。戦争なんて絶対に嫌だもの」

ぼくはタバコを一本を取り出して、市街戦で銃を手に取り戦っている自分を想像してみた。塹壕の中で、狙いすました標的に向かい引き金を引く。敵国の兵士が、まるで犬ころのように路上に転がる。愛する家族や恋人を守るためだ。そしてこのぼくの体に、魂ってやつを吹き込んでくれた祖国のためだ。ぼくはきっと、とても冷静に引き金を引くことができるだろう。
そんな考えに耽っていると、彼女、藍子がぼくの手を強く引っ張って。
「ねぇ、遊園地に行こっ。行こうよ!」そう言った。

       ∞

「いいかい?外交交渉ってのはそんな甘いもんじゃないんだ」
ぼくはスポーツセダンのハンドルを握りしめながら、まだ、戦争の話をしていた。
「いつかきっと戦争になる。ぼくは銃を取って勇敢に戦うよ!」
「あっ、そこ右!」
話に夢中になって交差点を曲がり損ねたぼくに、藍子が声を張り上げた。
「あぁ、わかってるよ!次の交差点で曲がればいい。全ての道はローマに通ずるさ」
ぼくはまだ、興奮した調子で話し続けた。

       ∞

女って生き物にはいつも、不思議に思うことがある。ぼくらに比べてとても感情的に物事を判断するくせに、ことお金の事になると途端に論理的な判断を下すのだ。とは言っても、彼女たちが使う”数学”は、足し算と引き算の2種類であり、論理に秘められたもっと奥深い真理についてとても無知なのだ。問題はむしろ、彼女たちの感情の方だ。
朝が明けると街は次第に人と車で込み合い。騒音の洪水で埋め尽くされる。
「なぁ、早めに出て正解だったな」
ぼくは藍子に話しかける。都会はまるで巨大なタービンのようなものだ。始終、空気がピリピリと振動を繰り返し、人を不快にさせるもので溢れかえる。
例えば。体をプルプルと振るわせる老人が杖をつき、その覚束ない足取りでバスに乗り損ねる風景は日に必ず5回は目の当たりにするし、小さな子供が母親と逸れて泣いていても素通りする通行人の数は一日に延べ2,562万人もいる。
もっと不快なのは、バービー人形みたいな女の子達の振る舞いだ。頭の中に教養の切れッ端一つさえもないことが、例えば皿の上のソーセージをフォークで突付くその手つき大体わかるってもんだ!
いいだろう!ぼくはぼくを不快にさせるものさえ愛することに決めている。たとえこの場所が宇宙一危険な場所であったとしてもだ!ここがぼくら生きていく世界であるあることに変わりはない。

       ∞

話を戻そう。
ぼくらは隣国でミサイルが発射された日の夜。ベットの中で一つになっていた。初めて女を抱いたとき。まるで砂漠で一握りの砂粒をかみ締めるような、苦い思いに襲われたものだが、それはきっと、ぼくがまだとても若くて、この豊穣な大地に抱かれる愛の素晴らしさを知らず、まだ旅に出る前の、ほんの小さな痩せっぽち少年に過ぎなかったからではあるまいか。
今ならわかる気がする。ぼくはじっと藍子の目の奥を見つめながら、彼女の背中を強くかき抱くように抱きしめた。この地上に足跡を残していった、数多の死者たち思いに心をはせながら。

       ∞

ぼくは藍子の中に、愛を放った。


ひとひら

  泉ムジ

ポータブルプレイヤーのディスクトレイを開くと、回転するディスクが明かりを反射して
きらめき、停止した。ラベルの無い表面に映り込んでしまう顔を決して見ないようにする、
それがどれほど曖昧にしか鏡として機能しないものだとしても。邪魔になった眼鏡を外し
レンズを不織布で拭いケースに入れ、小さな液晶モニターの黒い海を泳ぐ白いロゴ/電圧
による分子配列の変化がもたらす滑らかな動き/何も表示するものが無いことの表示/が
さっきまでそこに在った彼女の顔のように見えるけれど、さっきまでそこに在ったのも電
圧による分子配列の変化がもたらす滑らかな動き、彼女の顔の「表示」でしかなかった、
と同時に彼女の不在を示すものとして在るのだった。わずか1分にも満たない映像の中で
「ちゃんと撮れてるー? なんか……、恥ずかしいな」語りかけてくる彼女は風に抗って
右手で髪を左手でスカートを押さえ膝をさらし/夏だ/過去の夏/逆光で顔がよく見えな
い「逆光で、顔が」「わかったー」円周をなぞるように駆ける彼女の横顔に光が射してゆ
くのを追って「あ……」唐突にぶれる、空。右下から飛行機雲が伸び始める。「だいじょ
ぶー?」「ん……、空」白線がモニターの左上を貫いて「どこまでも伸びてくねー。きれ
いだなー」右手を額にあててまぶしそうに空を見上げる彼女をずっと、ずっと映したまま
終わる。始まりも終わりも「切り取った」ということを示す断面である。「おじいちゃん
またそれ見て泣いてるー」夏休みで帰省した孫が肩に腕をまわし全体重で負さってくる。
「おおっ、大きくなったなー」「えー! あたし太ったー?」まだそんなことを気にする
歳じゃないさ。「まだそんなことを気にする歳じゃないさ」彼女に会いに行こう。彼女の
若い頃によく似てきた孫を連れて。「さあ、ばあさんの墓参りに行こうか」「うんっ!」


透明の息

  小禽

もう一度地上に出てみると、以前のようには暮らせなくなりました。あの冷たい息が、わたしの故郷を真っ青にし、あの黒い影が、すべての光の後ろから深い穴を覗かせているのです。わたしの立つ地面はそうして穴だらけになりました。まるで今までの世界は全て嘘だと言われているようです。わたしは地上にいることが随分辛いと感じるようになりました。そして小さな穴を見掛ける度に、あの本当の透明を想うようになりました。地上はだんだんと青を濃くして、明けない夜を迎えています。わたしは気付くとあの崖縁に爪先を掛けて立っていました。幾つか静かな呼吸をし、肺の膨らみから、透明の穴に落ちていきました。


矛盾

  億年筆

昔、中国は楚という国に、盾と矛を売る男がいた。
曰く、その盾は堅きこと貫けるものなし、また、その矛は鋭きこと通せぬものなし、と。
野次が飛んだ。
「おまえの矛でその盾を突いたらどうなるんだ!」
つまらぬ理屈をこねた客は男に矛で刺し殺された。
他の客も黙りこくった。
少し経って馬に乗った警官たちがやって来た。
「往来で何やってんだこのやろうぶっ殺す!」
警官の振り下ろした矛を男の盾は見事に受け止め、逆に次々となぎ倒してしまった。
一人だけ逃げ帰った警官に通報されて今度は軍隊が出動してきた。
「なんだただの武器屋じゃねえか、首はねてやるからちょっと待っとけ」
いい終わる前に兵士は殺されていた。

何千人もの軍隊は
何ものをも防ぐ盾と
何ものをも突き通す矛の前に
あっという間で敗れ去ってしまう。

かくして男の盾と矛の強さに、異論を述べるものは誰一人としていなくなったのであった。


コミュニ鶏頭

  菊西夕座

客:「もしもし――丸山さんはいらっしゃいますか」
店員:「ございますが」
客:「おつなぎして頂けますか」
店員:「あいにく、本日の丸山はすべて使い捨てとなってございます」
客:「かまいません」
店員:「少々、お待ちください」
客:「待ってください」
店員:「はい?」
客:「おかげんが悪いのでしょうか」
店員:「五分咲き、といったところでございましょうか」
客:「では、やはり待ってください」
店員:「このままお待ちになりますか?」
客:「すみませんが、七分咲きまで一緒に待って頂けませんでしょうか」
店員:「あいにく、わたしの賞味期限は午前10時までとなっております」
客:「味が落ちてもかまいません」
店員:「ですが、鮮度が保てません」
客:「鮮度が落ちてもけっこうです」
店員:「声もぬるくなります」
客:「声がぬるくなってもけっこうです」
店員:「それに、音質も劣化します」
客:「音質が劣化してもかまいません」
店員:「そうはおっしゃいますが、声がとぎれとぎれになります」
客:「どうにか聞き分けますから、お願いします」
店員:「しかし、丸山が聞き耳をたてます」
客:「聞かれてもかまいません」
店員:「丸山になんと言い訳すればよろしいでしょうか」
客:「黙ってろと、そうおっしゃってください」
店員:「丸山は黙って聞き耳をたてます」
客:「こっちを見るなと、そうおっしゃればよろしいかと」
店員:「丸山はこっちを見ておりません」
客:「こっちを見ろと、そうおっしゃってください」
店員:「あいにく、丸山は使い捨てになっておりますので」
客:「かまわないかと」
店員:「いちどお使いになると、丸山におつなぎすることができなくなります」
客:「丸山さんはほかにもいらっしゃるでしょう」
店員:「ございますが、本日はすべて五分咲きです」
客:「まいったな」
店員:「失礼ですが、どういったご用件でしょうか?」
客:「山を丸ごと購入したいと思いまして」
店員:「そうですか、ありがとうございます」
客:「しかし、五分咲きだとすぐに高く転売できない」
店員:「ですが、丸山の上には本日、会長がおります」
客:「怪鳥がお見えですか」
店員:「左様でございます」
客:「オプションということでしょうか」
店員:「含み益かと思われます」
客:「かなりの珍種でしょうね」
店員:「希少価値がございます」
客:「では、電話を怪鳥にかわっていただけますでしょうか」
店員:「わたしが怪鳥ですが」
客:「これは失礼しました」
店員:「飛んでもないです」
客:「ただのパートタイマーかと思いました」
店員:「バードタイマーです」
客:「なにせ先ほど賞味期限が10時までとおっしゃっていたものですから」
店員:「ええ、つい先日、焼き鳥にされまして」
客:「ハッハッハッ」
店員:「羽はございません」
客:「なんとおっしゃいました」
店員:「ハッハッハッとおっしゃられても、羽は一枚もないのです」
客:「ハッハッハッ」
店員:「羽が3枚、入り用ですか?」
客:「またご冗談を」
店員:「本当です。すべて焼かれました」
客:「ハッハッハッ」
店員:「歯はもとからございません」
客:「嘴かね?」
店員:「串刺しです」
客:「ダッハッハッ」
店員:「ダハではなく拿捕されたのです」
客:「ダッハッハッ」
店員:「もしもし、音質が悪いですか? ダハではなく拿捕です」
客:「拿捕されて、丸焼きになったのですか」
店員:「そうです。船をこいでいる隙にやられました」
客:「ダッハッハッ」
店員:「それで、おいくらでご購入なさいますか?」
客:「丸焼きですか」
店員:「丸山です」
客:「もう購入はやめました」
店員:「丸焼きもセットになりますが」
客:「それが気味悪いので、やめることにしたのです」
店員:「ですが先ほど、鮮度が落ちてもかまわないとおっしゃっておりましたが」
客:「購入するとなれば、話は別です」
店員:「左様ですか」
客:「さようならです」
店員:「賞味期限まで、あと5分ありますが」
客:「もう切ります」
店員:「もう切られました」
客:「なんですと?」
店員:「丸焼きにされる前に、手も足も切られました」
客:「手はもとからないでしょう」
店員:「買い手はあるかと思いまして」
客:「ハッハッハッ」
店員:「羽はございません」
客:「聞き手くらいはあるでしょう」
店員:「そうでしょうか?」
客:「そうですとも」
店員:「手はやはりあるのですね」
客:「解釈の翼をひろげれば、いくらでも」
店員:「まだ羽もあるのですね」
客:「見方によっては、あるでしょう」
店員:「味方になって頂けますか?」
客:「ええ、もちろん」
店員:「わたしは焼き鳥ですよ」
客:「聞き鳥役になりますよ」
店員:「ありがとうございます」
客:「お安いご用です」
店員:「では、もう少しだけ切らずに待って頂けますか?」
客:「5分だけなら」
店員:「これで安らかに昇天できそうです」
客:「また飛べるのですな」
店員:「ハッハッハッ」
客:「その調子、その鳥子」
店員:「ハッハッハッ」
客:「ハッハッハッ」
店員:「ハッゥゥ・・・」
客:「どうしました?」
店員:「・・・・・・」
客:「もしもし」
店員「・・・・・・」
客:「怪鳥?」
丸山:「会長は出鳥しました」
客:「ハッハッハッ」


存在証明(は今日も出来ず)

  ぱぱぱ・ららら

 僕はここにいる。君はそこにいるのかい? あれ、僕はここにいるって言ったっけ? 君はどこにいるって言ったっけ? 忘れてしまったよ。最初から何も知らなかったっけ? 僕の肌は今日も白くて、やっぱり病人みたいで、世界は僕とはなんの関係もなく、いつも通りにまわっている。僕はその遠心力に吹き飛ばされ、どこか誰もいないところにたどり着く。君もいなけりゃ、君もいない。僕はいるのかな? イルカのように生きていたあの子は、イルカに食べられて、僕がムーミンの絵本を読んで聞かせたあの子は、ムーミン谷へと歩いて行ってしまった。僕はここにいると言う。でも僕はここにいない。君は君を喪い、僕は僕に別れを告げて、イルカもムーミンもいない孤独な谷へと旅に出る。それから、いや、それから、じゃない。それから、はもういない。じゃあ誰がいる? 何がある? 何も無い。難問だ。僕らはいない。天使のような歌声で歌ってる子を見つけたら、それは本当に天使で、僕は雲の上にいるのだと言うことが出来ることにしよう。猿が去るように君は去り、猿よりも猿らしく成功する。ボス猿はかく語り、僕は彼の古文になる。もしくは彼が僕の。モスクワは今日も寒いですよ、とメールしてきたカフカは断食芸人と知り合い、彼に夕食を御馳走する。雄鴨のように美しくなりたいな。誰か聞いてるかい? 僕は、雄鴨のように美しくなりたいんだ。君は雄鴨の美しさを知ってるかい? まあ、当たり前だけれど、雌鴨も美しいんだけどね。脚がしびれてきた。最近、よくしびれるんだ。なにか病気だろうか? 君に脚はあるかい? 君にお金はあるかい? 僕は無いよ。ところで、ああ、ごめん。ところで、も死んだんだった。いつだって素晴らしいものからいなくなるんだ。じゃあ、もうすべてに消えてもらおうか? 君はもう消えたかい? 僕はもう消えたのかな? 消失。焼けるように熱い、道端に落ちてる石ころは、僕らのボンジュール。オレンジジュースを飲み干して、砂漠をもっと増やそうぜ。缶詰だけで生き延びろ。最後の言葉はそれにしよう。僕はもう最後の言葉しか話さない。君だってそうだろ? 善人はいないなら、僕もいないなんて、僕には言えないから、さよならも言わずに、僕は去っていく。じゃあ、皆さん。缶詰だけで生き延びて下さい。


僕のほら穴の仮面パペット人形

  黒沢


1・

このような話を、信じられるだろうか。

僕がいる、
後ろぐらいほら穴には、春と夏と、秋と冬とがあり、大気さえ循環している。ひどく陰惨な冬の風が、吹き続けている夜もあるし、いるはずのない春虫の羽音が、始終そよぐ神経質な夜もある。
僕がこのほら穴に棲みついて、もう何年になるのかわからない。ここの空間には、いたる所に欠落があり、植物も大地も、水も、従って川も無いし、風があっても、地形の変化がない。

夜ばかりあっても、朝はない。
動物もいないし、
何より言語をあやつる人の存在と、その概念がない。

僕はこのほら穴で、のべつ幕なしに、大気の気配ばかりを感じている…。それは、決して悪いことじゃない。誰にも理解できない、遥かな天体力学の動揺につられ、この見なれた空間では、満ちていく大気の手つき、衰退していく大気の余韻などを、いながらにして感じることができる。それに、季節特有の変化、
というものもある。

ああ、光もないし、天も地も、ない。
それでもここは、
れっきとした世界そのもので、僕自身の場所であるのだ。どうか、
僕の満足を想像して欲しい。


2・

僕のほら穴には、僕が三角坐りする、
みじめな窪み、だけがあって、
それ以外といえば、華奢な仮面のパペット人形がいる。

こいつは、またぞろ、
何処かで傷を付けられてきたらしく、暗がりに、背中を向けて立ちんぼしている。ああ、僕に近寄るわけでも、僕から遠ざかるわけでもない。安っぽい仮面は、白いペンキ塗りだ。ボディの素材は、異国のチーク材であるらしく、それにこの世のものと思えぬ奇妙な糸が、ちいさな頭部と、ひょろ長い胴部、寸足らずの脚部などに絡み付いている。
その糸がちょろちょろ動けば、
少し遅れ、仮面パペット人形の首や、手が、胴体が動く。だが、
本当の仕組みは、僕にもわからない。

何よりも、このほら穴はとても暗いから、仮面パペット人形は、いつしか、僕という感情の分身のようになって、今も僕のわきで、泣いたり、悔しがったりしている。


3・

さて、ほら穴の春。
僕の代わりにこいつは泣いていて、その背中が揺れているのでわかる。わずかに光っている頬をみても、識別が可能だ。そのため、僕はいつの場合も、泣くことができない。
ところで僕の現実の人生に、具体的な障害があるわけではない。いや、もっと大きな前提として、僕は断じて、仮面パペット人形ではない。

続いて、夏。
仮面パペット人形は、僕と眼をあわせない。その理由は、さっぱりわからない。

ほら穴の秋。
仮面パペット人形は、またぞろ何処かで傷付けられている。
ところどころ糸が切断され、それが人体の腱を思わせ、ぶきみで不快だ。風が吹くと、ぶら下がった糸が、脆く煽られる。僕はそれを、
みじめな窪みから、始終。じっと見ている訳だ。

冬。
僕はよそよそしく、仮面パペット人形を見ている。こいつが何者なのか、知ろうとする意欲すら、もうない。おきまりの循環だ。だが、知る、ということは、知ろうとする熱意こそは、おそらく生存に許された、
唯一といっていい出口だと思う。
僕が関心をうしなった仮面パペット人形は、窪みのそばにいて、一段と華奢に見える。
大気の動揺にあわせ、ちょっとあごを持ち上げて、匂いを嗅ぐような仕草をしている。さっきから、それ、ばっかりだ。


4・

こうして、また一年が過ぎた…。

このような話を、信じられるだろうか。僕は最近、
年齢、
というものを持つようになった。

一年の、その次のまた一年によって、質的な変異が起こり得ることを知った。時間というものは、何と嫌らしく、何と分厚くしつこいものか。だが、僕がそれを言ったところで、何になるだろう。ああ、
僕も、仮面パペット人形も、隔てなく変異していく。ここのほら穴の、闇に慣らされた目には、微細な違いが手に取るようにわかる。おそらく、三十年は下らない永すぎる鍛錬で、僕は、仮面パペット人形を構成するチーク材、糸、ペンキ、涙…、あらゆる材質のわずかな差異すら、空んじる程にいえるようになった。

もちろん、
僕自身に起こるそれをも。

ところで僕の現実の人生に、具体的な障害があったわけではない。
僕の年齢は、これまでも確実に足し算されていて、
ただそれは、残りの時間が少なくなった事実を、当たり前のように意味するだけだ。


5・

そして、
或る年の、冬の夜のことだ。

みじめな窪みに、すっかりなじみ、
僕はそこで、居眠りさえするほどになった。僕の、後ろぐらいほら穴にだって、雪ぐらい降る。何年かぶりに見たその雪は、ひどく軽く、儚くうずを巻いて僕たちを包んだ。

僕たち…。そう、
仮面パペット人形は、すっかり体に油が回って、糸がずたずたに切断され、僕のよこで、おなじ雪を見ている。白塗りの仮面のペンキは、所どころ捩れあがって、剥がれて基底の材質が見える。何より、僕をおどろかせたのは、こいつ、
僕と眼をあわせるばかりか、
時おり、僕の心のなかを、まっすぐ今は覗き込んでくる。

仮面パペット人形が、
踊りはじめる。
どういう悲しみを、何処から、この世の複雑な感情を、
掻き集めてきたのか。
踊りだす、仮面パペット人形は、僕のほら穴の広やかな空間を、どういう訳か疾駆していく。それにしても、傾いでいる背中。糸が垂れおちている首。寸足らずの脚は、下手糞なステップを踏んでいるし、どう見ても、まるで全体が出来そこないなのだ。
部分から部分へ、全体を前にして逡巡し、また部分から、こまやかな部分へ。僕の独白にどれほどの意味があるというのか。

擦り切れているチーク材と、
腐食が進んだ色のない糸、
透明度の落ちた涙。
何より、傷のように横に走っている、仮面のおもての細すぎる眼。

さて、仮面パペット人形の踊りに、
音楽の伴奏、などない。だが、下手糞なステップが打ち鳴らす足音は、春、夏、秋、冬に関わらず、僕のほら穴のしたしい空間を、際限もなく満たしてくるのだ。おかげで、遥かな天体力学の、深々とした動揺の気配が、どう工夫しても汲み取れないばかりか、
僕には、ここに、
僕だけの確かな世界が、あったことすらわからくなる。どうか、
僕の不満足を想像して欲しい。

いつしか、泣けなかった僕が、涙をこぼしながら、
手を叩いているのに気付く。
僕は拍手しているし、この、みじめな窪みのなかから、知らず抱えていた膝をほどき、立ち上がった気がするのだけれども、僕には覚えがない。


6・

僕のほら穴の仮面パペット人形よ。

僕にはこいつが、何故、今さら踊り始めたのか、
その理由がさっぱりわからない。
どのように考えても、全くわからない。


左巻き

  がれき

へそ曲がり
なによ
ふたつの光彩が見ていたもの
水位の増した
夜半の灰色にも
洪水があること すこし
降りすぎた雨を
歯ぎしりせずに眺めても
いた ひとつずつ
片目を隠して 糸へ
ストレート・ヘアへよじれていく部屋で
ふたつめの増水が肘をぬらしたと
きみの
独白をぼくは
五月をゆめみた

信じてほしい
濡れたざくろの
うすい膜を剥がして
爪の先にはり付いた映像 ながれても
少しも可笑しくない景色を
ぼくは
何度も引きのばしてみた
ざくろが咲いていた

ひかりのなかの工場は
くらい廃液を密造する
記憶を押しつぶしている
床下から浸水が 麦藁帽子を
水着の跡からカラー・テープにしみこむ
蒸気機関がいちばん緩いの
渦のなかできみ

ハイ・ライトが
あやしい
白の絵の具を花瓶に共謀させて
すこしいたいけど
割った
きみのなかへ膝を捻じって
ぼくはかえってくる
糸ひく排水 ひかりが
逆光かな

朝方はいつも雨だった
またね なぜかぼくは指が淋しい
おなじけしきなの わたしたちが見てるの
浸水がかえってきて
ぼくらは
薄っぺらい渦を着込む
またひとつふえた
ハイ・ライトを黒子のように付けて
ななめに して
洪水のどこに
ラジオの歌を生けるといいのか

左巻き?
あなた


春の下

  如月


ゆっくりと舞う
一つ、一つのどこからか
流れついた春を滑る
雨のたおやかな
手のひらを泳いで

 *

垂直に立つ遠浅の空の真ん中を
黒い鳥が羽ばたいて尾をひく

痩せた桜の木の下で
発芽する
幼い夏の背中

まだ目を覚まさない
青い夕暮れ

 *

夜に浮かぶ送電線は美しい
絶えまなく
運ばれてゆく言葉は
暖かく降りしきる
ひとひらの花片

 *

去っていく春の横顔は
ふりかえらない
いつかの少女に似ている

 *

塗りかえられていく今日を
そっと見守る夜の窓辺は
果てしなく地平線のようだ

降りつもったいくつもの
春と呼ばれたお前を燃やして
幼い夏の丸い背中の
小さな呼吸で伸びやかに
新しいお前がまた一つ、

静かな産声をあげる


木星の春

  右肩

 僕はこれから僕の持っている砂金一袋の重量を量りに、あの寂れた京洛へ赴くのだ。「ズワイガニ号」と名付けられた、甲殻を纏う列車が海底のトンネルを抜け、もうすぐこの、晴れ上がった木星の小駅までやって来る。
 春爛漫である。
 プラットホームには、文字も絵もない、色もはっきりしない幟旗が九本、ばらばらな間隔で鉄柵に結わえ付けられている。また黒々とした巨大な牛が二頭、大きなふぐりを揺すりながら待っている。その後ろにはマッチ棒のような少女が三人黙って立っている。
 彼女らはあまりに黙っているから、所在なくてときどき牛の股間に手を差し入れ、こっそりとその陰嚢を撫でたり揉んだりしている。牛は鳴きもしない。沈黙を埋めるようにして波音が聞こえてくる。ただし、それはよく聞いてみると破砕された歌声の微細な屑から成り立っている。波音によく似たノイズというべきものであった。
 ひょっとしたらそれは、入学式が終わった小学校の講堂で、天井から垂れ下がった四匹のユウレイグモが、番いながらそれぞれの八つの目を合わせて唄った『海行かば』だったのかもしれない。焼けただれた密林に隠匿された髑髏が、割れた後頭部から水を飲むようにして一途に聞いていた歌だ。二つの眼窩。それも今は粉々になっている。

 金の値段は激しく乱高下している。
 先日行った床屋の亭主が、僕の髪を切りながらぼやいていた。彼の足繁く通っているストリップの金粉ショーでは、昔は開いた女陰の奥まで金粉が塗ってあったという。ところが、先日舞台へ上がって大陰唇、小陰唇と指で開いていったところ、粘液に濡れた生々しい鮮紅色を目にしてしまったというのだ。ダンサーの太腿の間に上半身を突っ込んだまま、困惑のあまり彼は暫く硬直して動けなかったらしい。
「これも金の価格が不安定でうかつに買い置きができないからですよ」
と彼は言った。
「女陰の中には膣口に細かな歯を揃えていて、男性を食い千切るものもあるのですが、以前はそこにも総て金が被せてありました。」

 経済は、生殖行為として転倒している。
 システムが肌を合わせて激しく交わる。ところが、射出されるものは疎外される。エンドルフィンの波が脳の皮質を洗う時、無定形の資本は世界中ところもかまわず撒き散らされてしまう。
 乾いた地表に乾いた粒子が噴きこぼれ、どこもかしこもただただ輝くばかりで何が産まれることもない。さらさらと風に巻き上げられ消えていくだけだ。爬虫類系の大型生物があちらこちらに突っ伏して死んでいる河。その腐臭と山脈からの寒風とに耐えながら、僕はひと冬をかけて一袋ぶんの砂金を掬い取った。それも経済という原理によってたやすく巷間に紛れ、消えてしまう。僕の金、僕だけの金が。

 京洛では今も古い高層ビルが林立し、その下で掻き混ぜられたコーンスープのように、ぼやけた哀しみがゆったりと渦を巻いている。
 白さを残して流される夜の雲たち。
 乾かない傷を持つ猫たちが、互いの性器を指さしてくくくと笑い合っている。ここで、本当の意味で光っているものは自分たちの眼だけだということを知っているからだ。
 この街に今日は誰もいない。昨日も誰もいなかった。明日も誰もいない。首から上がない、人ではないものがちらほらと通りを行く。売春窟のベッドには浅いへこみが残る。シーツに波打つ美しい皺。サイドテーブルに錆びた硬貨が七枚、やや不安定に積み上げられて埃にまみれている。
 打ち棄てられたものはみな、それが最初からそこにあり、未来永劫そこにあるようだ。
 夥しい数の通信回線。アクセスしても聞こえるのはアメフラシの唄う艶のない沈黙だった。

 イオ、エウロパ、ガニメデ、カリスト。衛星が僕を間近に見ている。
 列車が迫る音に目を瞑る。明るく血が巡る瞼の裏へちらちら桜が散る。花びらの数が次第次第に増えて行き、そこにざっと風がかぶると昼間の星の全量が落ちてきた。花が光り、星が光り、降りゆくものは時に螺旋を描いて吹き上げられ、それも光る。また光る。
 渦巻く銀河の虚ろな中心点に欲情し、僕の小さなペニスは痛いほどに勃起していた。


位相

  はなび


それはとてもきれいで
めちゃくちゃな
物理学の宇宙のように
すぐにわたしを虜にしたの

現実感がないわ
そうね 子供の頃に絵本で見てから
わたしの脳裏で成長しつづけたような 
そんな景色よ

地獄の閻魔様がもし
いい男だったら会ってみたい

ぼんやり中空をながめていると

光や粒子みたいなものがたくさん降ってくるのまぶしいくらい狂おしさでお腹が痛くなるすべてを吐き出したくなる植物のいとなみを真似て肉を焼く時には鉄をよく熱くしてから赤黒く熱した剪定ばさみを触れた瞬間にするちいさな蒸発と炭化肉が常温に戻れば傷口にピンクの岩塩を振りかける装飾品のようにして

結晶

涙なんか鼻水以下の存在だとわたしのアレルギーは主張する梵天様が台所で増殖する研ぎ澄まされているのは包丁だけだ母なる肉体にブロンズのエロスを降臨させるロダンのダンテ冷蔵庫の血管をめぐりエレクトリックな振動音が夜を支配するすこし前

ステンレス

葡萄酒をあけたばかりで
ミルクみたいな香りがして
あ、

あのひとがそろそろやってくる
時間

わたしはお花のようにわらう
つるのように触手をのばす
炎に

熱は砂糖を焦がす
壺の底の方であまいにがい香りがして
あ、

あのひとがやってきた
魚の目みたいにちいさな穴からあなたを覗くと
ちいさなばらの花束をもっているのが見えた
ピンクとキイロとアカのチカチカした花束よ
いとしい人はたのしい人よ 
いつも 
ばかみたいに
やさしくて

ほら

しろいお皿の上で余熱が仕事をしてるあいだ
わたしたちはキスをして
それから
なにか実を結ぶようなことをはじめる

刃物とか炎とか臓物とかとろとろに凍ったウォッカだとか
泥とかたまごとかポッサムキムチ
干した果物や肉や魚や海藻なんかが
無秩序にあるべき場所に収まっている
そうして
自分という他者が何者でもないわたしを
内蔵と皮膚の外側を 関係づける場所

位相

あのひとはなんでも
のみこんでくれる

ばかみたいに
かわいいチカチカの花束に似てる

「恣意的に存在する理由なんて誰も立証できないはずだとそう思うわ」
ってわたしが言ったらあのひとは

「そうだね」
って言ってから全然違う話を始めるチカチカの花束みたいに

「たとえばきみが好きなことを話してごらん」
とか…そんなくだらないことを言うわ

わたしは自分がバラバラなのをわかってる
刃物とか炎とか臓物とかとろとろに凍ったウォッカだとか泥とかたまごとかポッサムキムチ
干した果物や肉や魚や海藻なんかが無秩序にあるべき場所に収まっているのに似てる

それらはとてもきれいでめちゃくちゃな物理学の宇宙のように
わたしを虜にしたままわたしの脳裏で成長しつづける
解決という決着が訪れるまえに擦り切れてゆくためには時間を解散させることが必要なのだ

文学極道

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