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黒沢

選出作品 (投稿日時順 / 全16作)

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


不眠温度

  黒沢




・舟ぎらい・

夜を劈く、
不眠を巡るなめらかな舟。
それは星でない何か、
かぜでない震えや、
人でなしの基底音を受けて、
波をぬう蜜腺のはざ間を降りては浮いている。
影の終端におんなの指のような、
ひと巻きの塔が居残り、
降りては浮き、
それもずれていく。
ふみんの夜を彩る絶対の声は。


・きつね鏡・

眠りをまねて鏡を抱く。
凶の字が部屋の外で荒れ狂い樹の枝や時間が飛び去る。
轟く雷鳴さえそこらに反射され狐ですら贋ものの月に愕くだろう。

それからお前を呼ぶ。永劫の雨にも狂わない狐を。九の字となるその化生の愉
悦。その汗ばむ無言は逆さの行だろう。汗ばむ程の夢の過剰だろう。若しここ
ろが時間を持つのならば滅ぼす。いま私の袖を引くお前。引かれる窓の輝きの
底に猶もあの鏡が見えている。凶の字や九の字そのほか書体にならない不眠の
写しが。


・夜ふくろう・

ふたたび私は夜ふくろうに就いて考えそれは思うよりも恐怖をなお追認するに
過ぎないのだが翼を拡げゆくあの希少種が真っ直ぐ私を見返してくる大いなる
目。鉤爪は暗く燃えるみたいだし何より夜ふくろうは捕食せずじっと安定した
三角形のような幾何学的精密さで夜の静寂を卵さながら温めている。たちまち
私は湾をなす海なんか忘れ揺曳する集合マンションの制約に縛られて呼吸すら
できないのだ。断じて私は叫ぶ。これは断じて眠りではないと。

夜な夜なの死。それを曲折して来ない限り蘇生があり得ないというのは一体誰
ぞの約束事なのか。こんな時間に唄いだす星も鉄道もなく夜ふくろうの鳴き声
は車輪のきしり音に似て私を幻聴に誘い込むばかり。私をじっと見ているあの
大いなる目は傷みを伴い後悔やら羞恥すら伴って瞬きを繰りかえす。まるで
延々と。終わりなく。私はみたび湾をなす海の沸騰を思いそこを徘徊する身体
的自由に悶えながらまた初歩の地理的な制約条件に揺りもどされ塩からい涙を
流すのだ。

夢は眠りを真似る私の意識を誰かが真似ようとするプロセスに過ぎないから私
は思い切って夜ふくろうを除こうと思う。誰が何を言おうと夜な夜な私のもと
を非礼にも翔び立ってゆくあの夜ふくろうの羽ばたきを私は断じて許すことが
できない。


・ひと魂・

幼い日に見たひと魂は雨を裂いてやや崩れるような片隅で細く燃えていた。庭
の暗がり。夜ごと蛭のように火花を吸っては成育するそれを私は懐かしく見て
いた。

いま時間を経るごとに水の温度は赤から青へ緑から黒へすべてが私とは何ら関
係なくまた紫へと見つめ返す天蓋の一瞬の閃光が庭の暗がりの個人的な感慨を
さむざむと反芻している。生きながら見ていたそれは。


・ひつじ数え・

息をつき息を吐く。
ふたたび息をつき息を吐く。

それらが
ふみんの辞書において声を生成し、
転記された波紋が終に、
みよ子というよそ者を標榜しはじめるのを、
私は万感の悔いやら歓びを交え、
許すのだろう。
みよ子が数えたてる羊はひつじひつじと檻から放たれ、
中二階になった、
きびしく触媒された私の愛惜に似て、
木枠の柵を何度も越えていく。

羊が一匹ひつじがにひき羊が、
一匹ひつじがにひき。
丸ごと鋳造されては投げやりにされた喉。
声という、
とうてい私には容れられないお前が、
しんみり深爪されていく窓枠。
みよ子が数えるたび浮き上がり、
熱を奪われるたび
沈み込む、
ひつじ達のむげんの跳躍を星でない青空が視ていた。

息をつき息を吐く。
ふたたび息をつき息を吐く。


馬頭星雲

  黒沢




若いとき、私はいきていくのが不安で、昼間なのに夢を見た。

―その塔は長大なゆえ、登攀することは出来ないという。僕は夢のなかで、そうした他人の取り決めを打ち消しながら、忘れえぬ錯誤の結果として、せまい踊り場で立ち竦んでいる。青の部屋、確かに番人は、鉤鼻の彼はそういったが、照射されたライトが眩しく、返事の声を取り落としたように思う。ふら付きながら窓に到達する。下界が極端に低く、滲むような街路や、名前のない港湾がひしめき、正直いってこの世離れしている。そう思って僕は口にした。夢の言語は、巻貝のように巧妙に曲がって、ひき放たれた声がそら耳のようで、従ってこの尖塔の高みに、拠って立つのは僕が記述だからなのかも知れない。日が、日を追いかけて凋落していく。特筆すべき視座の傾きをものともせず、柱廊の一端を持ちあげたかのような僕たちの背後を、水が流れている。

ところで毒々しい体を持つ私は、その由来が私なりに古く、記憶における憤りのような、彼のよこ顔から目を離すことが出来ない。ぬっと前に出た番人の鼻。ぬっと前に出た番人の恐るべき鈎鼻と、骨ばった顎の絶対的角度を、私はどれほど懐かしく、地形を喪失するような傷み、時おり痙攣的に、外部から渡されてくる陰影に脅かされながら、想起しただろう。今なら分る、私が視ていたのは闇ではなく輝きだ。飽くことのないそれは別離の前ぶれで、私と番人とは他人であったと。



壮年になって、私はいきていくのが不安で、昼間なのに夢を見た。

―僕はいう、何ゆえ青なのか分らないと。番人はこたえた、それは真水の喩えなのだと。同じ高さで、横から盗み見た太い鉤鼻。怖ろしいことは、僕が経由してきた記述にあるのではなく、彼を初めとする他人の体が、とても正確に老いていくこと。夢の言語は、僕を後ろから抱き起こす不燃物のようで、塔の内側には声もその名前も、名前もよこ顔の写しすらない。窓の外にはいわゆる下界とされる人間たちの木っ端微塵の影絵や、決して明滅を返さない大河。雲の直下へと叩き落された、屈辱的といっていい半月の低姿勢な躓き。横からもう一度、あの番人へ視線を戻す。ひと知れず、長く大きな火傷の痕に、褶曲線のような模様が、波紋さながら触れて拡がっていく。ここは青の部屋。到達出来ない尖塔の頂きなのだ。

ところで幼児期からの引用、いいかけて止めた秘めごとまでを持ち出し、せめて悪意による呵責を、さもなくばダンスをと、私は喪失した呼びかけ、分不相応な微熱でくり返した筈だが、夢なのでいい加減だ。私が視ていたのは光りではなく影。闇に酷似し、日に、日にかさ張っていく裏書きの反映。どよめき始めた私たちの頭上に、石の反射鏡が飾られている。





言語による未必の透視。それはまさしく手紙のようで、私は疲れて頁を伏せる。ベランダに出る。借りものの集合住宅の外、彼方に品川のビル群が見えている。高輪の丘陵は低いようで険しい。並列された建物の半ばで、識別灯が輝いている。揺らぎながら交代を続け、ばらばらに遷移するさまは、呼吸のようであり、何の関係もない花火のようだ。眼下には、見覚えのある路地があって、さきの開いた街灯が立っている。折れ曲がった小路。木立や家並や、架線に苛まれるその行く手は、切れぎれになって追うことが出来ない。春の夜、暗いのに、沈んで感じられる束の間の光景は、私という日常を非線形にして、気が遠くなるような弱い摩擦音をさせている。

―すると、近くのものが遠景になり、現のことが大写しになる。この街のせまった坂路を、裸の馬が疾駆していく。色褪せた臀部。外部光により陰影を与えられ、肉の塊が重おもしく上下する。それはしなやかで脆く、そして静かだ。馬が走っていく。跳ねることによる傷みも、打感すらなく。首がななめに歪み、その姿勢は時おりスローモーションに似て、たて髪は水のようで、なおも春の夜路を震えて駆けていく。蹄は音を立て、移動による光りと影とが、頻繁に全身をよこ切る。暗号みたいな影絵を描き、速やかに消えて。品川のビル群が遠い。丘陵のその向うは、余りにも不確かだ。

星々が退潮する。僕とは惜しみなく転記された、外部でも内部でもある記述なのだろう。星々が、拡散していく。僕はその馬を、まだ視ているだろうか。


ホオズキ笛

  黒沢




夜おそく
妻が購ってきた酸漿の花

市には露店がたち並び
ひとつの庇は
別の傾きへとさし換えられるようで
見ているそばで胸が苦しく
包装紙は
濡れていたという

私は食卓に持ち込まれた
黄色く
つましい明るみを
不思議な橋のように感じた



手のひらを
そっと打つのだが
果たしてどちらが鳴ったのだろう

兎に角ふるい設問なんだと
私は
既に萎れかけている花をはじき
化粧をおとす
耳飾を解いていく
ちがう時刻へと
通り抜ける
妻の気配を近くにしながら
くり返してみた




季節の変わり目は
いつも
何故だか俯いてしまう

酸漿は
花でなくなり
とても現に思えないのだが
紅く壊れやすい紡錘形
器用に中身を縒りだすことができると
いき返るから
妻がいう
私は応えなかった

次の市がひらく迄に
雨は降り止むのかも知れない


迷宮体

  黒沢





そう、帰結となる印象は、永さ…、まるで無限ともいえる永さだ。どれほどの永い時間、ためらい逡巡しながら、ここの沈黙に堪えてきたのか判らない。この迷宮は、誰の手によるものなのか。粉っぽく、湿度を孕んだ砂まみれの石畳には、大規模なわたしの影が写り、ゆるやかに伸び縮みする。きわめて制約され、繁殖力を殺された若い多年草が、地面の割れ目から、ちょうど踝の高さまで、茎を生やしている。ぴったり、同じサイズ。同じ嵩のひらいた葉。視界は、荒れ果てた壁にぶつかり、紆余、曲折する。

壁についても、いいたいことがある。堪えがたく、迷宮の迷宮たるうんざりする悪夢を、絶えず、海鳴りのようにもたらす、脱色された煉瓦の壁。その色は白というべきか、黒とよぶべきなのか。比喩すら難しい暴力によって、内側から破壊された感のある、全体の判らない伽藍の蓋い。光はさしてくる。むき出しの梁の間から、確かにそらや風の気配が見えるが、もう何百年も、わたしをじらし続ける上からの光は、迷宮の輪郭を嫌にはっきりさせ、ここの空間を計りなおしている。機械的に、捕捉し続ける。

この迷宮に、夜がないのかといえば…、違う。ありとあらゆる割れ硝子の間から、顔を覗かせ一時停止している若い多年草。ちょうど、一日の三分の一だけ、辺りのそれが、突然死する。そらから、風が一撃で奪われ、まるで津波の気配に似て、見果てぬ悪意と予感において、上からの光がいっせいに衰微する。このような仕打ちに、永遠の昼と、夜の刑罰に、堪えられる存在があり得るというのか。崩れ落ちた梁の一本が、わたしの不安定な寝床を脅かしている。おそらく、前任者のものと思われる意味不明の道具の類い、布や、石や、紙の表面に、星の光が降りそそぐ。



さて、何十万の文字と、何万の改行でなる日記を、わたしがここでものにしたか、判らない。迷宮は、今も、今に至るこれまでの間も、とても静かだ。なおも脱色している煉瓦の壁と、意図の知れない梁の破壊。ためらい傷に似た足跡だらけのこの構造体の向こうに、つまり、悪意に満ちた闇のそらに、らせん状星雲が見え隠れする。大きなリングを、二つ垂直に重ね合わせた設計のはずだが、わたしの視角からは、丸い、ぼんやりとした真円にしか見えない。理論上の振動ベクトルと、特定周波数の不可視の光に、侵食され続けるのは大いなる慰めだ。

わたしの日記は、らせん状星雲を写し取るだろう。比喩、としての修辞でなく、文字と、改行でなるその内部では、星雲が死に、膨大に渦巻くだろう。まもなく…、周囲の多年草が起き、息を吹き返す。もはやこれが、何度目になるのか判らない。昼がきて、上からの光がこの迷宮を照らしだす。わたしは再び、永さ、永さと、喚き散らすばかりだ。見覚えのない坂路が現れ、わたしの伸び縮む影の近くで、生きたように全く動かない。わたしの迷宮は、つまりこんな具合だ。こうなのだ。



突然の曲がり角に会うと、わたしの内部で水がわき、涸れるのが…、判る。やがて、わたしは死ぬだろう。わたしの髪の毛の一本一本が、星雲の細やかな光を形づくるだろう。


星の氾濫

  黒沢

ねむれないよるは星座をつくる
ひとつずつ折り紙を指で折りこむように
まっさらな空に定規をあて
残酷でもいいから疵やすじを残していく

ねむれないよるは星座をつくる
ひとつずつ有り得ない生きものの夢を見る
点線が呼び出すおどろきの闇の新星
形を写すことはいのちを奪うことだろうか

ねむれないよるは星座をつくる
父親に似た沈黙のひつじが
ひとつずつ柵の呼び名を無限に数えていく
喩えの数だけわたしは太る

ねむれないよるは星座をつくる
みじかい寝息に引かれながらわたしは
星の氾濫をゆくりなく耐える
ひとつずつ折りこまれる折り紙のように


プラタナス

  黒沢



その夜、いえに帰って、おれは妻にせんこくしたのだ。
おれが、
さきに死んだら、
くちを、きけなくなった物質のおれを、
けっしてだれにも、神さまにもみせるな。
それが、おれの遺言だ。

おれは、酔っていたのか。
ふだんなら、そんな不吉にもとれることを、
この世でいちばん、こころが、
弱いであろう妻に、
いうはずもないのだが、
おれは、我慢ができなかった。



妻にせんこくを、おこなう前、
おれは、
恵比寿でのんでいた。

仕事のしり合いが、ろくにん、ほど居て、
ひとりは、
海外で商業デザインの仕事をしている有名じんで、
ひとりは、そこの営業まんで、
ひとりは、そこの子がいしゃの社長で、
他は、おれのかいしゃの部下たちで、
おれの隣りには、末っていう、
この世の終わりみたいな名前の、
気まじめな部下が酔っ払っていて、声がおおきい。

どんどん、酒をくみ交わし、うまい素材を、
うまい調理で、
つまり、カウンターの向こうの、
いちりゅうコックの手ぎわの鋭さで、
はらいっぱい食って、
夜はどんどん、ふけて熱っぽくなった。

おれは、それなりに快活に、みせて、
ばかもいったし、
それなりに、危なかしいことをいったつもりだが、
本当のことは、何もいわなかった。



さしみや、
しゃぶしゃぶは、淋しい。
どんな快活なおしゃべりをしていても、
くちにするのは、淋しい。

おれは、てかてか光る、
箸を、
まるで、器用にすべらせながら、
時おり、外の、ぷらたなすの樹をみていた。
まどから、さんぼん指のような、
みつ葉が、
みえて、緩やかにうごいていた。

かきが、出てきた。

話しは、
その、物質のけいたいに関係なく、
わかい、おんなとの火遊びについての、
ものとなったが、
おれは、遊びにん、のふりをして、おおいに食い、
のんで、おもい切り笑った。



おれは、ほうこく書でも、せいかつでも、
おしゃべりに見えて、本当にいいたいことは、
決していわない。

生きていると、言葉が、
にじむように、
湧きあがって、こみ上げてきて、
それを堪えるのは、なかなかに、辛いことがある。

いいたいことを、いわなくなったのは、
何時からなのか。
おれは仕事のせかいで、箸さばきほどに、
それなりに、器用になったし、
これでも、抜けめないやり手にみえるらしいが、
おれが、本当のことを、いいはじめたら、
こんなもんじゃない。



こころの弱い妻よ。

いいたいことを、我慢できなくなったおれが、
本当のことを、
いいだすのが、こわい。
生きているおれは、いわない言葉に、
みちていて、いわばそれは、
おれを生かしている内圧のようなもので、
おれの、おれなりの、
バランスなんだ。

くちを、きけなくなった死体のおれを、
だれにも、みせないでほしい。



ぷらたなす、というのは、
アメリカから輸入された、街路樹らしい。
この国では、いほうじん、なんだね。
しらなかった。

まどの外の樹を、話題にしたおれは、
部下の末のおおきな声に、
いらいらする。
売り上げを、ろく倍にした社長さんのくしゃみに、
いらいらする。
ぷらたなす、といって、それきり、
大きぎょうの悪ぐちに話題をかえたおれは、
品のいい、
僅かばかりの炊きこみご飯を、くちにしている。

ぷらたなすのみつ葉は、
にんげんの指にくらべると、欠けている。
それが、
おれの内がわで、何時までもうごいている。



生きる、にあたり、
いちばん辛いこと。

死を、いたむこと。
名まえのある、ペットの死をいたみ、
名まえのない、野良犬の死をいたみ、
妻の死をいたみ、
しり合いの死をいたみ、
しり合いでない、すべての死をいたむこと。



話題がかわっても、
ぷらたなすは、ぷらたなすの、ままだ。

その、うごく、
みつ葉にみえる指のあいだから、
表皮の、剥がれた幹がみえていて、
それは、しろい、
くもった色をしていて、
いよいよ、街灯のじんこうの光りをうけ、騒いでいた。

部屋のなかは、どんどん熱っぽく、
熱っぽくて、おれは、はらが痛い。

おれの妻は、なぜあれほどに、
こころが、
弱いのだろうか。



恵比寿のみせを出ると、
そらの雲はものすごく、流れていて、
星がみえなかった。
とうきょうの明かりは、
おれの想像をいつも遥かに、うわまわるばかりだ。
商業デザインのその有名じん、とやらに、
おれはそっと耳うちする、
お、うえん、していますよ、と。

その夜、いえに帰って、おれは妻にせんこくしたのだ。
おれが、
さきに死んだら、
くちを、きけなくなった物質のおれを、
けっしてだれにも、神さまにもみせるな。

おれの遺言をきかされて、
思ったとおり、妻は、不安がったけど、
いがいにも、泣き出さなかった。

わかりました、と、
だけ、約束してくれたのだ。


Trick or Treat?

  黒沢




潮流には兆しがあるのよと
きみがいったか
他人のせいなのか
なみ打ち際で声が聞こえて
とお浅の舟をあらそう
みよ子の呼び名が浚われていく
そうして瞼がよるとなり
丘がうす曇りの冬の朝となり
うち寄せてくる波濤はいきものの首のようで
それらを抱きかかえて
きみはふざけた



いち枚のカードがあり装飾文字の表はうらで裏は間違いで気がかりな紙面のどこかにはさち或いはその反対と記されている。険しくなったきみの鼻梁に新月のどよめきが投射し件のそれはもはやここにない。又ぞろ次のカードへと指をよせるとふたりのうち独りはすでに人でなく褐色の倒れこむ燭台いな光りのきょう声。手元のとりたちはひき離されていく。宙がえる。うき対比される。わたしは安逸のためなおも試みをくり返すけれど背伸びした風が浅ましく窓枠をこえ真水のその先はふきつな揺り籠みたいで壁や床下にシュガー塗れの渦がまよい込む。横から見たきみのゆくりなくも自傷するにの腕。HareでもないKeでもない花のない食卓にざわざわとあのカードが降りかかるのに気付いたのは何時のことだったか或いは。



くち移しに
弓に手をかけて炎を
くぐって

下から
見あげた乳ぶさは雨のよう
草やきん類で麻酔したここ
ねつの母屋は死びとみたいだといわないで欲しい
嘘まねに似ている
そんなことはいわなくて良いから
もう白蝋の傷のりょう線を
惜しまないでほしい
ああ魚たちが
血みちを喪い葉牡丹のかきねをこえて登攀していく
一斉にたたみかける動悸はふと日かげの繰りごとに似て
見なくていい目を逸らしてと
いま上へとかえされる逆に
よこ揺れを圧しあてていく私はよいんに
過ぎないけれど液を渡しあいシュガーをうばいあう
いがいな表の
その狭間
懐かしいくるおしさに名前を与え
消しさっていい



あれはすい星かしら。いや熱気球だよ。

沖へ周えん部へと架線のあとをふみ締めては止めうず高く派生する潮の気配だけをたよりに根雪が汚らしいうす曇りの下を歩いた。みよ子これで何度めだろうか。わたしはまがった口調でいい直すけれど後ろ手にふたりを損ない棚引くばかりの偏西風に眉をひそめている。重い爆音。永ながと通りに投げだされたしき石からは力ない排水がわき複写されたそらの内奥で燃えそうなだ円の輝きが又ひと回り傾斜をつよめた。どこかで遮断機が腐りかけるのをうごく頭の片すみで感じ現れては姿をかくす顔のないのら猫。みよ子これで何度めだろうか。よきせぬ港湾のクレーンに行く方をきり取られた時きみは泣きだすのかと思った。ぺらぺら濁った波頭がかなた他人ごとのように見えてくる。みるみるうちに喫水線が歯がたになっており畳まれ又もきびしく定位していく。誤報かしら。そうした周期がゆくりなく変奏されるたびふたりの間近を泥だらけの輸送コンテナが掠めふと我にかえるとさらに水位が埋ぞう量が呆れるほどの執拗さでせり上がるのを確かめていた。

Trick or Treat? よつ角で誰かがふざけ合っていてこちらを見返してくる胡乱な眼つきが秘めごとみたいだと思って声をあげた。


新宿三丁目で思うこと

  黒沢

ムンクの舌のような月
それには直接
関係ないが
新宿のビル群の向うに
引き伸ばされた塗り絵みたいな夕陽がはり付いている



ホームレスといわれた男
はやりの言葉なら
ワーキングプア
自己責任
といった所か

名前を
持たない
鳥類を思わせる初老の男が
地下鉄出口の
階段のそば
縁石に腰を下ろして
通りを見ている
ぞろぞろ事象が溢れ出す雑多なものの光景を見ている
スタイリッシュな外車なのか
しり軽女なのか
奇蹟なのか
大都市の風が砂っぽく吹くのか

妻がいった
とても不安そうで
空気の動きにもびくびくして
少し
震えていたって



私はいう
かつてインドを旅したころの話

カンガーのそば
巡礼者がふり撒いていたピンクの花びら
黒い足裏が次つぎに踏みつけて
水辺では嗚咽する人もいて
けれども組合の
乞食の少年は
親方に
両手両足を切断されたからだで
ダルマみたいにもの凄く這いよってきて
涎をたらし
言語ではない唸り声を上げながら
ひとりひとりに
金銭をせびる

体温のような熱い
熱い
汚れた河が
その背景で厳かにかがやく

インドのあれが二十年前なら
日本にも中世はあった
一休和尚は
自業自得
見るも汚らわしい
つまり穢多
そういって棒切れを振り回し
気違いみたいに
はげしく打据し続けた
恐らく一生涯かけて



ホームレスが居る
ムンクの舌と
直接
関係のないあの
厳然と集合論的滑らかな手触りとしてある温い夕焼け

堕ちるのか
のぼるのか

のぼるのか
堕ちていくのか



世界の裏側で誰が
何にん死のうが知りようがない

たとえば今生
この地球のうらぶれた路上で
施政者や無為の小市民や
にく親が
どれだけ他人を苛もうが
私には何も分からない

飢餓にもさちの偏在にも
社会システムの人類規学的挫折にもインターネットにも



ホームレスが居た
それは

形而上の想像不安
いってみればムンクの舌などを持ち出してみた
書かれた
書きものの

表記や作者
対象や
比喩のあいだの乖離や肉薄と
まったく無関係な話だ



いま新宿三丁目の地下鉄の出口で
縁石にすわり込んでいたひょろ長い
影のような男が
コンビニ袋を左手に持ちかえ
陽も混沌もない終夜の活動期を目前にして
ビルや立体交差や
ひと混みや信号機の向う
惰性というほかない大都市の化学照明のさなかに
浮きあがるような心細さ
饐えた矜持のなお残るせわしさのまま
吸い込まれていく

しなびた顎鬚にはり付く
無言の履歴
それを参照する外部の話者も与えられず

輪廻転生や
宗教論的裏づけにすら言及されず
どうにもムンクの舌としかいいようがなかった月
なのか
塗り絵の名残であったか
遠のきうすくなる胸板の暗部
だぶだぶのシャツの継ぎめや綻びに
忍ばせたまま



ホームレスでも
ワーキングプアでも
滑稽でも
自己責任でもべつに構わない

そういって私は
妻を
恐らく怖い目で睨みつけたはずだ


オフィーリア

  黒沢





人に会うのが目的だった。

その日、湧きたつような照り返しのなか、渋谷周辺のデパートの外壁に、オフ
ィーリアのポスターを見かけた。暗い緑を背景にして、よどみに浮かぶ水死人
の似姿。服飾ブランドの意匠らしく、引き伸ばされた絵画のふちに、凝った幾
何学模様のロゴが配置され、このようなものが何の宣伝になるのか、ふいの日
陰へ迷い込むような感覚がした。

数日のち、四ツ谷を経由して銀座へいそぐ。
位置が定かでない交叉点をわたるとき、地下へと沈むコンコースの壁いちめん
に、寸分たがわぬ同じデザインか、或いは何かの展示会であったのか、あの死
美人のモチーフを目にした。



以前のこと、オフィーリアの図像を探したことがある。

ジョン・エヴァレット・ミレィ、ポール・ドラロージュ、アレキサンドル・カ
ヴァネルなど…。
十九世紀の後半に、偏って幻視されたこれらハムレットの作中人物は、どれも
原作からの逸脱がすくなく、今では時代がかった印象だ。

// オフィーリアは、周りのきんぽうげ、いら草、ひな菊、シランなどを集め
て花環をつくり、その花の冠をしだれた枝にかけようとして、枝は運わるく折
れ、花環もろとも流れの上に。すそが拡がり、まるで人魚のように川面の上を
ただよいながら、祈りの歌を口ずさんでいた。//(福田恒存・訳)



空港に着いたとき、いつものように携帯電話が鳴り、受け取ったメモに誘引さ
れるままリンクをたどる。発信者は知人。メモを送り返すと、アポイントメン
トについての話題は次第になおざりとなり、閲覧したテートギャラリーのサイ
トから、仄白いオフィーリアの消息、回路を越えてなお止むことのない、デー
タを呼びだし反芻していた。

広場でラジオが鳴っている。何かの演説のような、お笑いタレントのがなり声
が聞こえる。



霧のような雨がふり始め、いき過ぎる自動車は粒だった水滴に、精確に濡らさ
れている。昼間なのに、ヘッドライトが灯され、細かい連続のすじが、蚊柱の
ようにうごくのが分かる。

世界は、雨だ。
水のような粒子の乱れだ。

成田から虎の門、霞が関周辺、神田からまた恵比寿へ。
とある駅前の広場には、ラジオではなく、巨大な吊り上げテレビジョンがある。

埃っぽい広告画面に、ニュー・リリースの音楽映像がさし込まれ、楽曲は扇情
的であったり、予定調和的であったりして、プロモーションビデオは人びとの
群れの真うえで炎上し、あまたの信号を増幅してよこす。何かがはしる。記憶
は圧し返されていく。白濁した光の揺れ戻しのようなものが挿入され、画面の
枠を、撹拌し続けるひび割れしたサ行の爆音は、べつの意匠へと置き換えられ
ている。雨は小ぶりになる。いずれそれらは止む。

眠りや待望は、縁どりされた吐しゃ物のようなもので、この街も、いま見えて
いる火祭りに似た人びとの行列、都市計画も考えぬかれた商業広告も、オフィ
ーリア、お前のむごさには敵わない。



待ち人がきて、またも話題をなわ抜けしていく。ティー・カップがうち鳴らさ
れ、ロゴスではなくもっと直接的なものを、掘削機のようなものをと議論をか
さねた。ウェイターは歩きさり、違法建築めいた明るい陽光を通して、電飾の
消えた東京タワーの立像が見えてくる。

それでは明日は、歴史の一回性について。



倦怠といっては違う。
たぶん、それは異化され過ぎている。凡例をくみ替え、配列された用語たちが
ふいに、想定していなかったそれぞれの怨嗟や、声の不在を突きつけてくるこ
と。

// 暗く
淵になった川の表

半ば
くちを閉ざし
いろ味のない唇は前後の緑を映すようで
半ば
うわ向いた瞳から
出てくるはずのない言葉をとどめ

水死体は流れていく//

オフィーリア、意味を聞かせてほしい。
斜面の上手には、勿忘草が咲き、下手のくぼ地には、野薔薇やミソハギの群生。
きみが嬰児さながら手くびをひらく、闇のような日陰には、すみれ、芥子、バ
ンジー、撫子などが、かつて花環だった余韻を残し、柔らかく、ときに気がか
りな生々しさで、水を吸いつつ裏むけられていく。



韻律になったその希薄さ、親密で疾しげなふる舞い。時代がかった濃紺のドレ
スと、未知の職人のパッチワーク。終わりなき腐敗…。

私の揺らぎ、オフィーリアよ。


給水塔

  黒沢



/(一)


手を繋ぎ、互いの心臓をにぎり締めて、あの給水塔へ歩いていく。止まったままの鈍色の空。私たちの街に、行き先が明示された全体はなく、正しいスケールも、形すらない。遥か、中央にあたる円柱の塔には、赤い花が見え、空に埋もれてそれは腐っている。それはとっくに、
 腐って、
   いるのを
     知っているけれど/
後味の悪い、思い出に似てくるうす光りの道を、私とあなたはくるしく急いだ。迷宮めいた建造物の連なり。時おり他人の声が聞こえ、雨に打たれた街灯の柱から、水のしずくが這い下りる。猫が現れ、私やあなたに関心すら示さず、初めの四つ角へ姿を隠す。私は、足もとすら覚束ない曲がりくねった路地で、あなたの耳たぶをきれいだと思う。石畳にころがる、なふたりん、らんぷ、なまごみの類いを、よそ事みたいだと私は言いあて、次の四つ角が近づく前に、胸の何処かがひしゃげる気がする。唐突に姿を見せる黒い街路樹。そこから、落ちかかる脆い葉むら。私たちの街に風なんてなく、遠のいては近づく痛みのような、影が逆さに揺れるばかり。

通りのあちこちで、音を立てる排水のすじ。ちょろちょろ、それは石畳に沿っていて、あなたの歪んだ靴だけを写す。広場を迂回する、左右の逼った坂道に会うときは、あなたの心臓がわずかに萎み、悩ましい息の匂いが届いてくる。私は、あなたの心臓を、
     にぎり締め
   あなたは、
 私の心臓を/
ひき締める。歩くたびに、後ろにずれる建造物の切れ目から、またあの給水塔が見え、赤い花さえ、ちらちら覗く。あなたは不意に眉をひそめ、たちの悪い悪戯のように、私の名前を疚しく繰り返す。私は、そういうあなたの不確かな心が、まるで引き潮のように、私の命を縮めるだろうと思う。

(四つ角に会うたび、
私たちは噴水に驚く。背の低い水の湧出が、私の胸の暗がりを言いあて、あなたの肩の水位を上げていく。目のなかで、零化をつづける揚力とベクトル。他人のざわめきが、私とあなたを親しく脅かし、繋いだ互いの手に、尖った雨が堕ちてくる。)



辺りに、打ち棄てられた猫の死体。けれども、その尻尾がしなやかに跳ねるのを、私たちは忘れないだろう。坂道を上りつめ、新たな四つ角をじらしながら曲がると、円柱の塔と、赤い花がなおも現れる。あなたが、手にする私の心臓は、生きているのだろうか。あなたが私の腕に巻きつき、そっと誰にも判らないように、秘めたピンクの腸を見せる。街の回廊を、聞きなれた睦言が濡らし、私の身体はだんだん溶けていく。

 途中で、
   止めていいのよ
     とあなたは言い/
私はそこで初めて、また出発点に戻されたことに気づく。あなたの心臓が腐り、私はあなたの、取り返しのつかない二の腕を探している。壊れた顔を拾い集め、欠けていく心を抱いて集め、あなたがいた石畳の空白に、無駄だと判って並べたてる。遥かに見上げると、動かない給水塔に光りが射していて、うず巻く鈍色の雲のしたで、赤い花が震えている。



/(二)


 震えが、
   止まらないわ
     とあなたは言い/
その震えは、給水塔に見える赤い花のそれと、呪わしく対応している。ほどなく、修復を終えるあなた。ちょろちょろ水が石畳を這い、その靴さきを濡らしはじめる。他人の声がいつの間にか回帰して、私とあなたを遠まきに包囲する。あるいは、粒だつ異物のように、辺りから区別していく。

私たちの街には、正しいスケールも、形すらない。寝覚めの悪い建造物が林立し、いくら歩いても近付くことが出来ない。初めの四つ角を、顔のよごれた猫が通るとき、たまらず、私は自分に問いかける。何をもってあれを、いったい何の中央だと言うのか。歩き出すあなたは、
     私の心臓へ
   二の腕を
 さし込んでくる/
次第に、ぬくい、悔いのような圧迫が、動く私の暗がりを満たし、狂おしくなった私は、路地と坂道と、街路樹のある通りで、意味の判らない嗚咽を繰り返す。石畳にころがる、なふたりん、らんぷ、なまごみの類い。あなたは私の耳たぶを拡げ、肉のもり上がりを痛いほどに圧しあけて、聞き飽きた秘めごとを、引き潮みたいに私に流し込む。たまらず、自分に問いかける私は、次の、四つ角が近づく前に、胸の何処かがひしゃげるのだろう。

(脈絡もなく、
他人の声やざわめきが聞こえ、真新しい噴水が中空をひるがえるたび、路地の何処かから、あなたが呼ぶ声がする。手を、繋いでいたはずなのにと私は混乱し、慌ててあなたの心臓を求めるが、あなたはここにいる。)



ふぞろいな建造物の切れ目から、垣間見えるあの円柱の塔と、赤い花。回遊するのは風でなく影で、私とあなたは、どれだけの時間、ここを歩いたのかさっぱり判らない。降りつづく雨の揺れに、しぶきを返す四つ角を越えるとき、私は、疚しい自分じしんの声を聞いた。

     給水塔を、
   ばくは、
 せよ。爆破とは/
つまり中央をなくすことで、広場を迂回するこの坂道の途中でも、あなたの不在を確かめられないことだ。唐突に現れた子供の公園に、四角いベンチがあり、砂のかたまりが板に浮いている。水のしずくが垂れ落ちる遊具には、何かの文字が書かれているが、私には読むことが出来ない。私たちを見下ろす円柱の塔は、鈍色の空のなかで怖ろしく停止していて、未知の、想像もつかない水量を蓄えて、限界ぎりぎりで待ち構えている。
 /給水塔を、
    ばくは、
せよ。あなたの心臓を手放し、あなたの腕や心などから離れて、街の中央にたどり着くためには、赤い花に触れることが必要だ。/給水塔を、ばくは、せよ。たしかに私たちは再会した。迷宮じみた雲のした、この街の路地や坂道や、街路樹のある通りの何処かで。ふたたび猫の死体を越えていくと、左右の回廊が、後味の悪い、思い出のように連続し、水が溢れている。震えが、止まらないわとあなたは言い、その震えは、給水塔に見える赤い花のそれと、呪わしく対応している。



/(三)


心臓の圧迫がなくなると、雨ざらしの道の外れで、崩れるように屈み込んでしまう。膝を濡らし、粒だつ回廊の砂を惨めだと感じながら、水に写った自分の顔を、目のはしで見ている。だらしなく石畳にころがる、
 腐った
   あなたの
     髪、壊れた/
あなたの二の腕、声、心など。私はひとつずつ拾い集め、斜めの視座から辺りを見上げる。唐突に息を吹きかえす、葉の黒い街路樹。複雑に分岐する路地と、頂点のない坂道。建造物の向こうでは、うず巻く空の雲が止まったままで、この街の全体を生ぬるく見下ろしている。私は、ひとりだと思う。欠けたあなたの顔、弛んだあなたの息、匂い、糸きり歯などを、光る石畳に並べたてながら、軽く、虚しくなった心臓を感じる。たまらず私は、歩きはじめ、この腕にあなたを抱いたまま、行き先も判らず声をあげている。

(修復には、
まだ時間があるし、私には、犯すべき禁忌が残されているはずだ。)



/……。


僕のほら穴の仮面パペット人形

  黒沢


1・

このような話を、信じられるだろうか。

僕がいる、
後ろぐらいほら穴には、春と夏と、秋と冬とがあり、大気さえ循環している。ひどく陰惨な冬の風が、吹き続けている夜もあるし、いるはずのない春虫の羽音が、始終そよぐ神経質な夜もある。
僕がこのほら穴に棲みついて、もう何年になるのかわからない。ここの空間には、いたる所に欠落があり、植物も大地も、水も、従って川も無いし、風があっても、地形の変化がない。

夜ばかりあっても、朝はない。
動物もいないし、
何より言語をあやつる人の存在と、その概念がない。

僕はこのほら穴で、のべつ幕なしに、大気の気配ばかりを感じている…。それは、決して悪いことじゃない。誰にも理解できない、遥かな天体力学の動揺につられ、この見なれた空間では、満ちていく大気の手つき、衰退していく大気の余韻などを、いながらにして感じることができる。それに、季節特有の変化、
というものもある。

ああ、光もないし、天も地も、ない。
それでもここは、
れっきとした世界そのもので、僕自身の場所であるのだ。どうか、
僕の満足を想像して欲しい。


2・

僕のほら穴には、僕が三角坐りする、
みじめな窪み、だけがあって、
それ以外といえば、華奢な仮面のパペット人形がいる。

こいつは、またぞろ、
何処かで傷を付けられてきたらしく、暗がりに、背中を向けて立ちんぼしている。ああ、僕に近寄るわけでも、僕から遠ざかるわけでもない。安っぽい仮面は、白いペンキ塗りだ。ボディの素材は、異国のチーク材であるらしく、それにこの世のものと思えぬ奇妙な糸が、ちいさな頭部と、ひょろ長い胴部、寸足らずの脚部などに絡み付いている。
その糸がちょろちょろ動けば、
少し遅れ、仮面パペット人形の首や、手が、胴体が動く。だが、
本当の仕組みは、僕にもわからない。

何よりも、このほら穴はとても暗いから、仮面パペット人形は、いつしか、僕という感情の分身のようになって、今も僕のわきで、泣いたり、悔しがったりしている。


3・

さて、ほら穴の春。
僕の代わりにこいつは泣いていて、その背中が揺れているのでわかる。わずかに光っている頬をみても、識別が可能だ。そのため、僕はいつの場合も、泣くことができない。
ところで僕の現実の人生に、具体的な障害があるわけではない。いや、もっと大きな前提として、僕は断じて、仮面パペット人形ではない。

続いて、夏。
仮面パペット人形は、僕と眼をあわせない。その理由は、さっぱりわからない。

ほら穴の秋。
仮面パペット人形は、またぞろ何処かで傷付けられている。
ところどころ糸が切断され、それが人体の腱を思わせ、ぶきみで不快だ。風が吹くと、ぶら下がった糸が、脆く煽られる。僕はそれを、
みじめな窪みから、始終。じっと見ている訳だ。

冬。
僕はよそよそしく、仮面パペット人形を見ている。こいつが何者なのか、知ろうとする意欲すら、もうない。おきまりの循環だ。だが、知る、ということは、知ろうとする熱意こそは、おそらく生存に許された、
唯一といっていい出口だと思う。
僕が関心をうしなった仮面パペット人形は、窪みのそばにいて、一段と華奢に見える。
大気の動揺にあわせ、ちょっとあごを持ち上げて、匂いを嗅ぐような仕草をしている。さっきから、それ、ばっかりだ。


4・

こうして、また一年が過ぎた…。

このような話を、信じられるだろうか。僕は最近、
年齢、
というものを持つようになった。

一年の、その次のまた一年によって、質的な変異が起こり得ることを知った。時間というものは、何と嫌らしく、何と分厚くしつこいものか。だが、僕がそれを言ったところで、何になるだろう。ああ、
僕も、仮面パペット人形も、隔てなく変異していく。ここのほら穴の、闇に慣らされた目には、微細な違いが手に取るようにわかる。おそらく、三十年は下らない永すぎる鍛錬で、僕は、仮面パペット人形を構成するチーク材、糸、ペンキ、涙…、あらゆる材質のわずかな差異すら、空んじる程にいえるようになった。

もちろん、
僕自身に起こるそれをも。

ところで僕の現実の人生に、具体的な障害があったわけではない。
僕の年齢は、これまでも確実に足し算されていて、
ただそれは、残りの時間が少なくなった事実を、当たり前のように意味するだけだ。


5・

そして、
或る年の、冬の夜のことだ。

みじめな窪みに、すっかりなじみ、
僕はそこで、居眠りさえするほどになった。僕の、後ろぐらいほら穴にだって、雪ぐらい降る。何年かぶりに見たその雪は、ひどく軽く、儚くうずを巻いて僕たちを包んだ。

僕たち…。そう、
仮面パペット人形は、すっかり体に油が回って、糸がずたずたに切断され、僕のよこで、おなじ雪を見ている。白塗りの仮面のペンキは、所どころ捩れあがって、剥がれて基底の材質が見える。何より、僕をおどろかせたのは、こいつ、
僕と眼をあわせるばかりか、
時おり、僕の心のなかを、まっすぐ今は覗き込んでくる。

仮面パペット人形が、
踊りはじめる。
どういう悲しみを、何処から、この世の複雑な感情を、
掻き集めてきたのか。
踊りだす、仮面パペット人形は、僕のほら穴の広やかな空間を、どういう訳か疾駆していく。それにしても、傾いでいる背中。糸が垂れおちている首。寸足らずの脚は、下手糞なステップを踏んでいるし、どう見ても、まるで全体が出来そこないなのだ。
部分から部分へ、全体を前にして逡巡し、また部分から、こまやかな部分へ。僕の独白にどれほどの意味があるというのか。

擦り切れているチーク材と、
腐食が進んだ色のない糸、
透明度の落ちた涙。
何より、傷のように横に走っている、仮面のおもての細すぎる眼。

さて、仮面パペット人形の踊りに、
音楽の伴奏、などない。だが、下手糞なステップが打ち鳴らす足音は、春、夏、秋、冬に関わらず、僕のほら穴のしたしい空間を、際限もなく満たしてくるのだ。おかげで、遥かな天体力学の、深々とした動揺の気配が、どう工夫しても汲み取れないばかりか、
僕には、ここに、
僕だけの確かな世界が、あったことすらわからくなる。どうか、
僕の不満足を想像して欲しい。

いつしか、泣けなかった僕が、涙をこぼしながら、
手を叩いているのに気付く。
僕は拍手しているし、この、みじめな窪みのなかから、知らず抱えていた膝をほどき、立ち上がった気がするのだけれども、僕には覚えがない。


6・

僕のほら穴の仮面パペット人形よ。

僕にはこいつが、何故、今さら踊り始めたのか、
その理由がさっぱりわからない。
どのように考えても、全くわからない。


森の言説

  黒沢



目蓋すれすれに、煤煙がたち昇る夕刻の木立に居た。
枝の、構造が私の前頭葉に映り、葉脈の不揃いな切れ目が、謎めいた符牒の様
に私を追いつめる。私は、森の構造に疲れ果てた。いや私は、もの言わぬ常緑
樹の間近で、時間の分厚さに眩暈する。瞬きの間に、移ろう気配と色、饐えた
土の臭い。ま新しく暗転する幹や、崩落した葉の堆積を視よ。私は…、滾々と
涌き続ける水や、息も付けぬほどの残照、近隣の影と光の生態系を、戦時のそ
らの様に懼れる。

脳幹には、私の脳幹なりの美的根拠がある。
装飾論的揺曳と、都市学的な危機。細い舌を舐めずる様に、あるく私が、葉脈
のプールの只中で切断されていく。淀みの中でしか点呼されない私は、幹と葉
とが電撃されるのに合わせ、首を左右にふる。それで、帰納されていく。

枝を、渉っていく栗鼠や、胎児の豹の意識。
退化する猛禽類…。学術名は記憶して居るけれど、符牒することのできない小
動物の類いが、枝から幹を、それから葉を、また渉っては横にずれる。

戦時のそらには、悪意を溜めた爆撃機が、緩く時間に流されて居る。遥か遠く、
風だか都市のノイズだか判らないどよめきが、寄せてくる。
終にあるく私は、葉の構造、森の構造たちの核芯に到達する。それから、老い
た樹の幹に触れて、内部の言説を止めどなく汲む。たえ難い悲しみの余り、闇
の只中で私は、瞳を、花の様に開いた。鈍色の地平線すれすれに、短い直線に
なって隠滅されんとする夕日。その不可視の残照を受け、私が…、私の物でな
い前頭葉が、独りでに帯電していく。


夜バス、或いは乗客。(一)

  黒沢


傷付いている! ベッドに横たわるとき、何故だかそう思う。すると、私のうえにバスが現れる。見慣れたあの、鉄の箱が近づいてきて、丁度、胸の辺りで停まる。これ程の乗客が、装填されていたのかと驚く位に、膨大な数の人ごみが降りる。眠りの間際に、そのような驚きを得ることは、愉快、愉快だ。

乗客は、それぞれ、マッチ棒のような黒い頭を持っていて、折れそうで心細い。大きな手が、それは私なのだが、溢れるそれら乗客の一人一人を、その殆どを、丁寧に間引いていく。黒い頭を、次々に間引く。日によって、唯の気まぐれによって、様々なその理由を付ける。参照すべき法則を作るのだ。

バスのなかには、きっちり八人。二人がけの座席の通路側に一つ。通路を挟んで、窓ぎわの座席に一つ。そうやって求めた二人の対を、きっちり四列、作る。真ん中に、やや淋しげに配置していく。マッチ棒の、整理整頓の按配。私は、愉快だ。私は云わば袋のようなもので、それは、痛みすら内包する!

何かが、騒ぐ。バスは走り去っていく。人ごみを収納し、袋のような私を置いて。ベッドが僅かに軋み、そう、振動が伝えられているのだ。私のうえには、円い鉄の板が、疑問符のように架かっている。よく見れば、行き先案内の、唯のバス停のようだが。私は、のびをする。何度となく寝返りを打つ…。


限界庭園

  黒沢



蜜の、臭いの漂う限界庭園には、陳列された躑躅のサンプルがあり、押し黙った庭師が敷地をあるく。初めに映し出されるのは、手。接写状態の、傷だらけの手のしわ。老いた猿の知恵深さと、ヒトの狂気と、神の精密さをあわせ持つ。続いて、突如、遠景であるはずの容れものが、つまりは、この限界庭園の全体が、ぼやけて不確かな像を結ぶ。あらかじめ、定義された大気が動き、花粉や虫の糞やらを、あらぬ方位に運び去っている。

ひとつの躑躅をしらべ終わると、次の躑躅が、拡大して顕れる。限界庭園には、近景と、遠景しかないから、視覚は、常に極端をスイッチする。庭師の手は雨垂れに濡れ、断続的な、時の侵食に奇しくも犯されて、架空の神の、魚眼レンズとなる。ヒトにとっての、悔いとなり得る。

ところで、更なる次の躑躅のサンプルは、突如、花ひらく。それから、限界庭園のかたい石床の、水溜りへと花びらをばら撒く。蜜の、臭いで雨を閉じ込め、葉むらの構造の深い底で、夢をむさぼる。青いビニールで補完されている、庭師の極めて長躯のからだ。雨を吸いこむ株の向こうに、それが遠景で時おり見える。温帯の、豹やライオンが持つ疲労尿素と、気高い孤独とが、来園者の胸を打ち、愕かす。

透視図法の、雨垂れの連続は、残酷な手つきでこの限界庭園を、猿と、ヒトと、神がなすこの無意味な実験を、始終、飽きることなく包囲し続ける。雨が弱まると、庭園の敷地の限界が、音もなく膨らむ。雨が強まると、魚眼レンズごしに見た曇り空は暗く、庭師、ライオン、神、来園者、躑躅までを含め、すべてが定位して怖ろしくひき締まる。

さて、終りの躑躅のサンプルは、だんだんに巨大化を止めない。限界庭園にとっては、危機とも、久遠ともいい切れる、あの庭師のビニールの青。ぼやけたそれが近景となる。雨垂れに犯されると、多くの花が、突如、震える。猿の手が、均一に育て上げたあり得ない球。株分けに、株分けを重ねた、躑躅のコピー。いちいち、雨をはじく花びらの芯が、限界庭園の近すぎる空を、勝手に夢見ている。密生に、密生を重ねた大気の密度が、雌しべのひとつに、接写していく。別の、来場者がとおり過ぎ、庭園の記録に改行を増やす。最後に映し出されるのは、手。老いた猿の知恵深さと、ヒトの狂気と、神の精密さをあわせ持つ、という。


亡国

  黒沢




あけ方 火の柱が
空を訊ねるにの腕に見えて
ドアの外では
途が
焼かれているのかと思う

食器
羽をぬらす鳥
みずは地下茎となり
吃音となって
やみへ ひろやかな波形図へと至る




目が、暗たん
という 
非対称は気にしない

焔がはやく 侵入してきて
とまった舌や
雨の予兆を
他愛なくそして生ぐさく思った




今度うまれ直したら 
マジシャンになって 恥じらい
みたいな
悪い 
布でまどを被うの

私は ひと、
となり
よび名を塩ぬきされていく 
真昼のふれる月なのか




目を 見かえすと光りが溢れ
みず雲がはしるように
時間が煙るから
疲れがおりてきたよと火遊びを中断する
指を別のところへ絡めると
今さらなのねとその目が、移ろい
教えが嘘だったらしいとシーツの端に
浅ましい言葉たちを隠した
羊飼いになりたかったけれど
治めるべき故国も
暦すらも持たないから
ふいに誰もが
死びとみたいだと愕いてしまう
光りが溢れてくる
直ぐにそれらが失調することを知っている
居眠りのため
そっとぜん身をずらしていくと
これでもかと、何処かに墜されていきそうだ


シナガワ心中

  黒沢



星が、縺れ
ひきつりながら後退していく
瞳の表てに 何かが
写り、
母と呼ばれる無限のそうしつの
暗いどよめき

― 私と貴方は、同じ階段を、べつべつに下りていく。
上空、どれほどの高さだったか。ほそ長い階段が、ぶきように延ばされた飴細工のように、闇を伝い、宙づりの影を縫って、彼方の市街地へと下降している。色とりどりの立体灯火。貴方は途中、何度も足をやすめながら、軌道の向こう、 滲んで見える品川の全景を、しつこく指差した。



もう 此処でいいですか
かあさん やはり違うんです

― 風が、うごく。
予想外の焦点のゆれ。遅れてきしむこの階段を、何時から下りはじめ、いつになったら、私と貴方は辿り終わるのか。それを考えるにつれ、謂れのない疲労を感じた。

此処でいいですか



年老いた彼女は、汚れの目立つ手すりに掴まり、己れの足運びを何度も反芻して、思い返すみたいに、時間をかけて前へ進んだ。

息をのむ近さで、馬や、ラクダや、いて座や、近未来や、有り得ない生きもの達の星座が流れ、右やひだりを遷移していく。母は時折、見えづらいはずの瞳を伏せ、やみ雲に光りを追いかけて、名前を与える。



教えられる、
発話のしかた
事物の名称
世界のふところ
内奥、
ということ

― 父の顔を捜していた。
彼女に聞かされたその投影は、この上空の何処を求めてもない。あれは、ばら色星雲ですか。私の声を受けて、母がかさねる。あれはお前に、ずっと昔にくり返し教えた、にくの欠片。



かあさん やっぱり違うんです

階段は品川の、時代遅れのネオン街に下りたつ。地上で立ち止まると、却ってぐらぐら視線がみだれた。かあさん、少し、よりすぎだよ。

― よりすぎですよ。
パチンコ屋の裏口が見えた。仕事を終えた勤めにんやら、休憩時間の店員やらが、ごみのバケツを覗き込んでいる。電線の向うには、曲りくねった化学照明が吊るされていて、夢の名残りを辺りにばら撒く。かあさん、ここではないですからね、私は先回りした。



明りのなかで見ると、貴方はぞっとするほどの生めいた瞳だ。水の淡いで星が泳いでいて、ゆれやすい生きものを形作る。父ではない、他のにんげんの顔が横切り、私は嫌悪からでなく、怖れのために先を急いだ。地下道にはいる。銀の移動体が通りすぎていく。列車、だったか。

もう 此処ならいいでしょう
未だなのですか
はは、とは
彼女は
呼び名ではなく、



改札では、足もとの覚束なかった彼女が、今では黙って後ろを歩いている。地下道は、線路を伝い、行方のわからない排水溝や、非常経路を縫って、もう暫らく続くのだろう。見しらぬ花が、咲いている。私はそれに言及しない。綻び、きえた風の見取り図。頭上で駅員のアナウンスが、ひずんだマイクで拡大された。

― 暗いどよめき。
終端にきて、地べたのマンホールをずらすと、また、内奥から闇があらわれた。私と貴方のうす寒い目前に、べつの階段があり、それは飴細工のように、ぶきように引き延ばされて、さらに深くへ下降していく。かあさん、未だまだ、終わりはこないようです。



星が、見える
生きものは
かたむき 死滅して
渦を巻いている
無限のそうしつと
発話したのは私だったか だれ、
だったのか

おそらく品川のビル群が見える。遥か足下で、識別灯が、気が遠くなるほどの疎らさ、じれるような間隔で、明滅を続けていた。

文学極道

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