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作品 - 20080616_794_2835p

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


ネズミの上司

  はるらん

「おい、青酸カリをよこせ!」と、さっき捕まえたばかりの会社のネズミが叫んでいる。悪く思うなよ、俺がそう眼鏡の奥から声をかけるとネズ公は、茶色に錆びた鉄格子を両手で捕まえて鼻をヒクヒクさせた。俺はネズミ捕りを車に乗せて薄闇の河川に降りるだろう。
「お隣さんは帰りが早いのにどうしてあなたはいつも遅いの?同じ主任なのに」、と妻は味噌汁を吹きこぼしながら唾を飛ばす。俺が休日出勤する日曜日に、お隣の主任の彼は上司とゴルフに行き、俺はパソコンの前で冷めたコーヒーをすすり机には資料が堆く積まれる。
「青酸カリをこっそり作業着に入れても、誰にもわからないよ」
お隣の第一工場の主任はいつも俺とすれ違いざまにそう囁く。そいつは白く輝く結晶で、ドラム缶の中に裸のまま眠っている。ただのドロップじゃないか、カラッポのネズミ捕りからアイツの声がしたとき、お昼のサイレンが鳴り弁当屋のおばちゃんが軽トラックで配達に来た。

「そうそう、第ニ工場の主任さん、こないだ川原でネズミを殺したでしょ?」
振り向きざまに、食堂に飾ってあった花瓶がスローモーションで割れる。
床に広がる水と、散らばるユリの白い花びら。
飛び散る黄色い花粉は拭いきれず、その中でおばちゃんは動かない。
何だ、今の音は!
昼休みで工場から帰って来た社員達がエイリアンの目で後ずさりする。
頭を抱えて床に倒れたおばちゃん、血の滲む白いユリ。体中の血が逆流する。
「俺じゃない!」と叫びながら外へ飛び出すと、飛び出た俺の前を一台の軽トラがクラクションを鳴らす。
「ありがとうございました〜!」と、さっきの弁当屋のおばちゃんが笑顔で走り去る。まさか・・・
食堂の入り口に戻ると、粉々に割れた花瓶も広がる水も、白く散らばったユリの花も花粉も、そのままだった。弁当屋のおばちゃんだけが、そこにいない。
掃除のパートのおばちゃんが床をモップで拭いてくれている。
ケガは無かったかね?黄色い花粉は、なかなか除かないねえ、と笑いながら。

次の日、人事異動の発表があった。お隣の主任は工場の次長になり、おめでとうの花束を受け取る。俺は明日から人事部の主任に異動、と掲示板に告示されていた。
帰り道に広い構内を自転車で周り、人事部の一番窓際の机を確かめると、今日で早期退職する人事部の主任が堆く積まれた彼の私物の本をダンボールに詰めていた。彼は四季の主任と呼ばれ、来る日も来る日も窓際で本を読み、春には窓の外の桜吹雪を眺め、夏には木陰で昼寝をして、秋には枯葉を集めて焚き火をし芋を焼いてみんなに食べさせた。冬には構内の雪かきを日がな一日、ひとりでただ、黙々と。
窓の外から彼と目が合い、俺は思わず会釈した。
彼は軽く微笑み、また荷物をまとめ始めた。

作業着のポケットの中の青酸カリは戻しておけよ、
檻の中から数え切れない数のネズ公が親切に忠告してくれる。
明日からネズミ捕りをするのは誰だろう?
俺は掲示板に告示されていた第ニ工場の新しい主任の名前を思い出そうとしていた。

文学極道

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