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作品 - 20071228_357_2519p

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


馬頭星雲

  黒沢




若いとき、私はいきていくのが不安で、昼間なのに夢を見た。

―その塔は長大なゆえ、登攀することは出来ないという。僕は夢のなかで、そうした他人の取り決めを打ち消しながら、忘れえぬ錯誤の結果として、せまい踊り場で立ち竦んでいる。青の部屋、確かに番人は、鉤鼻の彼はそういったが、照射されたライトが眩しく、返事の声を取り落としたように思う。ふら付きながら窓に到達する。下界が極端に低く、滲むような街路や、名前のない港湾がひしめき、正直いってこの世離れしている。そう思って僕は口にした。夢の言語は、巻貝のように巧妙に曲がって、ひき放たれた声がそら耳のようで、従ってこの尖塔の高みに、拠って立つのは僕が記述だからなのかも知れない。日が、日を追いかけて凋落していく。特筆すべき視座の傾きをものともせず、柱廊の一端を持ちあげたかのような僕たちの背後を、水が流れている。

ところで毒々しい体を持つ私は、その由来が私なりに古く、記憶における憤りのような、彼のよこ顔から目を離すことが出来ない。ぬっと前に出た番人の鼻。ぬっと前に出た番人の恐るべき鈎鼻と、骨ばった顎の絶対的角度を、私はどれほど懐かしく、地形を喪失するような傷み、時おり痙攣的に、外部から渡されてくる陰影に脅かされながら、想起しただろう。今なら分る、私が視ていたのは闇ではなく輝きだ。飽くことのないそれは別離の前ぶれで、私と番人とは他人であったと。



壮年になって、私はいきていくのが不安で、昼間なのに夢を見た。

―僕はいう、何ゆえ青なのか分らないと。番人はこたえた、それは真水の喩えなのだと。同じ高さで、横から盗み見た太い鉤鼻。怖ろしいことは、僕が経由してきた記述にあるのではなく、彼を初めとする他人の体が、とても正確に老いていくこと。夢の言語は、僕を後ろから抱き起こす不燃物のようで、塔の内側には声もその名前も、名前もよこ顔の写しすらない。窓の外にはいわゆる下界とされる人間たちの木っ端微塵の影絵や、決して明滅を返さない大河。雲の直下へと叩き落された、屈辱的といっていい半月の低姿勢な躓き。横からもう一度、あの番人へ視線を戻す。ひと知れず、長く大きな火傷の痕に、褶曲線のような模様が、波紋さながら触れて拡がっていく。ここは青の部屋。到達出来ない尖塔の頂きなのだ。

ところで幼児期からの引用、いいかけて止めた秘めごとまでを持ち出し、せめて悪意による呵責を、さもなくばダンスをと、私は喪失した呼びかけ、分不相応な微熱でくり返した筈だが、夢なのでいい加減だ。私が視ていたのは光りではなく影。闇に酷似し、日に、日にかさ張っていく裏書きの反映。どよめき始めた私たちの頭上に、石の反射鏡が飾られている。





言語による未必の透視。それはまさしく手紙のようで、私は疲れて頁を伏せる。ベランダに出る。借りものの集合住宅の外、彼方に品川のビル群が見えている。高輪の丘陵は低いようで険しい。並列された建物の半ばで、識別灯が輝いている。揺らぎながら交代を続け、ばらばらに遷移するさまは、呼吸のようであり、何の関係もない花火のようだ。眼下には、見覚えのある路地があって、さきの開いた街灯が立っている。折れ曲がった小路。木立や家並や、架線に苛まれるその行く手は、切れぎれになって追うことが出来ない。春の夜、暗いのに、沈んで感じられる束の間の光景は、私という日常を非線形にして、気が遠くなるような弱い摩擦音をさせている。

―すると、近くのものが遠景になり、現のことが大写しになる。この街のせまった坂路を、裸の馬が疾駆していく。色褪せた臀部。外部光により陰影を与えられ、肉の塊が重おもしく上下する。それはしなやかで脆く、そして静かだ。馬が走っていく。跳ねることによる傷みも、打感すらなく。首がななめに歪み、その姿勢は時おりスローモーションに似て、たて髪は水のようで、なおも春の夜路を震えて駆けていく。蹄は音を立て、移動による光りと影とが、頻繁に全身をよこ切る。暗号みたいな影絵を描き、速やかに消えて。品川のビル群が遠い。丘陵のその向うは、余りにも不確かだ。

星々が退潮する。僕とは惜しみなく転記された、外部でも内部でもある記述なのだろう。星々が、拡散していく。僕はその馬を、まだ視ているだろうか。

文学極道

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