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作品 - 20070418_770_2009p

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


雪が溶け始める季節

  犀樹西人


そして、母は笑った/雪が溶け始める季節。

 僕は毎年そうするように、この時期になると庭の決まった位置を確かめる。自分の部屋の窓の下にある花壇/
 そこから左を見ると
 赤い花を咲かせる
 紫陽花が植えられている。
 「死体が埋まってるのよ」
 と言った姉の言葉を
 僕は信じていた。
 その頃も怖くはなかったけれど
 今思うとベタだな、なんて/姉のセンスを少し疑う。

 僕は玄関から外に出ることはあまりない。物心ついた頃から、窓/
いつものように僕は僕の玄関で、きつく結ばれたひもをとく。元は白かったはずのスニーカーに、ぎゅうぎゅうぎゅうぎゅう足を詰め込んで/
 「もっと小さい靴にしなさい」
 と母は言うけれど、
 大きい方が絶対いいと
 僕はいつだって思う。
 僕の父は足がとても大きい/両足がスニーカーに入ると、再びひもをきつく結びなおして窓の外を見る。
まぶしいなあ、今日はもしかしたら出ているかもしれない。

 飛ぶとき気を付けなきゃいけないことは、花壇に着地してしまうのを防ぐことだ。前に一度失敗したとき、叱られたのがかなしかったのではない/
 かなしみは常に自分に
 向けられていて、また、
 全く逆をも向いている。
 笑っても泣いてもどっちみち、
 きっとかなしいのだ/ただ母が微笑むだけで良い。
花壇を飛び越えるフォームをほめてくれたのはいつだったろう/姉も笑っていた頃だったろうか。

 花壇の前にしゃがみこむ/近くで犬が吠えていて、しかしまあそれを別段うるさいとも思わない。父が買ってきた黒く毛なみの良いシェパードは息が臭く、そして、なかなか僕になつかない/
 それでいいとは思う。
 去年の正月に死んでしまった犬を
 僕はもう一度飼いたい。
 庭を出て坂をくだったところにある、
 大きな栗の木の下。
 そこにいるのは
 わかっているのだけれど、
 いや、もういないことも
 わかっているのだけれど。
 あの犬が、僕は好きだった/その後に父がシェパードを買って嫌な気持ちになったのは僕だけだったのだろうか/栗の木に赤い花が咲いたら少しは笑えるかもしれない。

 花壇にかぶった溶けかけの雪をよける作業は、素手で行う/たいてい外は暖かい。ひんやりした雪をやんわりつかんで脇によけるその作業を僕は結構好んでいたりする。父も姉もやったことはないであろう作業を、僕は母のために行うのだ/
 姉が妊娠したときのことを僕は忘れられない。昔から軋んだ関係ではあったのだけれど、目の前で崩れてゆく日々はみんなを泣きたい顔にさせた/
 父は毎晩酒をあおり、怒鳴り
 姉は泣いて叫ぶ。
 誰かの名前を呼んでいるのだ。
 僕は母のことを考えていた/母が涙を流したのは、あのときがはじめてかもしれない。

 雪をよけてゆく手をはやめると、だんだん黒い土が見えてくる。そして、手に何か固いとがったものが触れるのだ。それは、春だ。母にとっても僕にとっても/
 姉は子供を産んだ。
 ちょうどこんな季節だった。
 それから父は、
 姉とあまり言葉を交さない。
 それでも父は、
 姉の子供に愛情を注ぐ/どっちみちかなしいのだ。だから母は笑うのだろう/時間は流れるもので、同じ時間を刻んだりはしない。

 すべての雪をよけ終えると、僕は家のなかにいる母のところへ急ぎ足で向かう。母はお昼ご飯を作っているようで、台所には僕の好きなソース焼きそばの匂いが、充満している。/

 「今年も水仙の芽が出たよ」

そして、母は笑った/雪が溶け始める季節。

文学極道

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