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作品 - 20070224_431_1865p

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


ながれ星と木馬

  流離いジロウ




・案内状・


疲れて、部屋にもどった僕は、食卓のわきに絵葉書を見つける。妻が、ソファ
ーで眠り込んでいる。黄色くにじんだ模様の底に、透かしのような文字があっ
て、うつくしい馬のサーカスと書かれていた。背広を脱ぎかけ、しばらく手を
とめる。案内状の、まん中の写真。大写しにされた馬のたて髪と、緑の眼が印
象的で、傷付きやすい賢しげな表情や、すっと伸びたまつ毛の清潔さに、言葉
をのんでしまう。寝息をたてない妻の隣りに、僅かにもたれかかるだけのすき
間を探して、ついに休息した。ああ、じつに見事なものだ。馬の頭部は、何と
いってもよく出来ている。恐らくは、誤りのおおい他の人生に比べて。


・サーカス・


大きな夕焼けが、僕の背丈には不釣合いになるころ、会場に辿り着いた。街の
片すみの、見覚えのない空き地に、テントが張り巡らされていて、中だけほっ
と明るい感じ。ざわめき始めた人混みのはしに、ひとつの席をえた僕は、ポッ
プコーンを手にして、息をひそめている。座長が腕をふり回すたび、白い手袋
が僕には眩しい。それから一匹の、緑の眼をもつあの奇妙な馬が、団員によっ
て舞台に引き出され、かるく足踏みをした。音楽が鳴り、それが合図だったこ
とに気付く。続いて、何十匹もの馬が登場した。形のいい鼻すじや、張りつめ
た筋肉が見え、次第に舞台中央に密集し、片足を持ち上げたり、首を揺すった
りする。座長の手袋が、馬に合わせて大げさに旗めき、何だかつられるように、
やや遅れて手拍子が始まった。ライトがするどい三角錐となり、照り返しで影
がやけそうだ。きっと僕には、堪えられないだろうな。そんなことを考えるう
ちに、群れの全体が盛んに走り出し、どの馬が、あの最初の馬で、どの馬がそ
うでないのかが、さっぱり分からない。

うつくしい馬は、空を飛べません。僕にはそれだけを、聞き取ることがようや
く出来て、白い手袋は、今となってはあまり目立たない。いっそう音楽が賑や
かになる。ざらざらした傷や、粘膜や、時間そのものが引きつる感じ。それが
馬の運動によって、呼びよせられ、色付けられ、うわ書きされる気がして、僕
は声をあげている。馬、はしれ、馬、走れ。すると、赤毛の馬、名前のない馬、
つんとお尻が傾いた馬、胴の輝くような馬、すべてが木馬のように、同じ速度
でまわる、回る。座長の口上はさらにかん高いものとなり、胸が詰まって吃る
みたいだ。踊り子が現れ、喜劇役者がつんのめって転んで、忘れられないあの、
緑の眼が、ぱちぱちと閉じられるのを感じる。僕は思わず、ポップコーンを投
げ捨ててしまって、もう堪えがたくあきれるほどの必死さで、馬、はしれ、馬、
走れ、とくり返すしかない。左右の人混みは、すでにそれぞれ、顔を見合わせ、
席を立って手拍子を強めている。形のいい鼻すじ、張りつめた筋肉、浮きあが
っては沈み込む足、何本ものたくさんの足、それらを眺めやるうちに、僕の暗
がりから何かが溢れ出した。


・星・


部屋にもどると、妻がベランダでかがみ込んでいて、寒そうに見えた。窓の外
にいる姿は、何故だか頼りなく、危うげな印象。手には如雨露があって、こん
な時間だというのに、植物に水をやっている。水は、穴だらけの終端から出て、
尖った幹をぬらし続ける。空は暗く、その分、星は細やかだった。よこに長い
雲を透かして、ひとつ、緑色の光りがずれていく。壊れそうだ。それは本当に
息をするようで、見えないくらいに幽かに揺れる。通りの何処かから、みじか
い馬の嘶きが聞こえてきた。

文学極道

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