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作品 - 20061012_075_1608p

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


黒子(ほくろ)

  fiorina

父はきょうも縁側にいる。秋の薄い陽が射す柱にもた
れて、おかえりと笑う。

雨が降っていた。四角い荷を負って薬売りが来た。父は
棚から下ろした朱い箱を薬売りにさしだした。
その箱のいくつか欠けた薬のために、薬売りは金を請求
した。父は窮し引き出しをあさった。払いはするが箱を
引き取ってくれと苦々しくいった。薬売りはあとじさり
した。へらへらと去ろうとした。父は怒りたち、胸底の
塊をことごとく怒りにかえて、烈しくかなしく雨に打た
れる薬売りを罵倒した。薬売りは逃げ去って朱い箱のそ
ばに父は残された。

父は歌を詠んだ。療養所から歌の便りを寄せた。我が家
の山の青い蜜柑のことなどもうたった。こどもの知らな
い文字がいくつかあった。意味もたいていはわからなか
った。わからないままノートの新しいページに書き写し
た。その歌も写したノートもいつか失った。

ゆるされて家にもどった父は、どこからか内職を請け負
ってきた。居間の隅に積みあげた竹細工のさびしい光景
を祖母は厭い、背を丸めて余念ない、父の鮮やかな指の
動きを、祖父は憎んだ。祖父と祖母のこころは見えない
力で他の家族に伝播した。

また父はどこからか山羊を買ってきた。朝夕に、海辺の
道を山羊と歩んだ。日暮には手を蹴られつつ乳をしぼっ
た。その草の匂いのする乳を、鍋に温めて皆にふるまっ
た。

父は風呂に入るのを好んだ。風呂上がりに静かに横たわ
るのを好んだ。その白い肌のほくろを、父の全身にまつ
わりついて娘は数えた。ほくろは百もあった。それは遥
か幼い日の記憶。いま父は、ひっそりとしまいの湯に入
る。しまいは七番目。七番目に皆もう入ったかときいて
から入った。七番目であっても風呂に入るのを好んだ。
父は美しかった。

父は七十一にして逝った。病院と家とを往き来して、七
十一まで生きた。けれど兄姉の、五人の孫をついに抱か
なかった。ほほえんでさびしい距離を置き続けた。その
最後のひと月を思いがけず健康体と保証された。うつる
病を脱したと告げられた。父は驚喜し、体を鍛えようと
した。母に数かずの夢を語った。死の前のひと月を生き
た。

父の心臓はひそかに弱っていた。ある夜更けひとり起き
だして何ごとか酒にまぎらしていた。それは痛みだった
か不安だったか。その朝に果実をのどに詰まらせて父は
死んだ。

父の骨はなめらかに白い。その白い骨の一点にしみのよ
うなものを見つけた。病んだしるしの黒いあと、とだれ
かつぶやいた。ほのじろい生の日のさまざまな記憶、そ
の一点に集って、ああ、ここにまだひとつほくろがある
と、わたしは思う。

文学極道

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