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作品 - 20060626_820_1358p

  • [佳]  1982 - コントラ  (2006-06)

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


1982

  コントラ

冬の日の夕方、街外れにある高架鉄道の駅の暗く湿ったエントランス
を、僕は母に手を引かれて降りていった。東京オリンピックの年に開
通した半地下のプラットホームは、長いトンネルにはさまれていて、
新造電車の灯火が闇の奥に点ると発車案内のランプが赤く点滅した。
微風のなかに、僕は飛沫をふくんだコンクリートの匂いをかいだ。耳
の底で轟音がふくらんで、トンネルから顔を出したオレンジの車両と
窓ガラスの光の列が僕の視界をフラッシュしていった。

冬枯れの武蔵野から、競馬場のある駅で電車を乗りかえて、母は工場
町にある祖母の家に僕を連れて行った。電車はジャンパーを着た男や
厚化粧の女たちで混んでいた。銀色の手すりをにぎっていた、汗ばむ
手のひらに残る苦い鉄の匂い。くぐもったガラス窓に映る田畑や農家
は、私鉄のデパートやマンションに変わり、路地やフェンスや煤けた
鉄工場の塀がつづく。母は私鉄線の乗りかえ駅にある洋菓子屋でシュ
ークリームを3つ買った。白い紙で組んだ箱。夕方の人のまばらな商
店街には丸い蛍光灯が数珠のように点っていて、買い物を乗せた自転
車の細いシルエットが角を曲がって消えてゆく。タバコの自販機が白
い光を地面に投げる、潮が引いた浜辺のように静かな道で、母の背中
は通りの奥に小さくなっていた。

祖母の家は郵便ポストの角を曲がった公園の奥の、松の木が生えてい
る小さな水槽のなかにあった。石油ストーブの上では餅がふくらんで
いて、僕は竜宮城のような水の泡がはじけてゆく水面に耳を澄ませた。
母が話す声も、祖母が応じる声も僕にはよく聞きとれない。母がいつ
もと違う表情で僕に笑い、引き戸の奥に姿を隠した。車庫のトタン屋
根の上には鈍色の空が斜めに見える。となりの民家では嫁に行かない
三姉妹が買い物かごをさげて空へ泳いでゆく。庭の植木鉢も地中に棲
むクモも、水のなかで息をしている。

丸テーブルの蜜柑がサッシから差す日を浴びている/ 午後の、静まりか
えった二階家/ 機械油の匂いが染みた路地や電線がはしる町/ 祖母は奥
の衣装ダンスのなかで眠りつづけている/ 引出しには工場に勤めていた
ころの帳簿が入っていて、そこにはボールペンの文字で日付が書きこ
んである

学習机の世界地図にはうっすらと埃が積もっている。春のよく晴れた
日に、ミツバチが飛ぶ公園で2人の子供がブランコを漕いでいた。 赤
レンガの渡り廊下には青空がこぼれ、靴音が深くこだました。校庭で
子供たちは凧のように空へ泳いでゆく。祖母の衣装ダンスは僕の部屋
になり、僕はこの街で小学校の一年生になった。

文学極道

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