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作品 - 20051215_819_829p

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夏風邪

  光冨郁也

 わたしは失業し、夏を迎えた。記録的な真夏日が続いている。ここしばらく風邪をひいていた。咳が出る。寒気がする。頭の中に響く女の声は聞こえなくなっていた。冷蔵庫が空になったので、久しぶりにアパートから外へ出た。いつも通う空き地の車は知らないうちに撤去されていた。薬を飲むが、いつまでも治らない。午前中はベッドで過ごし、昼空腹になると外出した。浜辺を歩いていたら、どこかで神話の本をなくしたことに気づいた。あの本には思い入れがあったのに。図書館、マンガ喫茶、アパートの道のり、いつもの浜辺をさまよった。読むべき本を探すが、わたしのために書かれた本はどこにもなかった。買ってみたけれど、携帯電話には、迷惑メールばかりが百通以上届いている。
 風邪をひく前は三度、倒れた。内科医に相談すると、神経のせいではないか、と言う。まわりに光の筋がいくつも見えはじめる。その光に囲まれ、わたしは倒れる。わたしはいっとき空白になる。精神科医は首をかしげる。
 空き地の車がなくなり、本をなくし、わたしに話しかけるものはなくなった。わたしは誰にも相手にされなくなり、抗不安剤が一種類増えた。言葉を忘れてしまいそう。生活のため毎日、少しずつ預金を切り崩して、そのうち何もなくなるのだろう。わたしは携帯電話の受信メールをすべて削除した。

 マンガ喫茶の帰り、薬局で風邪薬をまた買って、空き地によった。空き地、真ん中にタイヤだけがある。いつものようにタイヤの上に座る。もう女の声はしない。波の音も風の音もしない。自分の呼吸の音さえ聞こえない。日が照りつけているのに、わたしは寒い。捨てられた車の中で見た、女の姿を思い出す。思い出すが、どうにもならない。

 わたしが運んだ流木の林がある。はじめ引き上げたときは黒く濡れていたのに、みな白く乾いている。林の向こうには鈍い色の海があり、その上には空白がある。手を伸ばせば空白に届くかもしれない。そう思っていたときもある。咳をしながら、浜辺まで歩いていった。女の声を思い出す。言葉にならない声。閉じた空間に、風が響いているような声。本はあるだろうか、どこへ行けば見つかるだろうか。空き地、道路、砂浜、波、水平線。空の空白と海の深さが混じり合うところ。わたしの胸の空白からも、とぎれとぎれの咳が出る。

文学極道

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