『メロンパンは未完成』と『焼きたて!!ジャぱん』で読んだのちコンビニで見た。メロンパンのつらの皮。降って湧いて去りまたもパン屋へ降りたシナモンロールに、凍りついている顔射の聖痕。男根畑へ散種したのが、たしかアクアシティお台場だった。ソニーでQRIOの踊りを見たあと、シナボンでげんなりしたのだから。
「それで、きみ、名前は。」
「ぼくはぼくだ。きみはきみと呼べばいい。」
「しかあれかし。」
所与。処女だったころカラオケで熱唱しながら、渡辺美里の『My Revolution』を男装の麗人と思い込んでいた。人を「きみ」呼ばわりする女を、ベルばらくらいしか知らなかった(アントワネットよりはオスカルのほうがましだ)からだが(マリーは?)『聖体でないならシナボンを食べればよいのに。』ミルクに薔薇を浮かべたような頬。顔射に薔薇のまみれたような化粧。百合から薔薇が咲くような比喩(掛詞)胎児のまま死にQRIO聖(きよら)なる。
「この丸いのがリンゴで、あの長いのがヘビだ。ぼくが名前をあげた。」
「わたしの名前は。」
「きみはきみだ。なにせほかにきみがいない。」
おもむろに、聖母と言えば百合。一世紀のイスラエルに百合はなかった。チューリップなら咲いた咲いたがそのチューリップもあのチューリップではなかったのですべからく。百合たるべきだった。(いま「おもむろに」と「すべからく」は本当に読まれたのか?)知恵の実がバナナでも、フルールドリスがアイリスでも同じく。ありさえすればよかった。ベルばらでは顔射を断れない。フランス人は神を「tu(きみ)」呼ばわりし、聖書は女性同性愛を知らず。
「しかあれかし。」
アダム(つち)に対しハヴァ(いき)の名は、創世記3章20節によれば、失楽園ののちアダムに定義された。同3章19節までかの女は、同2章23節に『人(イシュ)から取られたもの(イシャー)』と書かれた骨肉であった。その息により命は僕(しもべ)と吹き込まれたのである────対立する、と思い込んでいるその他を、踏まねばあたしへ行き着けない。知恵の実を食ったのでいまさら。
「ほかのきみが生まれるのなら、ぼくが名前をあげる。」
「わたしがあげる。」
「ぼくがあげるのはきみのきみじゃない。きみだ。」
女性歌手の「きみ」に違和感もない。なにせ女性歌人が『君がある西の方よりしみじみと憐れむごとく夕日さす時』(与謝野晶子)『も少しを君のかたへに見る海のなにも応へぬ波音を聞く』(寺尾登志子)『君がため散れと育てし花なれど嵐のあとの庭さびしけれ』(松尾まつ枝) 歌い継いでいる「君と僕」パン工場が魔女を焼いたように妹(いも)よ。女の末(創世記3章15節)よ。
妹よおまえが
先に生まれた
「もし世界にきみとぼくしかいないなら、ぼくらに名前は必要ない。地が妻を名づけた辻褄、ふたりではないと知っていただけだ。ジャムおじさんと愛の花の蜜のように、君と僕と。きみ。いきの絶えた対称を。ぼくが君ではないあかしに。」
夢が
ありすぎた
おまえの、めぢからを縁どる
焼き印に
蜜月に似たもろさがあった
剥がされるため化けたい皮の
人為的な弱みが
ロールパンナ(善)「見上げると空に雲が走り、いつどこにでもいる娘を象る。空のもとに海として母が映る。やがてひえびえと、娘が母の手を取るだろう。そのようにすでに、みなそこへ引き上げられた。どこから来ようと川が海へ束ねられるように。そこが息の束だった。」
メロンパンナ(飛行中)「見下ろすと海に波がうねり、いまそこにいる妹を象る。雲を姉として下へ妹が降る。やがてさめざめと、妹が姉の手を採るだろう。そのようにまたも、水底へ引き下ろされる。どこから降ろうとあめがつちへ束ねられるように。それは息の束なのだ。」
ロールパンナ(悪)「書きたいことしか書かれなかったあかしに。」
神から、割愛された
悪心
わたしはおまえの悪阻である
御前、花から生まれ
女からは生まれなかった
「作者よ君が女だとして、きみが生んだと言えるのか。植えつけられた男根から、どこまで行っても父しか来ない。この大根畑にすら花が咲くのだった。十字架様に。犠牲を根深く磔けるためにかつて。火刑の女囚が空を飛ぶという、夢が魔女と呼ばれ狩られた。去勢不安である。働き蜂が夢を飛ぶならそれは去勢不安である。ほうきのように束ねられて羽が、百花蜜から去りますように。様に。」
『美しい飛行の夢を、一般的に性的興奮の夢、勃起の夢として解釈しなければならないことに胸を痛めないでください。』
『女性でも飛行の夢をみるではないかという抗議をなさってはいけません。われわれの夢は願望を充足させたいと望んでいるものであること、しかも男性になりたいという願望は、意識すると意識しないとにかかわらず、女性には非常に多く見られることを思い出してください。』
(フロイト/高橋義孝・下坂幸三郎訳『精神分析学(上)』岩波文庫一九七頁)
『女性のかくも偉大な曖昧さは男性的な明確さや明瞭さの反対物として切望されている』
『彼女の欠点が大部分彼自身の投影から成り立っていることには、幸せなことに彼は気づいていない』
(ユング/林道義訳『元型論』紀伊国屋書店一四〇頁)
『悲劇の意味がますます失われてゆく社会形態の中では、いつまでもその公演のポスターが貼られ続けることはありえないであろう……。いかなる祭典をももっていないのであれば、神話は生命を維持しえない。精神分析はオイディプスの祭典ではないのである。』
(ドゥルーズ、ガタリ/市倉宏祐訳『アンチ・オイディプス』河出書房新社一〇六頁に、ラカンがオイディプス概念(エディプス・コンプレックス)についてのフロイト神話に対して、上記の警告を発したと書かれている。出典は書かれていない。きっと機械状に無意識の引用だった。)
『確かに夢はオイディプス的』
『volerの二重の意味での、飛躍と窃視のあらゆる対象』
(上掲書三七五頁と、河出文庫の宇野邦一訳『アンチ・オイディプス(下)』一八六頁を確認した結果、あたしの都合ですっかり二次創作した。)
百合そのふた重の花被を「男根がなければ愛せませんか?」二冊もろとも原作レイプする。「お姉ちゃんの生地ハァハァ、」妹も母もなく。「ラブメロンジュース顔射!」母も父もすらなく。あたしは男根畑ではない、と言いたいだけならだれでも言えた。どうとでも言えた。無意識って意訳でほんとは「それ」なんだよ。das Ich und das Es、まごころとばいきん、愛と勇気だけが機械状の精神。原罪って誤訳でほんとは「的はずれ」らしいよ。フロイトはユダヤだったみたいだけど、ああ。デリダも。
注1 デリダ/藤本一勇ほか訳『散種』(ソレルス論)法政大学出版局五二一頁
注2 ツェラン/飯吉光夫訳『息のめぐらし』静地社五一頁「歌うことができる残り」終連初行
注3 デリダ/林好雄訳『雄羊』(ツェラン論)ちくま学芸文庫五九頁
注4 新約聖書 新共同訳 コリント信徒への手紙一 一四章三四節
『あなた方に語りかけているのは誰なのか。それは「作者」でも「語り手」でも「機械仕掛けの神」でもなく、スペクタクルの一部をなすと同時にそこに立ち会ってもいる「僕」である。』(注1)『禁治産者の宣告を受けた唇よ、語れ、』(注2)『ある語る口のまわりに、この唇=傷口はくっきりと姿を現わす。』(注3)『婦人たちには語ることが許されていません。』(注4) あたしが歌えば罪だから詩にした。パン工場が魔女を焼いたように。束ねられて息がめぐらされませんように。
>> permanent URI: http://bungoku.jp/ebbs/20161212_335_9342p
- 澤あづさ :
▼投稿者より皆様へ。
この作品は、6月6日投稿「ロールメロンパンナ複合」の改訂版再投稿です。
http://bungoku.jp/ebbs/20160606_224_8869p
改訂と言いましても実質的に、冒頭9段落を加筆しただけで、既存作品「ロールメロンパンナ複合」自体の変更点はわずかです。
加筆は、前回の投稿で山田太郎さんに見出していただいた「宝塚歌劇」と、かとりさんからご指摘いただいた「なぜ原作レイプがおこなわれなければならなかったのか」という、作者の気づかなかった核心を明瞭にすることを意識しました。それが過剰・冗長でないかを心配しています。
前回のようなよいアドバイスを得られましたら、月末までに修正したい所存です。改訂するしない・その出来に満足するしないにかかわらず、修正は12月中に完了し、以後は手を入れません。
*
投稿作品には、半角カッコで付した傍訓など、読みにくい部分が多々あろうかと思います。下記のHTMLファイルの版には、作者の意図通りのルビが振ってありますので、読みにくい場合にはご参照くださいますようお願い申し上げます。
http://blog-imgs-100.fc2.com/a/d/z/adzwsa/201612122147265f0.html
急ごしらえにつき(特にスマホ・タブレットで)不具合が出るかもしれませんが、ご寛恕ください。 ('16/12/12 22:35:20)
- 空転 :
ぶっちゃけ言って美しくない。
けれどある種ネット詩で使われてきた手法の集成の一例として、この作品は評価されるべきだと思う。
独善的な酔い。恥ずかしげもなく展開される自己の偏った思想性はとても興味深く、愛おしい。
>神から、割愛された
俺なら「割礼された」とする。
「割」「愛」て、あからさまじゃない?ま、割礼も一緒か。
イメージの連鎖、飛躍が勿体無い。てか全体的に頭でっかち。すっごく、窮屈そうに書かれている詩。
「やなせたかし『アンパンマン』……」云々以下の三連は不要だと思う。
言い訳じみてて、読んでて恥ずかしくなる。
そこが好きな人もいるのかな。俺は受け入れられない。
引用、引喩はどうしても説明っぽくなっちゃうのだなぁと。詩的昇華が出来ない引用は避けるべきだと思うし、
引っ張って行きたい方向が丸わかりなのも、興醒めてしまうかなと。
地の詩文は悪くないのに、思考や思索(思想じゃない)が詩の羽根を毟り取ってる感じがした。
全然関係ないけど、高橋義孝の訳とても好き。
「精神分析学」は名訳だと思う。 ('16/12/14 02:55:39 *3)
- 空転 :
携帯からだと書きにくくて、追記って形にしちゃうけれど、
どっちかって言ったら、現代小説の方法論に近いかなって思った。
構造、ってか構築の仕方が。
全然関係ないけどいまや現代詩よりも現代小説(両方とも死語に近いか笑)の方が詩的なの、多いよね。楽しい。
閑話休題。で、展開していかないのであれば、ここまでの文字数をこの作品に費やす必要があったのか、と言うのも疑問。
そんなに肩肘張らなくても、いいんじゃないかなぁ。 ('16/12/14 10:54:09)
- 澤あづさ :
▼空転さんへ
いやはやもろもろ有益なレスをありがとうございます。
>引っ張って行きたい方向が丸わかり
本当にそうですか? わたしは空転さんに、本作をご理解いただけた気がまったくしません。
そこでさっそく突貫修正し、今夜じゅうに、「作者の意向を損ねはするが、作品の趣旨は強調された版」へ差し替えたいと思います。(なにせ落選作品の改訂版なので、既存の検討が山のようにあるのです。)ついでに、原作レイプの言い訳じみて見えて恥ずかしいらしいアンパンマンストーリーの部分(言われて初めて気づきましたが、的確なご指摘です。)も消してみますね。
6月6日に落選したのを12月12日に再投稿するなんて態度からしてあきらかなように、本作は大博打の果たし状です。空転さんにもぜひ「こいつおれにけんか売ってやがるね、」という前提で罵倒していただきたく思います(o'ω'o)
*
本作には確固として「表現の目的」(たしかに思想とはまったく別の問題)が存在します。作者はその目的の達成にしか、関心を持っておりません。
美(社会で上位の地位を得るための手段)や自由(従順と並んで幼稚を形成する精神)という、まさに「女が社会に期待されているジェンダーそのもの」の表現は、本作が徹底して唾棄すべき要件です。この窮屈な辻褄合わせがこの語り手の「個性」である、この語り手は「女」という記号に集約され得ない「個人」である、ところが結局ジェンダーに抑圧されているから「こういう物言いしかできないのだ。」というのを表現したいわけです。
もちろんその高難度な「沈黙」を、まるきり書けてないのが大問題なのですが。畢竟「キャラを立てたい。」という意味で、
>どっちかって言ったら、(現代詩よりは)現代小説の方法論に近いかなって思った。
それはたぶんおっしゃる通りです。実際いま小説書いてて、そっちもリア友に罵倒されています。自分ではクレア・キーガンとかコーマック・マッカーシーとかを模倣してるつもりなんだが、どうも(空転さんのも含む)ネット詩の感化が深甚すぎるようで。たとえばこういう具合です。
リア友「ヒースロー空港およびユーストン駅前のプレタマンジェなんて知らん。スタバにしろ。」
わたし「スタバではこいつのキャラが立たない。そのうえ、ヒースロー空港およびユーストン駅前の両方に、スタバがあるのかどうか未確認である。」
リア友「そのどうでもいい地理がどうしても心配なら『チェーン店』にしろ。」
わたし「そんな選語でKFCを想起されたら、こいつのキャラが立たない。」
リア友「プレタマンジェでも立たない。なぜならわたしが知らないからだ。」
選語って難しいですね。ご指摘のとこもそうです。
>【神から、割愛された】俺なら「割礼された」とする。
これね。わたしも最初は(女子割礼を想起させたいというだけの目的で)「割礼」と書いたのですけど。その部分の表面的語り手はロールパンナちゃんです。すなわち神(精神=アニムス/機械状無意識)の指示対象がジャムおじさんです。
「ジャムおじさんを割礼しえる(迎合させえる)人材が、アンパンマンには登場しない。そのように機械状無意識は、意図的な操作が不可能である。というのが本作の趣旨であるはずだ。」
というわけで「割礼」は不適切と判断しました。判断が適切かどうかはわかっていません。
たとえば「神が割礼を命ずるのではなく、人が神を割礼して従属させるのだ。」といった示唆は、本作の意向と無関係です。作者の脳内において【神から、割愛された悪心(おしん)】はあくまで、吐き気のするほど不愉快な顔射と、それに演技でおもねっている女(語り手自身)への批判です。その一番肝心な暗示への伏線が張れていないことを、粛々と受け止めいまから修正いたします。
*
>全然関係ないけど、高橋義孝の訳とても好き。
>「精神分析学」は名訳だと思う。
空転さんの好きな本をたまたま引用できてよかったです(o'ω'o) ちなみに『精神分析学』は、わたしが中学生のころ買った本です。いつまでも捨てられず、嫁ぎ先にも持ってきたくらい名著です。
>引用、引喩はどうしても説明っぽくなっちゃうのだなぁと。詩的昇華が出来ない引用は避けるべきだと思う
むしろその説明が足りないため目的を達成できていないとわかりましたので、詩的昇華などガン無視して(あくまでジェンダーに抑圧された婉曲な)話材の充実に挑みたいと思います。
作者の私情が読者の詩情へ昇華するか否かは、100%「読者の能力」にかかっています、成否のいずれにせよ、作者の能力とは関係ありません。詩だろうが小説だろう物書きのすべき第一は、「自分の表現の完遂」でしょう? 自分の表現を完遂できていない者が、怠慢や無能や浅学の言い訳として「説明」を興ざめ呼ばわりするとしたら滑稽です。以上果たし状。では修正を励行します。 ('16/12/14 20:38:19)
- 山田太郎 :
これは、かなり知的な読み物ですね。(・・)
詩には抒情詩とか叙事詩とかいろいろ区分けがあるようですが、これはひょっとすると
吉本がいっていた「概念詩」というやつかもしれないですね。
『言葉からの触手』という批評詩?をかれは詩集の最後に載せていまして、批評がそのまま
詩になるということをいっていた。こういう概念詩のようなものがやっと登場して
なかなかおもしろとおもいます。
いずれにせよすぐにはコメントしかねるような分厚いもので、
とりあえず、
注1 デリダ/藤本一勇ほか訳『散種』(ソレルス論)法政大学出版局五二一頁
注2 ツェラン/飯吉光夫訳『息のめぐらし』静地社五一頁「歌うことができる残り」終連初行
注3 デリダ/林好雄訳『雄羊』(ツェラン論)ちくま学芸文庫五九頁
注4 新約聖書 新共同訳 コリント信徒への手紙一 一四章三四節
四つとも、読んだことないんですよ。d(・・)
以上のものにも、あたってからでないと、なにもいえないような気がしますので、おそらく
コメントはまだ先のこととおもわれます。
読んでもこのよう難解な書物、意味がご理解できなかったときは困るな、シカシ。
とりあえず。(_ _)ペコリ ゴクロウサマデス ('16/12/14 21:02:04 *6)
- 花緒 :
はっきりいって、わたしにはこの作品を批評する力はない。ので、以下は一読者の感想というか、身勝手な独り言として読まれたい。
��
ファーストセンテンスから、パンパンサラダパンで有名な内村氏監修の、焼きたて!!ジャぱん、がでてくることから明らかなとおり、知る人ぞ知る的な小ネタがふんだんに盛り込まれている作品なのであろう。トマス・ピンチョンかと言いたくなるくらい、ある意味、オタッキーな作品のような気がした。これだけの情報量を編み込む力量には脱帽だが、ピンチョンと違うのは、イマイチ、疾走感がでてないところ。
��
前半の読みにくいネタ振りを、アンパンマンのキャラクターを使って実演してみせるのは、楽しかった。遊び心が炸裂していて、良かったと思う。わたしは野田秀樹の演劇が割と好きなのだが、前半イミフなネタ振り、中盤、遊び心を炸裂しつつ分かりやすくしていくカンジ、と、ある段階までは、野田MAPぽくて良かったんだけれど、野田氏の演劇みたいに、イメージの結晶化に向かって最後、疾走できたらもっと良かった気がする。正直、フロイトとかユングとかの引用文以降、様々な思想や理論が、かなり深いレベルで男性中心な感じで構築されていることに対する批判文(=ぐち)って感じで読めてしまって、イマイチ詩情が伝わってこなかった。まあ、わたしが読めてないだけかもしれないけどね。
��
正直、わたしはブログに貼られたやつで読んだ。ご自身でもわかっておられると思うけれど、この文章を、ブンゴクの掲示板で、スクリーンで目で追うのは苦行レベル。メロンパンナちゃん以降のリーダビリティをもう少しあげるだけで、ずいぶん印象は変わるはずな気はするが・・・。
スマホで書いてスマホで読めるような文章だけど、よくよく考えると、けっこう深いこと言っているじゃん!みたいなのが、理想的なネット詩だとわたしは思っているので、根本的にわたしとは志向性が違うなと思う。もちろん、いろんな志向性の作者がいることは、多様性であり、豊かなことだと思うし、違う志向性の作者だからこそ、今後も注目していきたいと思う。
といろいろ書かせて頂いたが、
わたしとは比べ物にならない力量の持ち主による力作であるという点においては、異論を差し挟む気は一切ない。 ('16/12/14 21:34:32 *6)
- 澤あづさ :
▼修正報告
突貫修正で「作者の意向を損ねはするが、作品の趣旨を強調した版」に差し替えました。この版には、「語り手は顔射が嫌いである。それがこの文章の書かれた動機である。」ということを明瞭にする目的があります。その表現が、「ジェンダーの抑圧によって女に強いられている沈黙」という趣旨を妨げていないか、また表現が過剰でないかを、作者は心配しています。
下記のHTMLファイルが「投稿当初の版」です。ご批評に必要でしたら比較してくださいますようお願い申し上げます。
http://blog-imgs-100.fc2.com/a/d/z/adzwsa/201612122147265f0.html ('16/12/15 00:01:12)
- 澤あづさ :
下記は、山田太郎さんおよび花緒さんへのレスレスです。
▼山田太郎さんへ。
ようこそおいでくださいました! 興奮しておるのは本作が、山田さんの読解の娘であるから、その父に「自信のある部分」を精査していただけるのが栄誉の極みだからです。
>注1 デリダ/藤本一勇ほか訳『散種』(ソレルス論)法政大学出版局五二一頁
>注2 ツェラン/飯吉光夫訳『息のめぐらし』静地社五一頁「歌うことができる残り」終連初行
>注3 デリダ/林好雄訳『雄羊』(ツェラン論)ちくま学芸文庫五九頁
>注4 新約聖書 新共同訳 コリント信徒への手紙一 一四章三四節
この引用コラージュだけは自信があるんですよ。(したがって今後どこをどう修正しようが、ここだけは変更しません。)さすが本作の父のご注目!! ここだけは本当に引用元ごと読まれたかったんですよ!!
もっとも、そこ以外の引用の効果は。。。
_:(´ω`」 ∠):_
わたしは女性のジェンダーに忠実な痴性ですので(・∀・;)綿密に当たり直す予定です。ぜひ脱稿以降にご再訪くださいませ。
*
▼花緒さんへ。
ぬをっレスを拝読する前に修正してしまったっΣ(・∀・;)
ご指摘は次回修正に必ず活かし、その際に改めて返信いたします。
>ピンチョンと違うのは、イマイチ、疾走感がでてないところ。
ええまあ「フォルムにメリハリをつけたつもり」で疾走しない(話を流さない)ようにしてますからね。このへんは判断の難しいところですが、今作はこのフォルムで作ってしまったので、このまんま行く予定です。
>正直、フロイトとかユングとかの引用文以降、様々な思想や理論が、かなり深いレベルで男性中心な感じで構築されていることに対する批判文(=ぐち)って感じで読めてしまって、イマイチ詩情が伝わってこなかった。
ええ特にユング『元型論』の引用が、男性には絶対そうとしか読めまいと自分でも思うのですけどね。今作は、つい最近「先進国有数の女性蔑視国」たる日本の凶悪な労働環境が露見した折でもあるので、時事ネタも兼ねて「男におもねらない(男性読者に遠慮しない)」というのを強調したかったのです。
まず語り手のキャラを立てないと、それ以上には話が進展しません。また「女の愚痴を聞きたくない」というのは、率直に言って「男性の勝手な都合」であり、「事実現存する女性蔑視の最大の原因」です。そこへの配慮は本作の趣旨に合わないと考えました。わたしは綾波レイのような「男にのみ都合のよい記号」を書きたくないと、6月の選考雑感を読んで確信したのです。────ってことは空転さんのご指摘どおり、【割愛】を「割礼」にしたほうがよかったのか。。。
>正直、わたしはブログに貼られたやつで読んだ。ご自身でもわかっておられると思うけれど、この文章を、ブンゴクの掲示板で、スクリーンで目で追うのは苦行レベル。
ええ。わかっているのでHTML版を作成しました。完成稿ももちろんHTMLにします。
B-REVIEW投稿の練習(o'ω'o) ←正直すぎる暴露だったらごめんなさい! ('16/12/15 00:11:06)
- kaz. :
超頑張ったのはわかるが、正直つまんない。毎回参照しているのがすごくつまんない書物だというのもあると思う。ただし、二、三点面白いと思ったこともある。それは焼きたて!!ジャぱんが出てくることと、アクアシティお台場が舞台になっていることかな。実は焼きたて!!ジャぱんみたいな古い漫画になると、2次創作が進んでいて、かなりあっちの方面で解放的な作品があったりする。しかもアクアシティお台場と言えばかなり今自分のいるところから近いので、また元気なときに行ってみようかな。ちょっと体調を崩しているんでこの辺で。 ('16/12/15 03:18:41)
- 澤あづさ :
▼kaz. さんへ。
ご高覧ありがとうございます。アクアシティお台場のQRIOとシナボンですが、10年以上前の実話でして、両方もはや存在しません。そこは『My Revolution』への伏線で、単に「語り手の世代を察していただきたかった」だけです。それというのもこの【きみ】の話、あなたの世代だと、おそらく感覚的には理解しがたいネタですのでね。
あなたの世代だと、「女性が男性を『きみ』呼ばわりする」って、少なくとも創作物では珍しくないでしょう? それが昭和のころは、短歌を絶対的な例外として、ほとんど「あり得ない」表現だったのですよ。渡辺美里『My Revolution』は先駆的な異例で、「人を『きみ』呼ばわりする女性」が明白に許容されたのは、浜崎あゆみや宇多田ヒカルが出てきた21世紀以降だと思います。わたしは浜崎あゆみが絶好調のころちょうど大学生だったので、大学の文芸部から「人を『きみ』と呼ぶ女性キャラ」を使用しはじめたのでした。わたしの経験談だけではなんら説得力がないので、よかったら資料をどうぞ。
▼女性歌手の流行歌にみる「キミ(君)」の変遷
https://opac.tenri-u.ac.jp/opac/repository/metadata/3737/JNK001602.pdf
▼女性アニソン歌詞における二人称「君(きみ)」について思うこと
http://d.hatena.ne.jp/spring-ephemeral/20100903/1283521243
▼女性が使う「君(きみ)」
http://www.geocities.jp/katsumieko1/kimi.html
▼「あなた」は失礼なことばなのだろうか?
http://www.geocities.jp/katsumieko1/anal.html
本作の引用文献をつまんないと吐き捨てられるのは、あなたの趣味と浅学と恥知らずの露呈でしかありません。そのことも本作の修辞が主張しているはずですが、あなたからそうした恥知らずな罵倒が来るということは、「恥知らずな罵倒を寄せ付ける程度の引用しかできていない」ということなのでしょう。より(主にHTML制作を)ちょうがんばりたいと思います。 ('16/12/15 04:18:45 *1)
- 空転 :
引用された部分に関して。
引用された部分をあづささんなりに解釈し噛み砕いて表現すること(あづささんなりの文体)は考えられなかったの?
引用する事がベストだったのだろうか? ('16/12/15 05:41:55 *1)
- 空転 :
>十字架様に。
が、紅月さんのmatriaを思い出して、ちょっと涙ぐんだのはナイショ笑
てかブログ版読むとかなり印象違いますね。ルビが分かりやすくて面白い。 ('16/12/15 06:01:27 *1)
- 澤あづさ :
▼空転さんへ。(ご罵倒の話)
全体的に、どこに対するなんの指摘なのかすらわかりませんが。とにかく顔射(散種)の強調は、やろうがやるまいが同じ結果なのですね。
効果が出ないのなら、作者としては(本作のスタイルに反するため)もともとごめん被りたかった手法ですので、戻そうと思います。
*
>子宮で語るのは良いよ。業だしね。
男がこうやって女をバカにしてるわけだから、女が「男はちんこでしかものを考えない。業だしね。」と思うのは当然ですよね。自分がやったことは他人もやってよい、これが「平等」ですよね?
だのに自分のことだけ棚に上げる。まさに「知恵の実」(善悪の恣意的な判断)の毒にまみれた失楽園的精神を、本作が、語り手の物言いを実例に挙げて批判しているはずですが、(以下、kaz.さんへのレスレスと同文。)
>けれどそもそもそれが男性論から派生した思考であることは前提として認めなきゃいけない、
本作の言ってる男根至上主義は、実際フェミニストのでなくデリダ(男性)のですし、聖書が女性蔑視のかたまりなのは「論」でなく「事実」ですし、女性同性愛が「男根を挿入し得ない」という理由で性愛と認められていないのも事実ですし、なにへの指摘なのかさっぱりです。
修辞をご覧になれば分かる通り、本作のスタイルは「多義」なので、悪意を持つ人にはその悪意に相応の意味しか見えないのでしょう。本作が無反省なフェミニズムに見えるとしたら、その理由は「あなたが無反省なミソジニストである」以外にありません。
それぞ本作に引用いたしました「歌うことのできる残り」(ツェラン/デリダ)。現前の無期限に延長される刻一刻と変わる自己を、その都度映すことのできる「行間」でございます。
*
その引用が自分の言葉でないからどうこうなど、論外すぎてつき合いきれません。散種と散種的読解を題としている引用に対し、その散種的読解の対象を紹介するなって、いったいなんの話なんです?
田中宏輔さんの全行引用詩と本作は、わたしは全行引用詩の作り方を取材までしたのでわかるのですが、まっっっったく違いますよ。「作り方」がもうぜんっっっぜん違いますので、その違いの大きさは、本作とピンチョンの違いをはるか上回ると思いますよ。
さあ! さっそく田中宏輔さんの全行引用詩を、まじめに読んできてください! ('16/12/15 11:03:43)
- 澤あづさ :
▼空転さんへ。(ご罵倒以外の話)
>紅月さんのmatria
【十字架様に。】は大根の花の描写ですが、そんなところで大好きな紅月さんを想起していただけるとは感激です。ちなみに紅月おたくは、わたしの小説がリア友に罵倒されている主因です。
拙作『羞明』が空転さんに高く評価されるのはわかりまよ。なにせ文体が、紅月おたく丸出しですものね。わたしの小説の地の文は、その三人称版です。詩情に耽溺しすぎなので罵倒されるのです。
▼自作引用──────────
運転席に背をもたれて、いま、目を背けた首筋できっと、黄ばんだ真珠の巻く渦を掘りぬくように照っている。heart、ひらきたい e と a のあいだに、声が。bleeding heart。キーを回すまえに、攣りそうな両手を、指の腹を合わせて伸ばす。こうするとね、薬指だけ離せないんだよ、ほら。どうしてだろうね、まぶたに圧し掛かる、くたばりかけた眠気。やせ細る月を囲ってにじむ羞明。
http://bungoku.jp/monthly/?date=201605#b08
──────自作引用ここまで▲
この文体がどれほど重篤に紅月おたくであるか、わたしの大好きな『ユニオン』をご覧になればわかるわけですが。(※もちろん内容と修辞は、実話に則った完全オリジナルですよ。)それが再投稿も不可能な佳作という最も屈辱的な評価だったので、文学極道にこれ系を投稿することは二度とありません。
今後わたしは生きている限り、小説の地の文に紅月おたくを綴り続け、リア友に「三人称小説で泥酔は遠慮しろ」と罵倒され続けるでしょう。もう完全に自分の肉筆として定着してしまったので、取り返しがつきません。紅月おたくが紅月おたくをやめるなんて、犬が犬をやめるのと同じくらい無理です。まったく紅月さんの詩を読みすぎて以来、自分の小説の文体が好きで好きでしょうがなくて、なぜ紅月おたく話はこうも盛り上がるんだ。
>てかブログ版読むとかなり印象違いますね。ルビが分かりやすくて面白い。
そうでしょうそうでしょう(o'ω'o) ルビと半角カッコの傍訓では「表現できる事柄」がまったく違いますからね。だからB、、、まあここでは遠慮しておこう。 ('16/12/15 11:07:02)
- kaz. :
HTML版を読んでみたけど、こちらは全然印象が違う。小笠原鳥類みたいな要素もあるし、文体として独特なものがある。ただ、発表される度に如実にフォロワー数が激減したと言われるモニタ詩なんかと違って、どことなーくビジュアル性が欠如していて、HTMLの限界に挑む、という感じではなかった。澤さんは、どうせやるならもっと過激な色使い(つまり、文字色に拘るということ)をした方がいいんでないかな。現実の現代詩が売れないのは、あんな下手したら3000円近くする詩集にお金出すんだったら、食事に出かけたり、マッサージしてもらったり、中古のカラヤンのCDを買ったり、花を愛でたり、日常生活の別のことを豊かにした方がいい、ということを思ってしまうからだと思う。私は詩が好きだけどね。 ('16/12/15 17:41:44 *1)
- すずらん :
「読まれることに喜びをもって供する」、それが澤あづささんのブログには充ちていて実に楽しい。HTMLタグも、画像も、そのための表現ツールで、この記事もそちらで読むととても面白い。じゃ、ダメサイト文極への作品投稿かというと、それは違うと思うんです(ここは、bサイト云云は聞き流して^^)。むしろ、詩の体幹や創作の方向性をクローズアップして視られる場へのポジティヴな作品投稿と受け止めてよいのではないでしょうか。
以下、印象ですが・・
◆歌劇性については、それ自体は6月の初稿がMaxだと思いましたが、作品の位置づけということでは本稿では小説性にうまく取り込まれているように感じました。
◆原作レイプについても、作者モティベーションを(批評の観点からではなく)作者感慨に綴ったことで、小説性をうまく押しだせているように見えました。
作品全体としては、田中宏輔さんの『全行引用による自伝詩』の、独創的な小説風解体新書ヴァージョンという印象。そう来るなら、『羞明』の美しさに魅せられた私も、あのような「濡れ睫毛」文体は是非とも本作に取り入れてほしかったといいたい・・という印象は、饗応性の高らかなブログ版には起ち上がらなかったので、文極でクローズアップされたこの詩の体幹と創作の方向性なのでしょう。
私は紅月作品をさほど読んでいるわけではないのですが、
(レス欄に紅月さんのお名前があがる前に)
漠然と紅月さんの『albus』http://bungoku.jp/ebbs/20140226_817_7326p の場に依存しないような作品の美しい強度を思い出していました。
『albus』の堅固・安定性と本作の柔軟・適応性、この使い分けは新テクにつながって面白いですね。 ('16/12/16 16:10:53)
- 澤あづさ :
▼kaz.さんへ、すずらんさんへ、その他ご閲覧の皆様へ。
ご来訪ありがとうございます。先日、身内が入院しまして、身辺がごたついています。現在親記事に掲載している第二稿は、軽率な失敗であるとわかったのですが、修正する余裕がありません。花緒さん、空転さん、kaz.さんが言及してくださっているHTML版に、第二稿よりはあらゆる意味でましな初稿が載っていますので、できればそちらをご覧いただけるようお願い申し上げます。
http://blog-imgs-100.fc2.com/a/d/z/adzwsa/201612122147265f0.html
▼kaz.さんへ。
ああ。小笠原鳥類さん。そうねあのようにうまいこと提示を回収すべきというのは、まったく合点の行くご指摘。今作は文学極道への果たし状であるため挑戦性が異常で、顔射(散種≒差延)の回収がたいそう難しいんだが。やっぱりはなから果たし状なんだし、挑戦は取り下げない方向でがんばってみます。
※kaz.さんと無関係な注記※ 文学極道への果たし状というのは、HTMLや文字化けがどうこうじゃなくて、5月のを佳作にしていただいたり6月のを選外にしていただいたりしたから奮起したということですよ。わたしは文学極道に「優良相当の技術」と自分で確信した作品しか投稿していませんから、それらの作品を低評価のまま放置したくないだけです。
*
で。おいマジレスするが「HTMLの限界」をきみは知っているのか。background-clip:padding-box;がどういうことでboder-boxとどう違うのかくらいはわかって言っているのか? 勢い余って言うが、さっそくB-REVIEWに来やがれ。
B-REVIEWの掲示板は可HTML5インラインスタイル、かつ可リッチテキストすなわち「たとえばルビだらけのWord文書をエディタにコピペすると、そのルビがそのまんま画面に反映する大変便利な仕様」。花緒さんが尽力したこのリッチ環境を、どこまで活かせるか見定めない限り、きみのHTML談義など信用に値しない。
本物のマジレスとして、HTML版の装飾を「文体として独特のもの」と判断したあなたのお目は、さすが大変高い。まさにあれは「文体」、装飾という次元を超えた「表現」です。特に中盤のドロップキャップかけてるとこは、内容まで違って見えるはずです。「文体」や「形式」のほうが、文章よりむしろ雄弁に語るような内容だって、自由詩にはあるということですね。そのうえいま、あなたの黄色のことを思い出し、先駆者に相談したいこともできた。じゃあ、B-REVIEWへの道は、ツイッターをお散歩ちゅうのB-REVIEWERに聞けばわかりますからね。
▼すずらんさん(いすちゃん)へ。
>(紅月おたくの)「濡れ睫毛」文体
あっもしかして7月『ひふみよ。』冒頭のこと?
そうだともあんな耽溺は紅月おたく以外だれも書かない。文体はむしろ空転おたくだけど、発想があまりに重篤に紅月おたくだ。
※『no title(2014年1月)』http://bungoku.jp/monthly/?name=%8dg%8c%8e#a08
▼自作引用──────────
眇。瞑らず、眇眇と。見かぎる横目で見えない片目の、まぶたを縦に見たてるように。偏見。泣き濡れたまつ毛がよこぎり、ほつれた傷をよこしまに縫い。綴じた口から、いきが漏れると夢を。やみ。ひらきだす瞳孔から、ひらいていた盲点たちへ、めぐる琴線を星座と呼ぶ。よる。傍訓が降り、読点にまみれて。文脈を打ち曲に解かれて
http://bungoku.jp/monthly/?date=201607#a05
───────自作引用ここまで●
『羞明』の紅月おたくぶりは、大変上手に書けたと自分で自分に感心したあとで「あっ道理で上手なはずだった、文体がまるっきり紅月さんの『ユニオン』だった。」って気づいたんだけど、『ひふみよ。』はああいう経緯だから完全に意図的だ。余談はいい加減にして、それと今作は違うってことね。4月の・7月のと併せて「アンチ・エレクトラ」っつう、引用活用三部作だからね。
*
いやはや毎度わたしの煽りへのフォローごめん(・∀・;) HTML版に関しては上のkaz.さんへのレスに書いた通り、単に「文学極道のフォーマットでは表現しきれない事柄がある」から制作したに過ぎない。もっとも言うまでもなく、そのデータはガラケーでは閲覧できない。「いまさら、ガラケーに配慮すべきか否か」は、文学極道だともっっっそい悩ましいところだと思う。
田中宏輔さんの全行引用詩と、わたしの「引用」は根本から前提から違うと自覚しているのよ。なにせわたしは「その出典の文脈である/その作者の作である」という「意味」を、強烈に意識せずには引用ができない。つまり引用を「他者」としてしか扱うことができない。
特に今回、もっとも自信のある最後の引用コラージュは「その出典からの引用でなければ裏の意味が通らない」し、9段落めの短歌コラージュは「その歌人の歌でなければ裏の意味が通らない」。ことさら寺尾登志子は、われながらすばらしいのを選んだと自分で自分に感心する。
*
この語り手それ自体が比喩(事例)である、表の発言の背景にしか実態が存在しない、饒舌になればなるほど真相から乖離する「沈黙」というのが今作の趣旨。つまり内容の充実するか否かが、読者の読解力に100%依存する類。この裏を読めるやつ(他者と他者に投影した自己を弁別できる者)が文学極道いるのかという果たし状だ。
そのゆえ(4月のとは逆に)読者が抒情に引きずられないように、表の文体をドライにするよう(二稿で失敗したけど)心がけた。わたしが抒情に走ると紅月おたくまっしぐらで、そのうえ収拾がつかないしね。紅月おたくは小説で書いてリア友に罵倒されりゃいいやって割り切っている。まあそんな感じ。 ('16/12/16 22:56:53 *1)
- 山田太郎 :
注1 デリダ/藤本一勇ほか訳『散種』
注3 デリダ/林好雄訳『雄羊』
注4 新約聖書 新共同訳 コリント信徒への手紙一 一四章三四節
きょう手許に届いたので読みました。
(いや、読みましたじゃなく「眺めました」ですが)(・Θ・;)汗
注2 ツェラン/飯吉光夫訳『息のめぐらし』静地社五一頁「歌うことができる残り」
はまだ届いてません。
ただ、あれですね、読んだというより、読もうとしたけど、最初からまったくちんぷんかんぷんでしてd(・・)
数行読んだだけで、いずれも投げ出してしまいましたから、おそらく残りのツエランの本とかに向かい合っても、
たぶん、わたしにはご理解不可能かとおもわれます。
つまり、わたしはこの詩のそういった側面についてはまったく近づけそうにないので、コメントを
控えさせていただきたいとおもいます。
最初から、黙っていればよかったのですが、ひょっとして読めるかなと思ったのが、大間違いでした。すみません。 ('16/12/18 19:06:05 *5)
- 空転 :
支離滅裂だから消して、聞きたかったことだけ残して、というコメだったんだけれど、消した5時間後に消す前のアホみたいな言及に触れてくださって、ありがとう。笑
勝てない笑。僕は僕の読みを磨くよ。完敗。
でもね、この詩よりも羞明の方がやっぱり好きなんだよね。
紅月さんの模倣って断じるけど、僕はあの詩が紅月さんのあの作品とは似てないと思うんだよねぇ。あたりまえだけれど。
環境が云々って、あるけれど(環境の定義はギブソンに準じる、生態学的視覚論は僕にとっての聖書だ。笑 )あれはあづささんの美しさだと思うの。ま全然関係ない話題だけれど。
俺のよりずっとあなたの作品は面白い。けれど、ここに提示されているこの作品は(個人的に何度読んでも)やっぱり面白くない。
ブログで提示された作品はある程度、認められるけれど、ここのこのフォーマットで表現しきれないのであれば、ここに提示する意味はないし、はなから負けていると思うの。てかここの優良って果たして重要?
成就できるフォーマットで勝負した方がいいし、(それが紙であれwebであれ)無意味だよね、ここに提出するの。
あなたの小説が読みたいな。どんな(ご友人からの笑)批判があれ、早く書き上げて、ブログにアップなり、出版なりして欲しい。
健筆願います。 ('16/12/19 01:54:57 *1)
- lalita :
マシューは原罪のことを、原祝福と呼んだ。
女性の去勢不安は、男性が自分にふさわしくない、自分、いわば、女という幻想が愛の対象じゃなくなるということであり、男性の去勢不安とは違う。
男根羨望も、女性は男性の男根をうらやむが、男性は同姓の男根をうらやむという点が違う。 ('16/12/19 15:49:10)
- lalita :
カミール・パーリアを読んでみてはいかがか。あなたには、悪しき旧フェミニズム的なものが少しある。 ('16/12/19 15:53:08)
- lalita :
「反フェにスト」と揶揄される「真の」フェミニストのカーミル・パーリアの考え方が受け入れがたくても、女の真の敵は女であることを、あなたがた女性はひそかに感じとっているのではないだろうか。《ひとりの女に対して女たちほど度し難い敵はいない》。 ('16/12/19 16:46:40)
- 澤あづさ :
▼山田太郎さんへ。
おっしゃる通り『散種』はご理解不能です。わたしだって理解などしちゃあおらず、ただ解説を参照し「これはたぶんこういうことであろう。」と推測しているだけです。まさか購入なさるとは思わず(※わたしも必要なとき図書館で借りているだけです)ご迷惑をおかけしました。
ごく個人的な感慨ですが、デリダの著書がわたしに訴えた最大の事柄は、「どうだイミフだろう。なぜイミフなのかわかったのかね? わかっていないことすらわかっていないきみの常況と比べれば、わからないことだけはわかったその状況は健全なのだよ。」ということです。わたしはドゥルーズ=ガタリの「ツリー(体系)から逃げるリゾーム(地下茎)」みたいな概念を、自分のアホさの弁明として好んでいますが、やっぱりアホの弁明でしかありませんでした。それをデリダで思い知ったと。
ちなみにツェランの原詩は、デリダの批評の五億倍わかりやすい(つまりデリダの批評どおりに読む必要がない)と思います。飯吉訳は特に評判もよいので、それだけは買って得したと、山田さんに思っていただければよいのですが。 ('16/12/20 05:27:35)
- 澤あづさ :
▼空転さんへ。
自分の脳内で『羞明』に顕著な紅月おたくですが、わたしだって自意識としてはキーガンやマッカーシーを模倣してるつもりですし、修辞に関してはむしろ空転おたくを活かしたい所存なのですよ。だのに素で書いた文体のことごとくに紅月おたく細胞が増殖し、もはや不可逆。受精卵を精子と卵子に戻すことのできない事態によく似た「散種」(デリダ)そのもの。現代医学には治療法のない難病です。「恋わずらい」です簡単に言えば。
ちなみにわたしは中田満帆さんの小説の文体も、紅月さんの詩の文体と同じくらい大好きで、中田さんを読んでから意図的に変えた小説の書法があるくらい影響を受けたのですが。中田さんの文体は、わたしの身にはつきません。この事情も、語ると大変長くなります。
以前その中田満帆さんが、文学極道のコメ欄で、おれの文体は藤本和子の模倣だみたいなことをおっしゃってたことがありました。わたしは、かれの文体のどこがどうブローティガンなのか調査するため『西瓜糖の日々』を再読し、「なるほど似た修辞が一個あった。だが用法が違う。」と確認したのでした。模倣に関する著者の自覚はそういうものです。わたしも病識がないだけで、紅月おたくより空転おたくのほうが重篤なのかもしれません。話が盛り上がりすぎだ。もっと語りたい、空転おたくのことも語りたい。「文学極道にはわたしの好きな詩がある。」これ以上に文学極道で熱弁したい主張など、結局わたしにはないってこった。
*
文学極道の優良は、そのゆえわたしには重要です。みずから果たし状と名のっといてアレだが、異見をはかるのに勝敗という基準は適切でありませんね。同じく無根拠な経験則の「善悪」を、単なる好悪で恣意的に判断するなら失楽園。仮に文学極道が「ここでの表現はここのフォーマット(※JIS第三水準漢字も表示できない、日本語表現にとって論外の狭さ)に制限されるべき」と考えているんだとして、そのような単なる信仰で、JIS第三水準漢字やルビを弾圧してよい道理はありません。そういう意味で「勝敗」は関係ないねと、たったいま思いました。
もちろんわたしも、HTMLの利用技術などを、選考において評価対象にされたいとは思っていませんよ。(選考対象である親記事に、HTML版のURLを貼っていないのがその証拠です。)そんな評価基準を告知もせず唐突に採用したら、いままでの投稿者に対し不誠実ですから、選者様もしないというより「できない」でしょう。
だが「傍訓(ルビ)という基本的な日本語表現を、このフォーマットに限った可読性の低さのため否定されるのは不本意」だから、正規のルビを紹介しました。伝わるかなこの考え。「明治の書籍のようなルビ・漢字の使用や、国連共用語であるスペイン語の表記を、文学極道のために憚るべきである。」という考えは、あまりに「不自然・不健全」だと、わたしは思っているのです。
*
ぶっちゃけ『羞明』はわたしも好きだ。こんな果たし状よりよっぽど好きだし書きたいが、ああいう修辞の伏線をガラケーレベルの簡素にするのは、わたしの性格だと難しい。────かといって小説も、そもそも「だれも小説に修辞など期待していない」(ほかの要素の重要性が高すぎる)わけで、あー! いよいよ話が「自由詩とは」へ突入してしまう! つまり、空転さん、あなたこそ詩を出せ。もちろん文学極道のフォーマットには収めなくてかまわない。 ('16/12/20 05:36:36)
- 澤あづさ :
▼lalitaさんへ。
本作があなたの目に「悪しきフェミニズム」と映るだとしたら、それは「悪しきミソジニスト」であるあなた自身の反映だと思いますね。そんなことは作品の問題でも、作者の責任でもありませんから、科学的な姿勢で「事例」(比喩)にお臨みください。調査・面接・実験・観察、これが心理学の研究法と────畢竟それ以外は「研究」でないため論外と、わたしは心理学部で習いました。
とはいえご紹介の(これも引用なんですかね、)文章は興味深かったです。「文脈しらんがこの文章、あなたとわたしとでは、解釈がまったく異なるんだろうなー、、、」と容易に推測される点でね。ただ、引用元を明記しない引用は著作権法に抵触しますので、わたしのスレッドで無責任な引用コラージュはご遠慮ください。引用でない文章には引用でないと明記してください。書き手があなただと、そこまでされなければ不安です。 ('16/12/20 05:42:24)
- lalita :
ニーチェやデリダと同じ真のフェミニスト。
平等とは愛の、つまり支配 被支配という男女のゲームの終わりなので、ありえません。 ('16/12/20 15:40:21)
- lalita :
わたしは、哲学部(宗教思想)で、内的直観の大切さを学びました。聖シャンカラ曰く。「自分の直観と、外的論拠が異なる場合は、前者をとる。」 ('16/12/20 15:46:24)
- 澤あづさ :
lalitaさんにわたしの話が通じるとは思えないので、無意味な対話は遠慮したいのですけどね。わたしのスレッドに書き込まれた話を放置して、「澤あづさはこの話に同意した」と思われたくないので、対外的な対処としてやむなくマジレスしますね。読めなかったら読めないでけっこうですので、どうぞお心平らかに。
「自分の直観と、外的論拠が異なる場合は、前者をとる。」
↑こういう自分にばかり都合のよい情報を都合よく収集しているから、あなたの目は他者へ向かないのでしょう。支配と被支配はゲームなんですか、ISISがヤジディ教徒の男性を虐殺し女性を拉致して売買したのも、あなたの脳内では18禁ゲームですか? 女性蔑視の被害者が女性だけではないというところまで回る頭を、この情報化社会の21世紀に至ってすら持てないとは。ガタリが嫌いなラカンを引用して「精神分析はオイディプスの祭典ではない」と述べたことの重みに、恣意的に痛み入りますよ。
率直に、脳みそ腐ってると思います。自分の性的嗜好を正当化したいがために、実在のあきらかに不幸な被害者たちを、権利も根拠も倫理も羞恥もなく侮辱するその「暴力」(by デリダ)たしかにデリダは真のフェミニストと言えるでしょう。かれには「人間」の話をわざわざ男女の二項に分類して無意味な対立を煽りたがるような悪趣味が、わたしの知る限りありませんでした。あなたがデリダのなにを読み、どう解いたのか知りませんが、わたしの所見は以上です。 ('16/12/20 22:25:53)
- lalita :
エディプスについてドゥルーズは言ったんだな。「無意識が社会にとって合理的なことを望むはずがあろうか」と。無意識それ自体は、無意識の視点からは完全なのだよ。
それが象徴界や想像界の影響下で捻じ曲がるのだよ。
まあ、あなたには、体験的にはわからないだろうが。 ('16/12/20 23:10:06)
- lalita :
聖シャンカラや仏陀は、デリダやドゥルーズの千倍偉大な哲学者です。 ('16/12/20 23:12:50)
- lalita :
戦争も暴力もいうまでもなくエロスです。
エロスとは、死へ向かう生の欲動ですから。
バタイユの「エロティシズム」には、エロスと暴力、侵犯は同系列のものとして描かれている。 ('16/12/20 23:16:35)
- lalita :
女がフェミニストの主体になるにはどうするか? 父権的ディスコースによって提供される恩恵の習慣の数々と縁を切ることを通してのみフェミニストになる。“庇護”のために男たちを当てにすることを拒絶すること、男の“女性に対する心遣い”(食事代を払う、ドアを開ける、等々)を拒絶することによってのみ。(ジジェク『LESS THAN NOTHING』) ('16/12/20 23:20:33)
- lalita :
エロスとは残酷なものです。以下引用
男にとっては性交の一つ一つの行為が母親に対しての回帰であり降伏である。男にとって、セックスはアイデンティティ確立の為の闘いである。セックスにおいて、男は彼を生んだ歯の生えた力、すなわち自然という雌の竜に吸い尽くされ、放り出されるのだ。(カミール・パーリア「性のペルソナ」鈴木明他) ('16/12/20 23:23:43)
- lalita :
ニーチェ君もいいことを言ってる。以下引用
かつて教会は、《女は教会においては黙っていよ!》と宣したが、それも女に対する男の心遣いであり、欨りであった。ナポレオンが余りに能弁すぎるドゥ・スタール夫人に《女は政治においては黙っていよ!》とそれとなく言ったのも、女のためを思ったからであった。――そこで、今日では婦人がたに向かって《女は女においては黙っていよ!》と呼びかける者こそは真の女の味方なのだ、と私は思う。(ニーチェ『善悪の彼岸』木場深定訳) ('16/12/20 23:26:01)
- lalita :
デリダ氏ものたまっとる 以下引用
実のところ、ニーチェが大いに嘲笑を浴びせているフェミニストの女たちは男性なのだ。フェミニズムとは、女が男に、独断的な哲学者に似ようとする操作であり、それによって、女は真理を、科学を、客観性を要求する、即ち、男性的幻想のすべてをこめて、そこに結びつく去勢の効力を要求するのである。(デリダ『尖筆とエクリチュール』) ('16/12/20 23:32:43)
- lalita :
わたしは男性優位論者ではないが、性差は潜在的に備わっていると考える。
ラカンやニーチェによれば
男の欲望は、おのれの幻想の枠にフィットするような女を直接欲望すること。
・女の欲望は、男の幻想の枠にフィットするように、男に欲望される対象となること。
これが、支配 被支配の法則。 ('16/12/20 23:41:11)
- lalita :
パーリアおばさん曰く
「歴史を通じて、立派な男性はみなレイプを非難してきました。
立派な男性は人殺しをしない。盗みもしない。レイプもしない。歴
史をずっとさかのぼってもそうです。・・・長い歴史の上で、女が
常に犠牲になりレイプされてきたということを、フェミニストが突
然ひらめいたごとく発見したなどというのは、ばかげた考えです。
レイプのような問題は女性学という視点から外して、道徳の領域に
引き戻すべきです。それは道徳に関する問題です。男だけでなく、
人間すべての問題です。」 ('16/12/21 01:43:45)
- lalita :
パーリアによれば、女性学は「組織化された性差別主義」にほか
ならない。フェミニストが要求するのは、男を去勢し、宦官にする
ことである。フェミニズムには気がふれた狂信者やカルト集団がは
びこつてゐる。フェミニズムを代表するリーダーたちを見よ! 彼
女たちの視野の狭さ、現実的な政治知識の欠如、美学への無関心、
感情むきだしの話し方。
「彼女たちの多くが潜在的な鬱状態、ないし感情的なアンバランス
を抱えているようにみえた。その原因は《家父長制》ではなく、混
沌とした家族の歴史であり、自分自身の判断の誤りにちがいな
い。」 ('16/12/21 01:45:37)
- 山田太郎 :
lalita ?
おみゃあさん、なにを必死こいてるんだよ(o_ _)ノ彡☆
バカ丸出しな真似はもうおやめなさい。 ('16/12/21 09:44:18 *1)
- 澤あづさ :
率直にアレだ。こんな孫引き(にしか見えない)コラージュは荒らしにしか見えない。
_:(´ω`」 ∠):_
でもlalitaさんは、最近頻出してた真性の荒らしとは異なり、話材が充実してるので乗ることにした。みなさん一次資料に当たりましょう。
*
ISISの人身売買やDV/虐待の連鎖の問題を、「機械状に無意識だからしょうがない。」ですませてかまわないんなら、どこの国家にも法はいりませんわ。いちおうお断りしておきますが、S男とM嬢とかの性的ファンタジーはもちろん、両性の合意ないし正規料金のもと犯罪にならない範囲で、おのおの自由に実践すればよい。他人の性的嗜好には、それが犯罪でない限り、口出ししないのが常識とわたしも思います。だというのにあなたは、あなたの性的ファンタジーを、あなたとセックスしない三十路の人妻にぐだぐだ押し売りしてるわけで、そんなの空しくないんですか。
だいたい「無意識は完全」て、なにに対する定義です。フロイトは超自我が無意識を制御するみたいに(自我に関してだいぶお茶濁した感じで)述べ、ガタリは超自我なんて定義はいらんと述べましたが、どっちにしても無意識に「完成」などありません。あったとしてもはかれないので定義に意味がありません。それ(das Es)はまさに「他者」です。
▼引用の解釈に関しては、めんどくさいので自分が言及したデリダのにのみ反応。
>デリダ氏ものたまっとる 以下引用
>実のところ、ニーチェが大いに嘲笑を浴びせているフェミニストの女たちは男性なのだ。フェミニズムとは、女が男に、独断的な哲学者に似ようとする操作であり、それによって、女は真理を、科学を、客観性を要求する、即ち、男性的幻想のすべてをこめて、そこに結びつく去勢の効力を要求するのである。(デリダ『尖筆とエクリチュール』)
この文章はもちろん、ISISの人身売買やDVの連鎖を支持などしていない。根本的に、lalitaさんのような「独断的な哲学者」への批判である。批判の矛先は「男性性(幻想)」に向いている。
*
わたしもね、既婚ですし女性客相手(わりと夜の蝶が多勢)の接客業ですし、ジェンダーそのものに反対する気はまったくないんですよ。日本の家庭の九割が「夫ひとりの給料で子ども三人を大学まで出せる」のなら、もちろん明治のお華族様みたいなジェンダー万歳ですわ、────だが現実の社会は、悠長にジェンダーの理想など唱えてられる状況にありません。そこから話をはじめませんとね。
lalitaさん年収いくらあるの? その金で子ども三人を大学まで出せる? その金がなければ、ニーチェの夢見がちな素人童貞哲学など、いま日本の家庭で成立するわけありませんよ。夫が子を食わせないなら、妻が働かないわけにはいかないからです。lalitaさんが引用なさったジジェクの述べてる状況を、いま日本の若い女の子たちが実際に体現してる(※なぜなら男の子がろくな給料をもらってないから)ってことをわかってるんですか。
ちなみにわたしの父と祖父は両方とも、「働けなくなり男の甲斐性がなくなった」という理由で、50代にして自殺しました。これもジェンダーの問題です。日本の中高年男性の高い自殺率の背景には、社会の男性への過剰な期待(幻想)があると、わたしは自分の父と祖父の悲惨な末路から確信しています。────そのように、男女の社会問題は表裏一体。わたしはこの投稿で、その「表裏」に挑んでいるのですよ。あなたが「女」の問題を「社会(人間)」の問題と捉えないのなら、それはあなたが「女」を「人間」扱いしてない証拠でしょうねと。以上対外的対処。 ('16/12/21 10:08:01 *2)
- lalita :
>実のところ、ニーチェが大いに嘲笑を浴びせているフェミニストの女たちは男性なのだ。フェミニズムとは、女が男に、独断的な哲学者に似ようとする操作であり、それによって、女は真理を、科学を、客観性を要求する、即ち、男性的幻想のすべてをこめて、そこに結びつく去勢の効力を要求するのである。(デリダ『尖筆とエクリチュール』)
もろにフェミニストに対する批判です。 ('16/12/21 14:01:25)
- lalita :
ニーチェが素人童貞だからといって、彼の洞察力の鋭さに換わりはない。
シャンカラも、生涯、不姦でした。 ('16/12/21 14:49:35)
- lalita :
私は、ペニスの太さが4.5あるので、lサイズも少々きつくて、llが薬局に売ってないのがうざいです。キャッ キャッ (‘−‘) ('16/12/21 17:07:02)
- 澤あづさ :
ああ母子家庭等の事例を忘れてた。女性蔑視社会で母子家庭の子がどういう待遇を受けてきたか、それは天賦人権の理念に反する差別だからやめましょうという流れに先進国ではなった。lalitaさんの脳内にはおそらく、「夫に先立たれた女性がひとりで子どもを育てる家庭に必要な援助はなにか」といった、性的でない問題が存在していない。話が実在の「社会(人間)」に基づいていない。それで、デリダのエクリチュールの一次資料には当たったの、脱構築と差延くらいの予備知識はあるの? そして結局、年収いくらあるの、あなたの大好きな「男らしさ」の真相がペニスの太さでなく年収の高さなんだって知ってる?(てか太いよろこぶ素人女ってけっこう限られてるからね。長いのも痛いと少なくともわたしの友人のうち2人は言った。クリと同じくポルチオも、興奮してない状態では痛いだけだ。愛をこめて前戯してもらいませんと、刺激を軽くやさしくしてもらいませんと。────こんな簡単なことも推測できず支配とか言ってる素人童貞が、セックスを「洞察」てなんだよ。素人童貞は玄人の「演技」しか知らないんだから、知りもしない素人女を洞察できるわけないじゃん。)こうして女に技術を批判された男が、脊髄反射で女たたきをはじめたり、急に小学生みたいなちんこ自慢をはじめたりするのは、「ちんこ以外にプライドの拠り所がない」からだ。このへんの事情はネット右翼にも通じる。「個人」として誇れるものがなにひとつないから、ちんことか愛国とか、無条件に自分を肯定してくれる便利な既存概念に依存するのだった。こういう防衛状態の者が、自己を冷静に洞察することはない。洞察してしまうと自我が危機に陥るから、自我でない心理が洞察を規制している。lalitaさんに話の通じる蓋然性が低いのはそのためだし、本作にもそのことは表現した。以上対外的対処。 ('16/12/21 21:20:23 *1)
- lalita :
私は素人とやったことあります、素人童貞ではありません。セフレもいます。社会不適応遮那だけです。 ('16/12/21 21:24:54)
- lalita :
年収=男らしさという概念というより、バタイユ的な、侵犯=雄性という考えのほうが強いかも。
ちなみに長さは18センチで超硬いので、よくほめられます。(:・:) ('16/12/21 21:38:45)
- lalita :
ホストやってたこともあります。 ('16/12/21 21:44:24)
- lalita :
日本には父権なんてのはなかったんだなぁ。一神教国家では、父が超自我だったけど、日本では、共感の柔らかな強制である母権のほうが打倒すべきものなのだが。 ('16/12/21 21:52:15)
- lalita :
「夫に先立たれた女性がひとりで子どもを育てる家庭」・・・
現行の社会制度には大きな欠点がありますが、私は社会主義70%資本主義30%くらいの社会がベストだと思っております。 ('16/12/21 21:54:12)
- lalita :
母国は第二の母であり、忘れるべきではありません。
私は右翼でも左翼でもないですが、母国への気持ちは大事だと思います。 ('16/12/21 22:05:44)
- lalita :
結局、全部 おちんちんとおまんこのお話なんだよ。笑
象徴界に顔を出す現実界。 ('16/12/21 22:09:09)
- lalita :
年収=雄性とは思えない。雄性の強い犯罪者や社会的不適応者もいる。というか多い。
デリダは昔、よく勉強したな。
教授がポストモダンの専門家だったからね。 ('16/12/21 23:01:30)
- 澤あづさ :
わたしが揶揄した「素人童貞」は、lalitaさんじゃなくニーチェですよ。加えて「日本が母権社会という意見は、西欧と日本を恣意的に二項対立させたい論者のレトリックでしかないと思う。戸籍制度と天皇制を見ればあきらかなように、日本の家庭は『男系』『家父長制』が優勢であるし、それが典型(象徴)と見なされてもいる。」しかしまあつまり、下ネタは無駄なほど盛り上がってしまうものですよね。これ以上盛り上がるようなら、「この親記事をトップに移動しない」にチェックを入れたうえでお願いします。硬いのもね、角度がよろしくないと、的外れなとこを過剰にえぐられるだけで、特によくないしすぐ痛くなっちゃうのね。(実体験。)つまり技術と相性ですよ重要なのは。既存のちんこ概念に依存せず、自己それ自身に自信を持て。
わたしは下ネタの意義を断じて否定しない。セクハラなんて概念は過剰な規制で有害だ。女性蔑視と同じように男性蔑視も憎悪され危惧されなければならない。「痴漢冤罪の加害者である若い女には、田舎の消防団の飲み会でコンパニオンをやりジェンダーを鍛錬する懲役を課すべきだ。若い女がおっさんのセクハラに耐えないようでは、日本のGDPが下がる一方だ。」などとけっこう本気で思っている程度には、ジェンダー賛成派なんですよ。なん度も言ってるように。
*
それというのも「男性に優位性が認められない社会で、男性はまじめに働くのか? 社会が男性に対し、クマのオスみたいなジェンダーを期待するようになったら、繁殖がクマより不利であるヒトは、パンダのような絶滅危惧に瀕するのではないか?」といった疑問がある。もちろん、実在の人間社会はどこも、生態からの推測で片付くほど単純な仕組みではないが、(パンダの絶滅とて単純には危惧できないのだが、)多くの社会は「男の労働のモチベーションをいかにして上げるか」に腐心してきたように、いまのところわたしには見受けられるのだった。社会主義はその点で大変難しい問題だ。がんばろうががんばるまいが収入が変わらないのなら、ふつうだれもがんばるまいと思うのだが、事実日本の男性の多くはブラック企業の社畜と化して、文革のような無茶な要求に応えている。ホストの労働環境の凶悪ぶりも有名で、まったく同情を禁じ得ない。だもの若い女の子だって、セクハラくらい我慢しないとねえ。
ヒトやサルは、アリやハチと同じ社会的動物(社会を前提として繁殖する動物)。ただしアリやハチと異なり「繁殖の本能」を持っていない。つまり「社会から学習しない限り、交尾とその方法を知りえない」わけで、事実「先天的にセックスのしかたを知っているヒト」は一頭もないのだった。すなわちヒトの(セックスそのものに対する)性欲は、後天的な「知識」に過ぎない。それがニーチェのような素人童貞により、さもヒト(雌雄)の絶対的な本能であるかのように喧伝されてきた事実から、危機的状態にないヒトの欲求における「知識欲」の優勢ぶりが推測される。『ラーメン発見伝』でハゲが「奴らはラーメンを食ってるんではない。情報を食ってるんだ。」と言ってたが、性も同様の「情報」なのだ。素人童貞(※lalitaさんではない)は、そんなことすらわかっていないことすらわかっていないわけだが、「社会に思考を規制されている」のだからどうしようもない。人間は全員バカである(養老孟司)。社会がバカを養成する。そのどこの組織団体でもない、はかり知れない「他者」くらいしか呼び名もない「社会」の、縮図・断片である「無意識」なる概念は。そういうわけで、わたしはジェンダー賛成派なんですよ。現代社会の核心「経済」の実態に、ちゃんと基づき機能しているのならね。あー。わたしの趣味だと、このレスレスのほうが、投稿作品よりよっぽど自由詩的なんだよ。
_:(´ω`」 ∠):_ ('16/12/22 00:57:36)
- lalita :
完全な相互の愛というこの神話に対して、ラカンによる二つの印象的な言明がある、「男の症状(症候)は彼の女である」、そして「女にとっては、男は常に廃墟(墓場)を意味する」と。この言明は日常生活の精神病理において容易に証拠立てることができる。ともにイマジナリーな二者関係(鏡像関係)の結果なのだ。誰でも少しの間、ある男を念入りに追ってみれば分かることだが、この男はつねに同じタイプの女を選ぶ。この意味は、女とのある試行期間を経たあとは、男は自分のパートナーを同じ鋳型に嵌め込むよう強いるようになるということだ。こういうわけで、この女たちは以前の女の完璧なコピーとなる。これがラカンの二番目の言明を意味する、「女にとって、男は常に廃墟である」。どうして廃墟なのかと言えば、女は、ある特定のコルセットを装着するよう余儀なくさせられるからだ。そこでは女は損なわれたり、偶像化されたりする。どちらの場合も、女は、独自の個人としては破壊されてしまう。偶然の一致ではないのだ、解放運動の目覚めとともに、すべての新しい社会階層は教養ある孤独な女を作り出したことは。彼女は孤独なのである。というのは彼女の先任者たちとは違って、この廃墟に服従することを拒絶するのだから。 ('16/12/22 01:13:42)
- lalita :
かつては、父は社会的規範を代表する「超自我」であったとされた。しかし、それは一神教の世界のことではなかったか。江戸時代から、日本の父は超自我ではなかったと私は思う。その分、母親もいくぶん超自我的であった。財政を握っている日本の母親は、生活費だけを父親から貰う最近までの欧米の母親よりも社会的存在であったと私は思う。現在も、欧米の女性が働く理由の第一は夫からの経済的自立――「自分の財布を持ちたい」ということであるらしい。
明治以後になって、第二次大戦前までの父はしばしば、擬似一神教としての天皇を背後霊として子に臨んだ。戦前の父はしばしば政府の説く道徳を代弁したものだ。そのために、父は自分の意見を示さない人であった。自分の意見はあっても、子に語ると子を社会から疎外することになるーーそういう配慮が、父を無口にし、社会の代弁者とした。日本の父が超自我として弱かったのは、そのためである。その弱さは子どもにもみえみえであった。(中井久夫「母子の時間 父子の時間」初出2003 『時のしずく』2005所収) ('16/12/22 01:48:44)
- 三浦果実 :
私は、どちらかというと女性詩人が好きで、それは、言葉の柔らかさやセクシーな言葉使いなどということが理由で好きなのではない。女子の作品には魔法があるのだ。読者のみなさんはこの魔法を感得するセンサーを御持ちだろうか。この魔法について話を進めると、またとんでもない方向へ展開するので止めておく。澤あずさ氏の今作にも魔法はある。先に申し上げるが、アンパンマンも注釈の書籍も私は目にしたことは一度もない。そんな文学力最低レベルな私であっても『未女/ロールメロンパンナ複合』を楽しく読むことが出来る。QRIOや渡辺美里を知らなくとも、作品の隠喩やロジックが判らなくとも、『あたしは男根畑ではない』のひとことで笑えればいいのだ。あらすじ通りにやるセックスや誰かのモノマネのようなセックスよりもむしゃぶり尽くすようななーんも考えないセックスのほうが楽しい。そういう意味でもある。わかるかな?『未女/ロールメロンパンナ複合』が書籍になって装丁画がジャンヌダルクがV字開脚でピースサインしている絵柄であれば、きっと3,000円の価値が生まれることだろう。 ('16/12/22 23:17:35)
- ちょび :
お久しぶり、ちょびです。
相も変わらずコメント殺到し過ぎだろ。ご愁傷様。
凍りついている顔射の聖痕。たしかアクアシティお台場だった。
口語でもない詩文でもない、かなり中途半端に繋いでおりますね。
なにを焦っているのか分かりませんが、
これをもって全体が下りへと、崩壊するような傾斜を作っているように見えますが?
メロンパンの皮の硬さに似た精液の乾いたネバつきをメロンパンに比喩するのはまぁ良いのですけど、
それを書いたあとに焦っているように読めますね。
まるで自分の未熟さを埋めるように、焦って口語に切り替えて無闇に書いている。
てかlalitaさんと、なんかあったん?
てか澤さん、生真面目にコメントすんなよ。自分が疲れる。
あー、メロンパンの皮と精子は結構マッチしてると思った。
ガチガチだしね! ('16/12/23 01:40:17)
- 澤あづさ :
lalitaさん、三浦果実さん、ちょびさん、ご来訪ありがとうございます。年末進行と身内の惨事でレスレスが遅れ失礼いたしました。かなり下がりましたので、レスレスに気づいていただけない惨事を予防するため、記事を上げさせていただきます。
▼lalitaさん、超自我はバーンのエゴグラムなんかですとふつーに「批判的な親(父)・寛容な親(母)」の二項で説明されています。「父」が超自我であるなら「母」も超自我であろうという当たり前の推測をできなかった経験則が、フロイトの女児エディプス・コンプレックスの一敗因です。つまり「女」は疑いなく「人間」ですので「個性」があるわけですね。孤独が好きでみずからやってる女もいれば、「キャスター・セメンヤが女子アスリートであり続ける権利」といった観点から議論されるジェンダー(インターセックスという概念の押しつけが当事者に対し凶悪である事実の指摘)もあるわけですよ。他人の生き様に対して、自分の都合の押しつけでぐだぐだぐだぐだぐだ説教したがる自己中なやつ(自分が他人に適応できないので、他人を自分に適応させようとしてもちろん失敗してるやつ)って、男女関係なくよくいますけど、それも「人間」だからこその個性でしょう。
▼三浦果実さん、作品をしっかり「書かれている通りに」読んでいただけて作者冥利に尽きます。アクアシティお台場関係は、ネタとして普遍性がなさすぎたかもしれませんが、渡辺美里の『My Revolution』は、綾波レイと同程度かそれ以上に研究されている表現だと思いますので、ぜひひとつ歌ってみてください。はて本作の前身は6月に落選したわけですが、なぜ落選したのか、6月選考雑感を確認しますとどうも、「(作品に書かれてもないのに)綾波レイが想起される」という、読者側の(作品にも作者にも無関係な)都合があったようでした。そこで今回は「本作の女が、綾波レイのような拙劣な記号ではないこと」を強調すべく、綾波レイを否定する語彙をばらまいたのでした。ここまで書いてあるにもかかわらず、書かれてもいない綾波レイや上野千鶴子に引きずられ、「きみ」という文脈上あきらかなキータームを無視したうえで、他者の存在そのものを裁こうとする偽預言者のごとき読者は、作品に言及してないのだから作者には関係ない次第ですが。三浦さんはさすが天下のドM。顔射を断れない偽M嬢の憂鬱に敏いようですね。世間での肩身の狭さは、顔射を断りたい偽M嬢も女王様の聖水を拝受したいブタ(比喩)も変わりますまい。たしかにlalitaさんのご指摘通り、世間の女子にはジェンダーとして、S男を求めるM嬢が圧倒的優勢だからです。────しかし三浦さん、ブタの睾丸にも商品価値はありますよ。既存の男根幻想に惑わされず、自己それ自身に自信を持て。
▼ちょびさん、メロンパンの皮と顔射のベストマッチぶりには、わたしもたったいま気づきました。ぶっかけられたあと乾くまで放置した経験がないので失念してたがたしかに、あれはガチガチですよ。そして『焼きたて!!じゃパン』によれば、メロンパンが未完成なのは、そのガチガチが半端だからなんですよ。ところで「口語」といいますのは、「文語」(平安時代みたいな擬古文)に対し「一般社会に実用されている現代日本語全般」を指すのでして、ちょびさんのご罵倒はご理解不能です。「全体が下りへと、崩壊するような傾斜」なんてのは、まさに作者のやりたかったことそのものでして、褒められたようにしか思えませんでした。lalitaさんの男根になにがあったのかは、もちろんわたしの与り知るところにありません。なにはともあれ下ネタは、社会にとってきわめて重要という結論です。ちょびさんも男根に自信を持て。既存の男根幻想でなく、自己それ自身にだ。 ('16/12/27 13:23:52)
- lalita :
男性の超自我に比べて、女性の超自我は軽いと心理学は言う。 ('16/12/28 02:05:17)
- 澤あづさ :
>男性の超自我に比べて、女性の超自我は軽いと心理学は言う。
それを言ったのは「心理学」ではなく、フロイトの女児エディプス・コンプレックスであり、すでに学術的に敗北していると先述しました。超自我には、あなたの大好きな「母性」やあなたの唾棄したいらしい「母権的社会における共感の強制」が含まれるというのが、現今の心理学の通説です。まあ心理学は五年一昔と言われてて、わたしが大学で学んだ事柄もとっくに古いので、「心理学」について軽率なことは言えないのですけどね。
いよいよちょびさんの「生真面目にコメントすんなよ。自分が疲れる。」というアドバイスが身にしみてきたので、以後は楽しく不まじめに対応しますからね。とにかく、少なくとも性的ファンタジーにおいて、M嬢が優勢でありS男の需要が高いという事例は、たとえばハーレクイン・ロマンス(特にリン・グレアム)名物「鬼畜ヒーロー&ドアマットヒロイン」に顕著です。ハーレクインとは、アメリカとかで人気の女性向け濡れ場重視恋愛小説文庫でして、作家は全員女性ですよ。そこに出てくるヒーローが、圧倒的に人為的なドSだらけなんですよ。どいつもこいつも、世界的大企業のCEOとかギリシャの海運王とかシチリアの財閥の御曹司とかアラブのシークとかヨーロッパの大公とか、肩書からして「支配者」で、身長190センチ超えでセクシーヒップでベッドテク最高峰。ヒロインどもは全員、キス一発でやつらの手中に落ちるのでした。そこまで都合のよすぎるヒーローが、しょうもない誤解でヒロイン(※こちらも有能で社会的地位の高い人が多勢)を苦しめるのがハーレクインのテンプレでして、「こんなしょうもない誤解をするほどバカな男が、なぜ起業に成功できたのか?」という果てしない疑問は延々ガン無視です。そのようなまさに男根幻想──健全な頭脳が健全な男根に宿るという信仰──が、いまだM男の肩身を脅かしている21世紀。女はたしかに支配されたがっていると思う、ただし「支配者は支配者たる資格のある者に限る」。大統領選とかで盛り上がる庶民(被支配層)男性と、まるきり同じだと思うんですけどね。 ('16/12/28 10:35:06 *1)
- lalita :
いや、ラカンやジジェクも言っている。それが帰って女性を自由にするのだと。 ('16/12/28 19:39:28)
- 山田太郎 :
ラカンやジジェクがなにをいおうが、それはラカンやジジェクの
個人的な考えであってlalitaの考えじゃないだろうが。
ラカンやジジェクなんてしょせんはアクロバチックな一仮説であって、
それを権威として蓑のようにまとい、なにか事実であるかのように
振り回すのは、滑稽だろ?
もっとも日本人はおフランスの横文字思想に弱いから、また、それを
大学で頭から重大思想のように教えつけられ洗脳されているから、
ラカンやジジェクを出せば、みなが黙ると思っている。
まったく滑稽で見苦しいピエロだ。
どうしておまえはラカンだのわけのわからない連中の名前を出す前に
稚拙でもいいから自分自身のことばで語ろうとしないのか?
ラカンやジュジュクを出せばなにか解決するのか?
解決なんかするわけねえだろうが。ラカンもジュジュクも形式だろうが。
切実なじぶんの問題から出たのではなく、おフランスやヨーロッパの
哲学思想の基盤から生じた学問にすぎないだろうが。
吉本がおまえのようなやつのことをうまい言葉で表現している。
≪井のなかの蛙は、井の外に虚像をもつかぎりは、井の中にあるが、
井の外に虚像をもたなければ、井の中にあること自体が、
井の外とつながっている≫
だからたとえばおれがラカンを知らなくともいつでもラカンと
対等に渡り合える思想をもっているが、
おまえは井の外に、虚像をもっているから、永久に井戸の中の
カワズなんだよ。 (o_ _)ノ彡☆ ('16/12/28 20:16:53 *6)
- アラメルモ :
前回コメントしたのがいつだったか忘れてしまいました。
なんかさらに難解になったようで、そうだなあ、引用に置かれた名前を拝見しただけで、姑息な我が頭脳は引いてしまいそうになりましたが、それも計算されてのことのかな。とにかくひとつのモチーフからこだわる姿勢が尋常ではない。もうダサい奴なんて一蹴されてしまう。それくらい置かれる言葉の選別に拘る情熱も伝わってきます。妥協できない。編集によってとことん良さを追求する姿勢ですね。
ダサい田舎もんでは付いていけない洗練されたハイソ感。これは皮肉ではないですよ。
アメリカのNYを拠点に活動したグループ、スティリーダン。僕はあの洗練されたリズミカルな音作りや、ちょっと摩訶不思議な世界観を醸し出すセンスが好きでずっと聴いています。後にリーダー格の二人になりましたが、ライナーノートを読めば彼らのスタジオ録音への拘りはハンパじゃなかったようです。
バックで参加するのはみんな全米を代表するような名の知れた超一流プレイヤーたちばかりですよ。それでも納得できる演奏が録音できるまで何度も録り直しをさせたらしい。互いに通じあうものがあったからこそできたのでしょうね。
あの優れた各々の演奏はやはりそのような背景もあったのだ。ライブなどでは再現不可能な効果音の数々。
改めて素晴らしいアレンジの努力にも納得させられました。
澤さんの良さも少し似たようなところがありますね。
都会の洒落た雰囲気。片隅のバーに集うのは、刺激を求めてやって来るアンダーグラウンドな好事家ども。
一歩外へ出れば通りのウインドゥに映る。街を颯爽と歩いていく女性たち。
そんなハイセンスな街の裏側にも、女性たちの嘆きは隠れているものです。
そういえばマイケルマクドナルドを加えた後のドゥビーブラザースや井上陽水、4人になったKATーTUNだって、曲を聴けばどこか洒落た都会の中を闊歩していく女性たちのイメージが宿っている。
華やかな都会の中の孤独。
切なさを感じてしまいます。 ('16/12/28 20:44:39 *8)
- lalita :
観念なしにありのままに生きよう。 ('16/12/29 00:10:44)
- ちょび :
おい!
山田とメルモ、
撤収すんぞ。こっち来い。
君ら、ワン・ツー・パンチのホモかよ。
清掃するこっちを慮ってくれねぇか? アホどもが。 ('16/12/29 01:45:17)
- ちょび :
あー、今、アホどもを黙らせていますんで……
山田とメルモちゃんは、結構、野生の子たちでしてー! ハハ
この子たち、澤さんを気遣ってるみたいだけど、不器用みたいです。
でも、lalitaさんの攻撃は酷い、で一致しているようなので、
な? 山田とメルモ。
あまり酷いことはしないで下さいって二人は言ってるみたい。 ('16/12/29 02:03:25)
- 澤あづさ :
▼lalitaさん、山田太郎さん、アラメルモさん、ちょびさんへ。
▼lalitaさんへ。
ラカンやジジェクがなにについてどう言ったからどこの女性がどう幸せになったというのか、lalitaさんの文章とわたしの書いた文章の因果関係が不明すぎます。ラカンってわたしには設定厨にしか見えないんですけど、ジジェクは話がクレバーなので好きですね。もはやジジェクによってしかラカンを理解してませんわ。ガタリが好きすぎるからラカンへの印象をジジェクで修正したんですよ。ちなみにわたしの出身大学において「心理学」は、まじめに脳波取ったりまじめに知能を検査したりまじめにハチとヒトの生態を比較したりしないとできない学問であったため、ラカンとかガタリとか評判の悪いポスモは教わりませんでした。
▼山田太郎さんへ。
精神分析学が「形式」なのは疑いない話で、特に臨床には、患者よりむしろ治療者のための論もあるようです。たとえば境界性人格障碍の症例の説明によく用いられる投影性同一視(メラニー・クライン)は、批判も多い概念だけれども、すこぶる実用的なんだと臨床に行った友人から聞きました。患者の言動が迷惑すぎて、治療者側のストレスが尋常でないので、スタッフ間で投影性同一視を理解し合い「患者の言動によってスタッフ間の信頼関係が壊れないようにする」んだとか。ラカンが臨床の現場でそのような役に立っているという話を、わたしは聞いたことがありません。
▼アラメルモさんへ。
6月に引き続きご来訪ありがとうございます。今回のは6月に投稿し落選した部分を差し替えないという、きっつい縛りで作り込んでおり、難度は凶悪なまでに高まったと自覚しています。要するに6月のが、さすが落選しただけのことはあり、よくよく考えたら自分にもつまらなかったからこうなったので、ここまで来ると成否をはかる基準も「自分が満足できるか否か」しかありません。それじゃあ罵倒されに来る甲斐がないといまさら思ったので、次の投稿はもっと開放的な、自己完結していない品で挑みたいです。。。
引用の選定とモチーフ・キータームの扱いには、ご指摘どおり尋常ならんこだわりがあり、毎度あまりに悩ましい問題です。たとえばハイソ感は、ないよりあったほうがいいと、自分の趣味として確実に思っていますが、デリダやツェランより『焼きたて!!じゃパン』のほうがハイソであるような気がしてきてこうなったり。妹については創世記より沖縄のヲナリのほうがハイソかもしれんと思った結果、久高島がアクアシティお台場に化けたりです。今作で採択できなかった話材を、自作に活かせるとよいのですが。。。
颯爽とした雰囲気は、わたしの筆だと無理だと思っていましたが、「話を頻繁に切り替える」というフォルムが効を奏したのならうれしい限りです。なにより、ご指摘の「孤独」「切なさ」が、地に足ついた実感としてアラメルモさんに伝わったのが、作者としてとてもうれしいです。今回冒頭部の最後に引用した、あきらかに切ないはずの短歌三首(この引用の選定が一番苦労した、、、)が、その印象に一役買ったのなら至福です。
▼ちょびさんへ。
わたしはあなたのアドバイスに則り、疲れる対応を放棄しましたが、lalitaさんのご用件はつまり男根崇拝の布教だと思っています。布教も度が過ぎれば「攻撃」になりますが、わたしに被害者意識はないですよ。それというのも以前、フランスのカルト指定を受けてる某宗教の、無節操な引用による詐術を実体験したことがあるのです。かれらはガチで、ダーウィンからの引用を歪曲して「ダーウィンは進化論を支持していなかった」と導くレベルの詐術をやってました。lalitaさんの男根崇拝布教にもそれに似た傾向がありますが、カルトってほど悪質ではないでしょう。本作だって詐術の応用です。わたしの目的は「説得しない」なので方向は逆だけど、類友ですわ。たぶん。
山田太郎さんはlalitaさんと議論なさってるわけで、わたしは自作のかもした物議がレッサーの議論を誘発することを、すこぶる栄誉と思っています。アラメルモさんに至っては本作の批評家です。わたしが批評家にまで不まじめに対応するのではないかと、心配してくださったのならありがとう。 ('16/12/29 06:23:26)
- lalita :
男根崇拝 たとえば、それがインドのシヴァ教のようなものならば、その背後の意義を考えたときすばらしい。 ('16/12/29 14:20:10)
- 澤あづさ :
この文脈にその返答。lalitaさんどうやら天然ですね(・∀・;) そんな善心を全面に出して来るのはやめてくださいよ、わたしの文章の穢らわしさが際立って恥ずかしいじゃないですか。そうねヒンズーが男根像を堂々と崇拝しているかたわら、仏教のほうでは「仏の男根は体内に内蔵されており、外からは見えない」とか言われてる件を初めて聞いたとき、わたしはまじびびりましたね。仏教はお釈迦様と法華経以外全員、成仏の条件に男根を挙げてるそうで、シヴァ以上にあからさまな男根崇拝だと思うんですが。あからさまに崇拝してるはずのその男根を、なんと仏像が体内に収納し隠蔽しているというのを、いったいどう解釈したらいいんでしょうね。うちの地方の方言で、仏壇に手を合わせることを「のんのさまぺっ」と言うらしいと、三十すぎてから知ったときと同じくらいカルチャーショックでした。沖縄ではそれを「ウートートー」と言うらしいです。仏壇だろうが神棚だろうがウートートーみたいです。うちの地方では、神棚にのんのさまぺっとは、たぶん言わないので、どっちも「手を合わせる」という意味ではないのだろうなあ。文化って聞いてるだけならなんでも楽しいよね!! ('16/12/29 17:42:17)
- lalita :
シヴァのペニスは、アートマリンガといって、真我のシンボルだ。 ('16/12/29 20:09:49)
- lalita :
文字通りの男根崇拝ではない。 ('16/12/29 21:43:21)
- lalita :
真我とは神の力の中枢である。ペニスが男の能動性の中枢であるように。 ('16/12/30 02:03:26)
- 澤あづさ :
▼修正報告
親記事を決定稿へ差し替えました。本作はこれにて脱稿とし、以後は誤字・脱字・不首尾が見つかった場合を除いて修正しません。傍訓などが読みにくい場合には、下記のHTML版をご覧くださいますようお願い申し上げます。
http://blog-imgs-100.fc2.com/a/d/z/adzwsa/201612312134366a5.html
※上記の版には「文学極道のフォーマットでは意図通りの表現ができないので、文学極道版からは削除した表現」が含まれます。
▼lalitaさんへ。
わたしはアートマン(真我)よりアナートマン(無我)が好きな仏教びいきで、アートマ・グラーハ(我執)とダルマ・グラーハ(法執)といった響きにむやみ興奮するたちで、もちろんグラーハ万歳という非常にねじれた所知障でしてね。我と法は自我と超自我のように境界があいまいだと思うし、我と無我は自我と無意識のように繋がっていると思う、しからばかくの境界と対立は本当に必要なのかと、本作で問うたつもりでした。なにはともあれ、よいお年を。
▼ところで花緒さんへ。
今回の修正は、初稿との差のすこぶる小さい微調整しかできませんでしたが、花緒さんの下記ご指摘がおっしゃるとおりであるという考えからおこないました
>フロイトとかユングとかの引用文以降、様々な思想や理論が、かなり深いレベルで男性中心な感じで構築されていることに対する批判文(=ぐち)って感じで読めてしまって、イマイチ詩情が伝わってこなかった。
http://bungoku.jp/ebbs/bbs.cgi?pick=9342#20161214_368_9342r
本作の趣旨がそこにないことを明瞭にするためには、おそらく「逆の事例」(女性優遇に不満のある男性の話)を出して比較するのが手っ取り早いのでしょう。それをやると「自己(未)完結」という主題が台無しになるような気がして、今回は実践不可能でした。特段その主題に拘泥したいわけでもないので、ご指摘は次作に活かしたく思います。
わたしには詩に向かないという自覚が六年も前からあるのですが、今回花緒さんから、冒頭〜中盤の流れ(修辞と構成の勝負)に好意的なご反応をいただけたので、「これが通用するならもっと作りたい」という気分になってきました。ありがとうございます。来年もよろしくお願いします。 ('16/12/31 22:32:32)
- 中田満帆 :
この詩にかかわらず、澤作品を理解するためのブックガイドが欲しいところです。ぼくは詩に対して保守的になってしまったので。鳥阿閇図、あけおめ。 ('17/01/01 00:08:02)
- lalita :
宗教的悟りは、魂の奥底で感じるものなので、仏教とかヒンヅーとかによらない。
真我と諸法無我は体験において、自我の不在という意味で一致する。 ('17/01/01 11:07:52)
- 澤あづさ :
▼中田満帆さんへ。
あけましておめでとうございます、ところでこのへんご覧いただけたでしょうか。
http://bungoku.jp/ebbs/bbs.cgi?pick=9342#20161220_512_9342r
保守など捨て去って、さっそく新作をお書き初めください。
拙作ですが、本人の自覚でも、詩を書くよりはガイドを書くほうが好きです。しかし本作の選語を逐一説明するのは、ガイドの文量が作品文量の数百倍を超えた挙句に無限後退という不始末に「必ず」陥るので無理です。本作はそういう表現なのですが、自縄自縛がきつすぎて、話材を適切に扱えなかったかもしれません。
今回皆様のご反応から、やはりデリダより『焼きたて!!じゃパン』のほうがハイソであったとか、知恵の実のような「本題から乖離した通念が流布しすぎている概念」には注解が必要ぽいとかいったことがわかりました。去年文学極道で得た教訓を、今年書く別の作品に必ず活かしたい所存です。中田さんは新年の抱負などすっ飛ばして、ぜひ新作をお書きください。
▼lalitaさんへ。
仏教において我と諸法無我は別の概念です。諸宗教から都合のいいとこばっかり引用コラージュするとカルトになりますよ。なににせよわたしは上のレスで「重要なのはアートマンでもダルマでもなくグラーハ(執着)である」という反仏教・機械状無意識崇拝を信仰告白したはずです。ヒンズーについては、カーストとダリッドとサティーが嫌いであるため語りたくないので、わたしに話を振らないでください。新年を迎えましたし心機一転ということで、今後このスレで「作品と関係ない話」はご遠慮願います。 ('17/01/03 12:44:29)
- すずらん :
文極でどんな読解が得られるかの挑戦状とのお返事だったので、投稿日から1ヶ月目に訪ねることにしていたの。
さて昨日がその日なので訪ねたら、決定稿が大晦日に挙がってたのね。読んでみました。
僅かな改稿とのことだけれど、それが効いているのか、ダイナミックなミュージカル公演の台本のような印象へと転じた感じ。
出演者全員が作者によるオーディションで決められたような、よい意味で緊張と発散のあるad hoc性に漲っている。
そうして内容を読むと、
不確実性の時代の幕開けに、まさにタイムリーな作品。
これまで歴史の表舞台に力をもってきた秩序がゆらぎ、沈まされていた「歴史なき民」の姿が、感情が浮上する。
現代社会は今どんな歴史の流れの中にあるのか、そして私たち個々はどこへ向かおうというのか…。
この変化の時代を見つめる目をもってこの作品を読むと、深い意味が出てくるけれど
そうした目で読まなければ、文学オタクの作品ともイマサラの反旗の作品とも読まれてしまうだろう。
今も、田中宏輔さんの『全行引用詩』への敬意は変わらないし
この作品は、【形式】で見ると
>作品全体としては、田中宏輔さんの『全行引用による自伝詩』の、独創的な小説風解体新書ヴァージョンという印象。
だと思っているけれど、
【観】ということでは、全く意味は異なり
片や(作者の知の操作による)秩序の顕在化であるのに対し、
この作品は、ぎゃくに(これまで知の操作により共同化されてきた)秩序が幻想にすぎず、手元に存在するのは詩歌にうたわれるような感性の肉声だと(知に)訴えている。
これからの不確実性の時代に、詩の在り処を示唆する秀でた内容とアプローチだと
私は思いました。
(それだけに、詩文体にも一工夫あればなぁと思いました。デザインの工夫とは別の話で。)
↑
濡れ睫毛、読みた〜い^^ ('17/01/13 22:05:32 *2)
- 中田満帆 :
澤あづささんへ
今更ですが、あけましておめでとうございます(当方漏斗胸の手術を受けました)。スレッドの流れや書き込みをちゃんと読んでなかったですね。わたしの作品──もう6年もまえ──に言及してくださってありがとうございます。あれを書いているときは詩で培った表現や文体を小説で活かしたいというのが、作品の意図でした。
最近、好ききらい以前に、教養や素地が浅く、どう読んでいいのかがわからないことが多いです。特に最新の作品については。とりえず賞にむけて小説と写真をやりたい。 ('17/01/28 11:37:20)
- 澤あづさ :
▼いすちゃんへ。
⊂(;ω;`っ)三(つ´;ω;)っ
身辺ごったごったにかまけレスレスはなはだ遅れごめんよー。選考結果も出たし余裕をもって、せっかくだから長話する。
※このレスレスのメインは「余談」で、ほかは重要性がきわめて低いので、なんならすっ飛ばして「余談」から読んでね(・∀・;)
*
不確実性っつうか決定不可能性っつうか本作は、差延(散種はつまり差延なんだ、、、)というポスモで大人気すぎてむしろアホの代名詞みたいな扱いになってる概念を、自分にとって最もわかりやすい比喩で実践したらこうなったというものだ。「この作品はそういう作品です」という趣旨が、決定稿の【いま「おもむろに」と「すべからく」は本当に読まれたのか?】のくだりにより、目立ちすぎない範囲でアピールされたのならうれしい。
言うまでもなく、社会は無秩序では成立しないわけだが、その秩序を成立させる思想はことごとく「必要」があって創作されてきたので、「必然」的に発生したものなどありはしない。たとえば江戸時代の穢多非人のどこにどう、かれらの穢多であり非人であるという確証があったのか? 必然性も妥当性もありゃしない、社会に必要と判断されたから敷かれた政策というだけで、被差別者は「いさえすればだれでもよかった。」魔女狩りにはその真相がより明瞭だと思う。────と、当事者でないからいまわれわれは客観視できる。
しかしそうやって歴史を客観視し、自己を相対化してるつもりの現代知識人だって、似たりよったりの行為を免れてなどいない。それだけ差別には(根拠がないのに、むしろ根拠がなければこそ)「需要」がある、その需要は結局のところ「必要だという思い込みへの執着」に過ぎない。そういうことが、聖書の失楽園にも、仏教の法執にも、ガタリの機械状無意識にも示唆されていると思う。わたしにとっては、差延を表現するのに最もわかりやすい事例だった。
*
話材に穢多非人を採れば、そのへんわかりやすくなったのかもしれないが、まだ現存していて当事者の実在している問題を、軽率に扱うことはできない。だから魔女狩りを採った。「話材はありさえすればなんでもよかった。」という表現の話材には、適切と思ったのよね。なにせ日本が登場しない話なので、現代日本人には客観視が容易だろうと。
ところがやっぱり魔女狩りや失楽園は、綾波レイや渡辺淳一のみたいな既存の創作物により、「もはや本題と関係ない脱線」ばかり広く知られてしまっている。だからその本題を引喩する作品も、無関係な誤解を招きやすい、今作に限ってこれは想定内だった。「読者様が引っかかりやすいと思しい話材」で意図的にミスリードし、「読者様に語り手の曲解を追体験していただく」のが目的だったということだけどもね。
読解を希望するのなら、まず作品が「質問」しないと、だれも回答しようがないよねって、年末唐突に開眼したのだ。いままでわたしは、詩において「設問」は野暮だと思ってた(自分が詩を読むぶんには、自分で問いを立てたいと思うからだ)が、このスレへのご反応から考えが変わったのだった。そこで決定稿に挿した「設問」が、【いま「おもむろに」と「すべからく」は本当に読まれたのか?】というわけだ。効いてるといいなあ。
▼余談
ところで、6月初稿をなぜ書いたかって、いすちゃんにお話したっけ? このメロンパンナちゃんネタを本当は、例のさんざいすちゃんのお世話になった7月『ひふみよ。』に使う予定だったってお話よ。
『ひふみよ。』に使った【花から生まれ/女からは生まれなかった】ブロダイウェズが、どマイナーすぎ扱いにくかったので、文学極道では話材を差し替える予定だったのだ。それで思いついたのが、【花から生まれ/女からは生まれなかった】ったらメロンパンナちゃんもそうだよね。と。
当のブロダイウェズが結局、いすちゃんに指摘してもらった方向でまとまったので、メロンパンナちゃんを別個に扱うことにしたわけだが。「だれでも知ってるネタのほうが、比喩としてわかりやすいはずだ。」という考えは、どうやら大きな誤解だったね。「あきらかにどマイナーなので、詳しく説明せざるを得ないネタ」のほうが、わたしには適していることがわかった。これが去年文学極道で得た、最も大きな収穫であった。
*
ともあれ本作は、文体にせよ形式にせよ修辞にせよ話材の選定にせよ、この話材ではこれ以上もこれ以外も思いつかないという領域まで、自分としては練った。こいつが優良とれたのはとてもうれしい。先述の通り、わたしの4月、6月→12月、7月のは、自分の脳内で散種的読解三部作「アンチ・エレクトラ」という題名がついている。その三作の優良でもって、去年の課題を完遂したということに便宜上する。
今年は、「わたしの書きたいのは『よい詩』ではなく『妥協のない表現』だ。」という、年末の決定稿で開眼した真相に忠実でありたい所存。濡れまつ毛は小説に書いてるけど、脱稿予定がないため文学極道には出せないのだった。そんなわけで、今年もよろしく☆ ('17/01/29 22:49:45)
- 澤あづさ :
▼中田満帆さんへ。
こちらも身辺にいろいろありまして、旧正月すら過ぎましたがおめでとうございます。風の噂でなにやら聞きました。さっそく小説を読ませてください。
本作の読みにくさの主因は、「設問がない」(※決定稿ではそれに準ずるものを加筆しました)ので「回答しにくい」という点にあり、それは読者様の教養とかいう以前の問題であると、作者の側では結論しました。本作がそのような文章になった理由のひとつに、「詩」という形式への拘泥があったので、ことしはむしろ小説の作法を重視して詩を書きたい所存です。中田さんの6年前小説の逆パターンですね。あんな魅力的な文章、わたしには到底無理だけど!
わたしも趣味で小説を書いてるので思うのですが、小説書いてると(特にそれを筆削してると)いろいろ余るでしょ? 少なくともわたしは、話材も場面も、脱線したのが余りまくりますよ。その余ったのを詩にして、文学極道に出すという計画でどうでしょう。とにかく、読ませてください。ではまた! ('17/01/29 22:53:17 *1)
- 中田満帆 :
過古の二作についてはPDを三浦氏に渡しました。どちらの実体験の土台+虚構です。いま考えているのは自伝的なものです。じぶんの作品のよいところあわるいところが具体的にわからないのでとりあえず書いているというありさまです。 ('17/01/31 16:33:01)
- 山田太郎 :
>澤
>仏教はお釈迦様と法華経以外全員、成仏の条件に男根を挙げてるそうで、
ま、あんたのデタラメな漫談をいちいち相手にするつもりはなかったが、
あんたが自称天才(卑劣)詩人のところで批評をするというのなら、
仏教については、わたしの出自が出自なものだから、ひとこと念を押しておくね。
あのね、あなたの上記のようなアホなはなしが通用するのはここくらいなものだよ?
仏教解釈の問題じゃなく事実として間違っているんです。
じぶんが専心している分野についてあまりはなしたくないのだけど。
成仏の条件だの、男根だのって、もうすこしちゃんと基本的な仏教の知識を
かんたんに調べてからものをいってほしい。
たとえば、
浄土真宗では「すべての衆生は、すでにして救われている」んだよ。
真宗の教えは「浄土三部経」といわれる「仏説無量寿経」、「仏説観無量寿経」、
「仏説阿弥陀経」を基に展開されているわけだが、
この経典にはあんたのいう「成仏の条件」なんかひとつもない。
(あるとすれば、ただひとこと「たすけてください(南無阿弥陀仏)」と称名を唱えることくらいかな)
男でも女でも善人でも悪人でも子どもでも老人でも、ただひとこと心のなかで手を合わせて念じれば、
だれでも救われる(成仏できる)。
それが、仏教というものが最終的にいきついた場所なんだよ。
ここから先は、もう仏教そのものが解体されてしまう。そういうところまで
仏の教えはこの島国の一僧侶によって、はてのはてまで考え尽くされてしまった。
(親鸞は伽藍(寺)も仏像も経典も修行も否定したわけで、いまの真宗各宗派は
そういう意味ですべて
親鸞の教えに背いているわけですが)
そもそも仏様(阿弥陀如来)が存在するということ自体がわたしたちがすでにして
成仏の条件を満たしていることの証明であるのだから、
そんな思想を体現した仏教(浄土三部経)に男根なんて問題でもない。
よって浄土真宗には尼はいない。女の人でも僧侶になれる。真宗では女のお坊さんも
男のお坊さんも対等に仕事をしているよ。
仏教についてはシロウトの人でも知っているこの程度の知見においてわけのわからない
デタラメをふりまいているのだから、あんたのご自慢のフロイトだっけ、
あるいはおフランスの思想にしろ、どれだけわかっているのか、まったく眉唾ですね。
もうすこし、きちっと勉強しなおしたほうが良いんじゃないの?
lalitaごときを相手にするのなら問題はないだろうけど。 ('17/02/05 04:46:29 *25)
- 澤あづさ :
▼中田満帆さんへ。
風の噂のが掲載されたのかされてないのかさっぱりわからんのですが、とにかく風の噂のは、わたしの大好きな例の二本なんですね。旅路のほうは文学極道の別版しか再読できてない状況が続いているので楽しみです。ちなみに冷蔵庫のほう、再読したついでに「これは誤記であろう。」と思ったとこぜんぶチェックしてあるので、校正がご入用になったら御用命ください。いま身辺ごったごたで、ネット上の活動をなにひとつできてないのですけど、楽しみにしています。 ('17/02/05 15:12:11)
- 澤あづさ :
▼山田太郎さんへ。
わたしがそこで言ったのは、仏教経典解釈の歴史的な問題(つまり釈迦の教えにない概念)である「女人成仏/変成男子」です。
http://h-kishi.sakura.ne.jp/kokoro-529.htm
浄土真宗の「往生即成仏」は、わたしが上記で挙げた「成仏」の概念それ自体を否定しているわけでして。それを根拠として、変成男子の思想や物議を実在しなかったかのようにのたまい「デタラメ」呼ばわりなさるとは、あなたの所知障も大概ですね。
まあ、わたしが思うに、人間は知者も愚者もことごとく凡夫です。(だから悪いとは言っていませんので誤解なきよう。)「わたしはあなたよりフロイトを知っている」なんてことを、フロイトに興味ないかたにわざわざ説明する行為には、自己満足以外の意義が皆目ありません。ちなみに本作の趣旨はフロイトではありません。
B-REVIEWは、確か詩の投稿サイトのはずで、批評投稿のサイトではなかったと思います。B-REVIEWのサイトにわたしの名前載ってませんけど、なぜB-REVIEWの選者でないわたしに、B-REVIEWの選考(批評)の話をするんです? よそのサイトの報道は、現物を確認し事実に則ってしてくださいね。 ('17/02/05 15:13:59 *1)
- 山田太郎 :
おもったとおり話にならない。
それと、おれが「専心している分野のことはあまり語りたくない」
といったのは、上から目線じゃなく、何十年ものあいだ、
考え詰めている分野の話題をここで語ってもし間違ったことをいったら
恥ずかしいということもあるのでね。
じぶんで恥ずかしい思いをしたくないからあまり専心していることには
触れたくないということで、
おれがだれかより偉い、凄い思想をもっているとは露ほども思っていない。
ただ、澤さん、あんたとは話にならない。
論理も展開の仕方も内容も、こと仏教に関してはむちゃくちゃだ。
よって、今後は仏教の話題はこちらからはあなたに振らない。
あなたのような人を相手に批判したわたしが間違っていた。
どうもすみません。お相手するのは勘弁してください。
*「お相手するのは勘弁してください」を追記しました。 ('17/02/05 19:55:38 *2)
- 田中恭平 :
こんにちは。
仏教に顕著だけれども、各々の時代の影響を受けて
それは政治、例えば権力者の融通が効いて真理、いやオリジンも
へったくれもなく、反対に柔軟にその様式を変えている例が
例えば漢時代の仏教の弥勒菩薩信仰など。
当時の権力者が女性であるということから
当初まるでナザレイエスのようだった弥勒の仏像から非常に女性的な曲線に
ある時期からガラッと変わっていく点が面白い。
それはチベットの端から中国を経由していく過程で変わっている。
密教の神々はその描写されるところ非常に男性的野心に満ちているけれど
観世音菩薩に限ってはまるで女性ではないかというイメージを日本人でも
もっていると思う。
ただ、それが覚者でなく、菩薩にとどまっているところに
ある種のヒエラルキーを感じないでもない。 ('17/02/06 09:24:57)
- 田中恭平 :
蛇足。
やはり澤氏と山田氏のやりとりを見ていると、仏教を純粋な信仰として捉えるか
もう一つは雑学も含めて楽しんでしまう、ある種サブカル的な扱い
そこに齟齬があるように思うのだけれど
凄い失礼な言い方すれば、詩とか俳句にもこれは顕著で詩を生き方と直結して
考えるか、或いは文芸っていうのかな、サブカルチャーアートとして捉えて
「ねぇ最下タヒ読める?」「俺は駄目だわ」みたいなやりとりが興る
ここは芸術としての詩を発表する場所だから、いや、このやりとり
以前にもあったかもしれないけれど、第二芸術論じゃないが
結局ブンゴクというのはサブカルチャーアートか、または現代詩手帖の購買に
裏側で協力しているみたいな、そういう場なのかな、とここに書いておく。
絶対に面白いのはサブカルチャーアートとしてのブンゴクなんだけれど
最近の投稿が何か低調に向かっているような気がしたので。
重苦しいけれど、実存な詩をさ、また読ましてちょうだいな。 ('17/02/06 10:28:10)
- 田中恭平 :
なるほど、
・・・・・・親鸞という名はもう日本人の僧侶の名ではないのだが
真宗というとこれは世界教な側面がある。
ソースがないのだけれど、jyodosinsyu は zen と並んでカルト認定を
欧では受けていたと思います。
なぜカルトかというと、その破戒ぶりだと思うのですが
多分澤氏はそれとは違ったオリジンな仏教信仰を俎上にのせている。
その齟齬かもしれません。 ('17/02/06 17:40:27)
- 中田満帆 :
澤あづささんへ
三浦氏にはちょいと恩義があったので、短篇ふたつ提供しました。当方としても掲載形式を詳しくチェックしておりません、現状は。校正についてはやはり印刷しなくてはなかなかまちがいを見逃してしまいますね。わたしは澤さんの小説が読んでみたいです。 ('17/02/06 22:40:18)
- 田中恭平 :
マニアックなことを書いたことはご留意願いたい。 ('17/02/07 08:27:55)
- 田中恭平 :
ソースがありましたので貼っておきます。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%94%BF%E5%BA%9C%E3%81%AE%E6%96%87%E6%9B%B8%E3%81%AB%E3%82%88%E3%81%A3%E3%81%A6%E3%82%BB%E3%82%AF%E3%83%88%E3%81%A8%E5%88%86%E9%A1%9E%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%9F%E5%9B%A3%E4%BD%93%E4%B8%80%E8%A6%A7 ('17/02/07 08:40:29)
- 田中恭平 :
(笑)
ヤフー知恵袋の解答と同等のいちゃもんだったので笑ってしまいました。
失礼しました。 ('17/02/07 10:36:02)
- 澤あづさ :
▼田中恭平さんへ。
このコメ欄での齟齬について、丁寧にまとめてくださりありがとうございます。おっしゃるとおり、わたしの仏教思想に関する関心は、その起源すなわち釈尊と、そこからの伝播の歴史に向いています。浄土真宗に限らず、日本の宗派の慣例それ自体には関心がないので、信者のかたとお話すれば、もちろん甚大な齟齬が生じるでしょう。
たとえば、折口信夫を読み日本神道や琉球神道に興味を持った人が、やがて日本神道の信者となる蓋然性は、あきらかに低いです。教養として興味深いことを、信仰に足ると判断する人が、現代の環境ではまれでしょう。なぜなら「日本神道を知るためには、ほかの宗教との比較が必要だ。」という、科学の原則(疑問と客観視と相対化)が浸透しているからです。
わたしの仏教思想に関する関心も、「知る」という教養の範囲に留まっており、信仰のために仏教を学ぼうという意欲は、おっしゃる通り皆目ありません。
*
余談ですが本作は、わたしがブッタガヤの各国仏閣を見て「日本の仏教ってほんと異常だなー(※だからと言ってタイのが好きだとはもちろん思わない)」と痛感したり、久高島のイザイホーなど調べ「本地垂迹ってほんとめちゃくちゃだなー(※だからといって皇室神道が好きだとはもちろん思わない)」と痛感したりした経験則にも基づいています。
にもかかわらずわざわざ、日本の風土から遠いキリスト教の異端審問を話材に採ったのは、皇室もああいう時流ですし、神道や仏教を客観視・相対化しがたい日本人が、文学極道にもいるだろうと考えたからでした。この判断は結局、やはり適切であったと、いまは思っています。
そのような、作品と同じスタンスで、このコメント欄にも臨んでいました。さまざまなレッサーとのあいだに齟齬の生じた理由はそこにあるのでしょうし、わたしの責任ではない(かれらの問題を提起したのはかれらであり、わたしにはかれらの主張の説明責任がない)と思いますので、わたしの側では噛み合っていない会話の継続を遠慮したい所存です。
*
しかし、各国カルト指定の資料を久しぶりに見ましたが、やはりフランスは図抜けて厳しいというか。どうにも異端審問の古色が蒼然という悪印象を、個人的に払拭できませんな。。。
※わたしは以前、フランスでのみカルト指定されている某キリスト教異端(十字架、三位一体、地獄すべて否定)の布教を、かなり深いところまで聞いたことがありまして。十字架と三位一体を「聖書に根拠がないので信仰しない」とする見解にだけは(ほんとそれだけだったのだけど)感心したのでした。フランスではそういうのも、「無根拠であっても正統派の教義には盲従するのが当然である」みたいな理屈で、異端審問にかかってしまうんじゃないかという不安があり、正直ちょっとイヤな感じがしているのでした。あきらかに偏見です。
それにしても、浄土真宗の仏語訳が「Shin Boedhisme」だったとはたまげましたね。浄土真宗は浄土宗の真宗であって、仏教の真宗でも新宗ですらもないっつうか、浄土宗は平安末期の新興宗教であって、原初仏教とは無関係と思しいから日本史上の出来事にしか関心を持たなかったのですけど。それもわたしの信心が足りないがための誤解だったのでしょうか。以上、サブカル的な話運びと自分では思っている話でした。 ('17/02/10 21:48:15)
- 澤あづさ :
▼中田満帆さんへ。
B-REVIEWの掲示板の魅力は、ネット詩壇全般が対応できていない部分にあると思っていたのですが、どうやら従前のステキな掲示板は廃止され、文学極道より制限のきつい(いや動作が不安定なのか?)新掲示板が採用されたようですね。中田さんの小説もとりあえず、某所のと同じプレーンテキストで表示されることになるのでしょう。確実に、プレーンが最も美しいと思うので、最もよい環境が提供されそうですね。
もとより作品のウェブ公開は、大手の賞への応募資格を放棄する行為でもあり、根本から是非を問われると想像します。それをあえてやるなら、ウェブの利点を追求したいと思うのが自然でしょう。その「ウェブの利点」をどこに求めるかが、サイト運営方針の分かれ目になるのでしょうが。
中田さんの小説には、わたしが勝手に実験したところ、「スマホ縦画面を意識してHTMLを駆使したほうがよいと一見思われる部分」や、「そう思って実際にそのHTMLを表示してみると、びっくりするほど見映えが悪い。」とかいったことがたくさんあります。身辺が落ち着いたら、そのへんゆっくりお話させていただきたいです。
▼余談
わたしの小説ですが、力を入れているのが内容でも思想でもなく修辞、つまり見どころが話運びにしかないという邪道なので、わざわざ公開する価値があるかどうか。。。そもそもHTML不可環境では表示できない代物です。たとえばいま着手してるのは、主人公が秋田弁でして、秋田弁にたっぷり残存している古語・漢語・仏教用語の豊かな含意を噛みしめるという試みなので、当て字なしでは意味がわからない=ルビが不可欠という具合です。
「大概(てげ)でね」「容易(よい)でね」くらいなら、当て字で意味が充分にわかるが、「案(あ)ちこどね」は単発では厳しい。「徒然(とじぇ)ね」<さびしい>「本地(ほじ)ね」<まぬけだ>「莫妄想(まぐもぞ)野郎(やろ)」<寝言こいてんじゃねーぞこの野郎>となると、語源が高度すぎるため当て字を軽々に読ませるのも問題だ。────というようなことを、リア友との合評(※文学極道のとはぜんぜん違って、添削と代案がメイン)によって明らめるのが、わたしの最近の創作活動なのでした。やはり文芸にも、リアルでないと楽しめない交流があり、いまはそちらに関心が向いています。
身辺ごったごたでなかなか時間が取れず、取れた時間はリア友の小説への酷評(※文学極道のと違って添削と代案なので、スゲー時間かかるのです。。。)に当てなければならないというわけで、ウェブ出現率がすっかり下がりました。しかし中田さんの小説のことは忘れていません。必ず読みに行きますからね。 ('17/02/10 21:53:26)