街路樹の先に、無数の靴下が垂れ下がってて、俺はその真ん中、ヘッドフォン耳に突っ込んで、なるべく他人の呼吸に触れないように坂道を歩いて下っていく。焼けた杭が道路の左右に突き刺さって悲鳴をあげ、芳しい春の香りがラーメン屋の軒先で腐っている。
坂道には教会があって、俺は胸に林檎が入った紙袋抱えて、踵を履き潰したバスケットシューズ、ペッタンペッタン言わせて歩いてる、子どもはみんな車のタイヤにねじ込まれてクルクル回ってるし、鳥は軒並みアスファルトに嘴から突き刺さってて、パチンコ屋からは洪水みたいに玉があふれ出し、どいつもこいつもドル箱でそいつを掬うのにやっきになっている。
「ねえ、なんであなたは上下さかさまなんです? 」
なんて聴かれても、おれには相変わらず答えようがなく、俺は大事な林檎を取られないようにしっかり胸に抱いて、ヘッドフォンの音量をマックスにしたのに一向に街は静かにならない。路上喫煙の取り締まりは激化して、鞭打ち刑が採用された旨を親切な通行人が教えてくれた。結局のところは
「なのに私は染色体が三本足りないんです。鳥に持ってかれちゃったんです」
とか言って、俺の林檎を奪い取ろうと走りよって来たけれど、残念ながら上下が逆だったので俺の胸元までは手が届かなかった。
質素なプロテスタント教会のガレージにはスカイブルーの爆撃機が停まってて、そいつはエンジンの匂いがとても素敵で、俺はそいつの尾翼に林檎を一個置き去りにしてみる、すると神主だか神父だかわからない奴が走り出てきて、「林檎がメタファとして機能してますね」なんて言いやがった、俺はめんどくさいのでヘッドフォンをそいつにガチャっと嵌めて、音量をマックスにしてみるが、そいつもやっぱり上下逆さまだったので、素晴らしいロックは下半身にしか響かない。
音楽が響かなくなると、俺の耳からは無数のきしめんが飛び出してきて、税務官やら警官やら自衛官やらが寄ってたかってそいつを啜ろうとした。真っ直ぐに落ちるきしめんは三分ほどで打ち止めになり、それが食い尽くされるのにも五分とかからず、俺は相変わらず靴擦れが治らない。
俺は真っ直ぐ坂道を降りて、平和公園のベンチに座り、噴水の前で流しのウッドベースに聞き惚れた、Cの次にBm7が来るくらい良い演奏だったのに、ウッドベースの中にはみっちりと子どもが入っていて、全く喧しくてたまらない、マイナーコードが響く度にソプラノの不平不満が立ちこめ、いつのまにか俺は単音だった。
演奏が終わると、無数の神父が駆け足で公園をよぎり、空はどこまでもスカイブルーで、その中から真っ赤な林檎が一つ落ちてきて、やっぱり爆撃機は物凄い音で噴水に突き刺さって、俺はここしかないと心に決めたが最後、腹式呼吸を繰り返して高らかに歌い、そこいらじゅうのさかさまに林檎を配って歩いた。おい、さかさまども、と文学史的大演説を一丁かましてやろうとしたが、林檎のメタファは上手に機能せず、割れたウッドベースのクソガキどもに俺の大事な金髪は片っ端から抜かれ、そいつらを一人ひとり正座させてブン殴ってる間に爆薬に火が移り、吹っ飛ぶさかさまに最後の林檎をダンク・シュート。
俺は空っぽになった両手ぶらつかせながら、また坂道を下っていった。そろそろ新しい靴を買わなきゃいけない。
- ROM :
こんにちは。
林檎の役割が読みとれませんでした。
勝手に読めば、最後の「新しい靴」には、次の生活への手段というか道、
という意味を感じましたが。 ('06/04/27 20:36:11)
- Nizzzy :
ただの予告ですが、そのうちレスさせていただきます。面白いです。 ('06/04/27 22:25:17)
- ケムリ :
ROMさん 「林檎」は、メタファとして機能してませんから(笑)というのは冗談ですけれど、読めるように書いてはいません。むしろ、これを一点読みされると、詩の意味が無くなってしまうような気がするんです。ぼくは、現実をエフェクトしてそれが結果的にぼくの内的世界(望みを言えば、その共有)になるように書きたいんです。だから、現実に繋がっている部分は、ほんのちょっとだけ根底にあればいいわけで、なるべく見せたがらないんです。そのくせ、読み取って欲しいなんて感情も無いわけじゃないんですけれど。「新しい靴」に関しての考察は、完全に当たってます。レスありがとうございます。
Nizzzyさん 楽しみにしています。ありがとうございます。 ('06/04/28 11:47:25)
- 軽谷佑子 :
ケムリさん、こんにちは。
坂道の脇に教会と幼稚園があって春はにぎやかしい、
という風景が毎日の通り道にあって、一読してちょっと驚いたのですが、
わたしのみているものとは関係なくリアルな風景なのだろうし、
イメージをむすぶというよりはイメージが風景にねじこまれていく作品なのではないかと思います。
映画ではなくミュージッククリップのような。歌詞とイメージがあって、でもパフォーマンスも
プレイヤーもみせなきゃいけない、
>坂道には教会があって、俺は胸に林檎が入った紙袋抱えて、踵を履き潰したバスケットシューズ、ペッタンペッタン言わせて歩いて
>る、子どもはみんな車のタイヤにねじ込まれてクルクル回ってるし、鳥は軒並みアスファルトに嘴から突き刺さってて
いや、かっこいいっすね。
私はこういうようにはいけない。音楽がかかっているところで歩けないんです。
現実をエフェクトする、
という感じはとてもよくわかります。
ただ、この作品に関してはエフェクトされた音がとても聞きやすく、
いつになくケムリさん個人の姿が見えやすくなっているような気がします。
そのぶんケムリさんの定型(ことばがわるいですが)の作品群よりは、
受け入れやすいものになっているのではないかと思います。 ('06/04/28 12:51:57 *1)
- ミドリ :
こんばんは、ケムリさん。
ケムリさんは、まだ若くて。才能もとってもあるので、人心をかっさらっていくような詩を、ビシバシと。書いてもらいたいものですが。
この詩を読んでいて、友人の、デザイナーの女の子の話を思い出しました。彼女は父親が貿易関係の仕事をしていて、幼少の頃はフィリピンに住んでいたそうですが。
本職のデザインの仕事に関しては、自分の表現したい世界を描くのではなく、クライアントのニーズに、忠実に答えること。それを第一のポリシーにしている。
でも時折、こう語ることがあって、日本人の常識の中で暮らしていくのが、とても窮屈に感じて辛くなる。そういうんだね。
翻って、ケムリさんの描く詩というのは、おそらく、日本の文化や制度が持つであろうシンボルの体系があって。そこから類推されるものや、連想といった、いわゆる世間を形作って「常識」を。メタファーを操作することで、「横滑り」させていく。
そういう「狙い」が片隅にでもあるんじゃないかなって、思ったりもするけれど。
「たかが言葉で作られた世界を、言葉で崩せないはずはない。」そう言ったのは、確か寺山修司さんでしたか。
そういった試みは、今も詩やそのほかのの世界もで、散々やらかされてきていて。それが、ある種の人に受けたのは、上記の僕の友人の「つぶやき」に通低している「問題」なのかしらね。なんて思うこともある。
しかしそれは結局のところ、奇形化したした人の形しか生まなかったのではないか。
僕はそんな気がします。
この詩には、そんな対世界立った時の、ケムリさん自身の、ある種のインナーイメージみたいなものが、空蝉。Tシャツのように、脱ぎ捨てられている「だけ」ように感じられて、「不毛」その一語に尽きるような感じさえします。
ケムリさんは、クリスチャンだそうですが。あまり日本の社会では、なじみのないキリスト教。その信仰へ至るの経緯は、よく知りませんが。この詩の中にも、「プロテスタント教会」って言葉が無理やり(?)文脈にねじ込んでありますが。笑
ちょい、興味のあろところですね。
僕は子供ころから、仏教ですね。仏教ってのは、紀元前5世紀、ガンジス川流域で生まれたもので、その時代。先住民族のドラビダ族を、アーリア人が支配するためのカースト制度があって。ちょうどその制度が緩み始めたのがその時代であり。
自由思想家たちを、多く輩出した時代でもあった。仏陀もその中の一人だった。
今、巷では、希少な生の体験談や、寸鉄培われたノウハウに耳を傾ける。そういうものを求める傾向が、世相があるような気がします。
そういう「場所」でケムリさんの詩が、何を語り始めるか。語りうるのか。アイガーの北壁を狙う、ケムリさんのセンスと勘に期待を寄せてみましょうか。笑 ('06/04/28 21:45:41)
- ケムリ :
かるやさん 一気に文体を変えたことで、イメージの飛び石の数を増やして、距離を縮めてみました。速度感は増したのを実感できて、しばらくはこういう作品を書いてみようかな、なんて思っています。「イメージが風景にねじ込まれていく」作品です。まさにその通りだと思います。ミュージッククリップ的な書き方も、本当に当たってる。(関係の無い話ですが、ラルクアンシエルのミュージッククリップの出来は地味に凄いのです。ラルクはキライでも、ミュージッククリップは非常に参考にしていたりします)
定型が行き詰ってしまったんです。自分の技を、殆ど全て法則と形式に置き換えることが出来るようになってしまいました。最近の詩は、殆ど全てそれに則っただけのもので、これはもう、死んでしまった表現なのかもしれません。書き続ければ、もっと表現は練れるかもしれないし、技術は上がっていくかもしれないんですけれど、どうにもぼく自身が納得いかなくなってしまったんです。
実験作が受け入れてもらえてとても嬉しいです。ありがとうございます。 ('06/04/28 22:03:18)
- ケムリ :
ミドリさん ぼくはクリスチャンではないです。クリスチャンだったというのが正しいですね。それも、クリスチャンの宗派を(クリスチャンと認めたくない宗教がスタートラインだったんですが)転々として、最後にプロテスタントにたどり着いて、そこにも結局居られなかったんです。
だから、自分の中でその部分は未だにブラックボックスなんですよ。基本的には無神論的、唯我論的立場を貫こうと思っていますが、整理はついていない。結構、生い立ちに関わってくる部分ですから、そう簡単にスッパリといかないんです。色んなことが絡んで来ますし、宗教っていうのは望む望まないに関わらず、色んな個人的ファクターの中心概念になってしまうんです。
ぼくは、社会に対して何かを言おうとかそういう気は全くないです。世界を崩す気も無い。世界はぼくにとって、崩す必要の無いものですから。ぼくは、自分の見たものを素材にして、それを世界性へとエフェクトする、そしてそれを他者と完璧に共有することが、一番の目的なんです。多分、世界は言葉でなんか崩せないですよ。そんな気がします。
そして、この詩は不毛な詩です。それは確かです。個人的な「不毛さ」にエフェクトをかけて、一つの作品に仕上げただけのものです。でも、ぼくは不毛な詩を一つの世界性へと持っていくことで、なんか楽になる気がするんですよね。レスありがとうございます。 ('06/04/28 22:12:23)
- りす :
こんにちは、ケムリさん。普通に考えれば「林檎」は梶井基次郎の「檸檬」とのアナロジーという気がします。また蛇足ですが、爆撃機の尾翼に置くというあたり、「昆虫の涙を塗っておいた」という有名な一文を思い出したりします。そういったものが機能しなくなった世界が、作品を貫く落下するイメージとか、さかさまというイメージなのかなとも思います。メタファを駆使したこの作品の中で「メタファとして機能してない」という言葉を使うあたり、結局、全てはメタファなんだと言っているようでもあります。そして最後に空っぽになる両手。新しい靴。全体的にかなり計算された作品だと思いました。 ('06/04/29 01:57:37)
- ケムリ :
普通に考えてもらって、その通りです(笑)初めてのスタイルの詩なので、原点に帰っているんです。もう一度、自分を取り巻くもの(あるいは取り巻いていたもの)を洗いなおして、ちょっと別の形で表現してみる。そんな狙いがあります。
タイトルを「ロード トゥ トーキョー」にするか、この題にするか悩んだんですが、今でも悩んでます。本当は、コメント欄でこういうことを書くのは反則なのかもしれませんが、自己露出の程度が上手く測れないんですよ。その辺、悩んでます。 ('06/04/29 21:31:49)
- 南無 :
隙間で語れよ。新聞記事じゃあるまいし。なっがい独り言だなー。ふやけちゃいますよ。びよーーん。 ('06/04/30 00:09:23)
- ケムリ :
南無さん 大変申し訳ないが、批評・批判・罵倒は真摯に受け止めますので、程度の低いぼくにもわかる日本語でお願いしたいもんですね。 ('06/04/30 01:19:45)
- ケムリ :
スレッドを上げずになんとなく宣伝。ブログ作りました。
未公開のをちょこちょこと置いてたりします。http://kemurigarden.blog65.fc2.com/ ('06/05/01 10:15:50)
- Nizzzy :
遅くなってすみません。
遅ればせなら、批評させていただきます。(そうとう長ったらしいですが)
> 街路樹の先に、無数の靴下が垂れ下がってて、俺はその真ん中、ヘッドフォン耳に突っ込んで、なるべく他人の呼吸に触れないように>
>坂道を歩いて下っていく。焼けた杭が道路の左右に突き刺さって悲鳴をあげ、芳しい春の香りがラーメン屋の軒先で腐っている。
一行目において「ヘッドホン」という、この詩を規定する決定的な語が登場する。聴覚を個人的な選択によって、外との関係性をある程度遮断する「ヘッドホン」。それは個人の特権的な行為でもある。彼は彼の遮断によってどこにでもいることができる。作者のコメントに、「『ロード トゥ トーキョー』にするか、この題にするか悩んだ」とあるが、それは「ヘッドホン」によって隔離された「彼」にとって、外界そのものの存在性が、その外に置かれるからである。「ヘッドホン」をつけた彼にとって、「ここ」はどこでもよい。「トーキョー」である必然性は限りなく失われる。「部屋の隅っこも宇宙の端っこも たいして変わりはない」のである。その意味で、この詩は「彼」のインナー・スペースそのものとして、ある。「他人の呼吸に触れないように」と書かれているのは、彼が「ヘッドホン」によって確立できた「彼自身」を「そこ」ではなく「ここ」に置くための「置避(とうひ)」である。
だが、聴覚を喪失させることによって、この詩の聴覚的な一角、「焼けた杭が道路の左右に突き刺さって悲鳴をあげ」もまた、作者のインナー・スペースにおける出来事として、詩的に貫徹されたイメージとして成立させることができる。
(「坂道を歩いて下っていく」という語句について、「東京詩集3」という本の、東京をめぐる対談にも「あがる/おりる」という考え方 があったことが思い出され、興味深い。)
> 坂道には教会があって、俺は胸に林檎が入った紙袋抱えて、踵を履き潰したバスケットシューズ、ペッタンペッタン言わせて歩いてる、>子どもはみんな車のタイヤにねじ込まれてクルクル回ってるし、鳥は軒並みアスファルトに嘴から突き刺さってて、パチンコ屋からは洪
>水みたいに玉があふれ出し、どいつもこいつもドル箱でそいつを掬うのにやっきになっている。
作品を通して使われている単語の象徴性は無いといっていい。といっても、それは「意味をなさない」のではなく「機能をなさない」のである。隠喩として展示されたどの単語も、それを表す記号としての態をなしてしていない。見る人から見れば、この詩は一見シュールレアリズムの作品のように見えるかもしれないが、シュールレアリズムではまだ言語の表象性といったものは保持されていた。この作品では、単語=記号の意味表象として、たとえそれがテクストどおりの隠喩として表されていたとしても、機能不全である。この作品は「シュールレアリズム」というよりはむしろ、ソシュール的な「一般言語学」に近い。この作品の「恣意性」、もしくは「言語体系おける差異的性質」といったものは、この作品を構成している語句と語句との間にあるのではなく、「ヘッドホン」と「彼」、「彼」と「外」といった、「彼」と「以外(または意外)のもの」との間の差異に見出されるべきである。
>「ねえ、なんであなたは上下さかさまなんです? 」
>なんて聴かれても、おれには相変わらず答えようがなく、俺は大事な林檎を取られないようにしっかり胸に抱いて、ヘッドフォンの音量
>をマックスにしたのに一向に街は静かにならない。路上喫煙の取り締まりは激化して、鞭打ち刑が採用された旨を親切な通行人が教えて
>くれた。結局のところは
>「なのに私は染色体が三本足りないんです。鳥に持ってかれちゃったんです」
>とか言って、俺の林檎を奪い取ろうと走りよって来たけれど、残念ながら上下が逆だったので俺の胸元までは手が届かなかった。
この詩全体には「上/下、左/右、回るetc..」といった空間的な配慮が見られるが、それはこの詩で表されたイメージではなく、作者自身に関わっている。彼は「置避」したがゆえに、インナー・スペースを空間として成立させなければならない。それはそのまま彼のアイデンティティーとして顕在化してくる。「ヘッドホンをし、歩く身体」、「僕の林檎」または「染色体」として。次項の「靴擦れ」は、そのような「身体」の意図的な確認であるといえよう。
> 質素なプロテスタント教会のガレージにはスカイブルーの爆撃機が停まってて、そいつはエンジンの匂いがとても素敵で、俺はそいつ
>の尾翼に林檎を一個置き去りにしてみる、すると神主だか神父だかわからない奴が走り出てきて、「林檎がメタファとして機能してます
>ね」なんて言いやがった、俺はめんどくさいのでヘッドフォンをそいつにガチャっと嵌めて、音量をマックスにしてみるが、そいつもや
>っぱり上下逆さまだったので、素晴らしいロックは下半身にしか響かない。
> 音楽が響かなくなると、俺の耳からは無数のきしめんが飛び出してきて、税務官やら警官やら自衛官やらが寄ってたかってそいつを啜
>ろうとした。真っ直ぐに落ちるきしめんは三分ほどで打ち止めになり、それが食い尽くされるのにも五分とかからず、俺は相変わらず靴
>擦れが治らない。
空間性とともに時間性もまた「三分、五分」というように、必然的に表されなくてはならない。そして、その「空間=時間」は彼にとっては「質」にとして感じられるものではなく、「量」として感じられている。彼の中で「持続」している「音楽」を分節し、それを「量」として表すため「音量」、「C、Bm7」といった語をそこに現在化(リアリゼ)させる。そのような行為は(「ヘッドホン」をすることを含めて)直観的に把握される「自分」、「以外(意外)のもの」に対する一種の「プロテスト」なのだ。そして、彼はそれを「プロテスタント」として「プロテスト」を二重化させる。
> 俺は真っ直ぐ坂道を降りて、平和公園のベンチに座り、噴水の前で流しのウッドベースに聞き惚れた、Cの次にBm7が来るくらい良
>い演奏だったのに、ウッドベースの中にはみっちりと子どもが入っていて、全く喧しくてたまらない、マイナーコードが響く度にソプラ
>ノの不平不満が立ちこめ、いつのまにか俺は単音だった。
ここに「不平不満」が刷り込まれてくる。それは「ベース(其体)」に介入している「子ども」と、「マイナーコード(不協和音)」として立ち現れてきた、この詩句を構成させている「彼自身」の差異からきている。だが、ここではむしろ「不平不満」というよりも「不安」といったほうがしっくりとくるのではないか?
その差異は(前述したように)「質」としてではなく「量」の程度として表されている。「単音」は「質」ではなく「量」としての「単一性」である。そのような「量」としての差異が、ここでは「彼」の存在性としてはっきりと顕になる。(もっとも「彼」はそれを感覚として感じているだけなのだが。)
> 演奏が終わると、無数の神父が駆け足で公園をよぎり、空はどこまでもスカイブルーで、その中から真っ赤な林檎が一つ落ちてきて、
>やっぱり爆撃機は物凄い音で噴水に突き刺さって、俺はここしかないと心に決めたが最後、腹式呼吸を繰り返して高らかに歌い、そこい
>らじゅうのさかさまに林檎を配って歩いた。おい、さかさまども、と文学史的大演説を一丁かましてやろうとしたが、林檎のメタファは
>上手に機能せず、割れたウッドベースのクソガキどもに俺の大事な金髪は片っ端から抜かれ、そいつらを一人ひとり正座させてブン殴っ
>てる間に爆薬に火が移り、吹っ飛ぶさかさまに最後の林檎をダンク・シュート。
>俺は空っぽになった両手ぶらつかせながら、また坂道を下っていった。そろそろ新しい靴を買わなきゃいけない。
「林檎のメタファー」が「上手に機能」しなかった理由。それは「林檎」が、この詩では「他人」との直接的な関係として表されているからだ。「林檎」は「彼」の(詩的)インナー・スペースにあって、唯一「他人」と共有している記号である(3、4項目を参照)。「ヘッドホン」をすることによって特権的に確立された「彼」のインナー・スペースであるが、そうすることによって「他人」との関係性は限りなく失われていく。3、4項目の「他人の声」は「ヘッドホン」をしている「彼」には届いていない。したがって、そのような「他人の声」は「彼の中の他人の声」なのであるが、「置避」した「彼」のあり方としては、そのような「他人の声」はパラドックスに他ならない。つまり「以外なものの、内なる(しかもそれとは違う)以外」という奇妙な関係が提出される。その媒介となっているものが「林檎(というメタファー)」に他ならない。その意味で、「機能せず」というのは、そのような関係の隔たりを、隔たりとして素直に表しているといえるが、ここで「彼」は再度「プロテスト」する。「吹っ飛ばし」「ダンク・シュート」してしまう。そうやって「彼」は「空っぽ」になり、次の「新しさ」へと向かう。
以上に見てきたように、詩としての一貫性は「ヘッドホン」し、「彼自身」のインナー・スペースをテキストに移行することによって見事に表しえているといえる。しかしそうするがゆえに、そこにおける根本的な存在性や他人との関わり(他者性といっていい)もまた、アポリアとして現前している。前者は作者自身に、後者は作品と読者との関わりにそのままトレースされるべき問題といっていい。そこから先は、作者自身がどうするのかを(一読者として)見ていきたい。だが、これらは作品を創る者すべてにおいて共通する重要な問題であることを、蛇足ながら言及させてもらいたい。
・・・・てな感じです。それでは、ありがとうございました。 ('06/05/13 03:30:42 *1)
- とうせつ :
小難しいことはよくわかりません。とにかく随所に惹きつけられる所があって、イメージの中に入っていくとRock的で楽しかったです。
そのまま読むと「理解できない」という部類の作品なんでしょうけれども、何にも眼鏡を持ち込まずに一緒になって見てるだけで楽しめましたよ。途中で疲れることがない、というのは素敵なことだと思うの。
そんな読み方じゃあいけないのかなぁ。 ('06/05/13 12:25:45)
- 苺森 :
耳をつんざくような騒々しい沈黙、褪せた雑音、ヘッドフォンから注ぎこむまだ熱失わぬ呼吸のような原罪の赤。
都会の死角を上手く捉えた描写かと。見事に決めるダンクシュートのような気持ちいい詩だった
あえてひとつ違和感があったとするなら「きしめん」だろうか。そこがいちばん浮いてみえた。奇をてらいすぎた感が否めない。もう少し安直でもよかった気がする。はじめに匂わせていたラーメンとか。
そこからなんだか東京が薄れていった私は
読み込みがまだ足らないかもしれない。でも心地好く読ませていただいた、ありがとう ('06/05/13 23:08:12)
- 良 :
なにが言いたいのかがわかりませんでした。 ('06/05/14 00:19:01)
- ケムリ :
Nizzyさん 読み手の深さが、書き手を越えているっていうのは、ある意味恥ずかしいことでもあり、嬉しいことでもあります。幾つかの部分、つまりぼくの思惑が届いていない数点を除いては、ほとんど完全な読みです。どのように読まれても構わないというのがぼくの基本的なスタンスで、完全な読みを求めることは無いように自戒しているんですが、それでもとても嬉しいものがあります。「林檎」の解釈を読み取って貰えるとは思っていませんでした。梶井のオマージュとして受け取って貰えれば十分な要素だったので。
とうせつさん 楽しんでいただけて幸いです。
ぼくは、自分の詩についてはどのように読まれても構わないと(基本的には)考えていて、読んでいただければとても嬉しいです。ありがとうございます。 ('06/05/14 01:06:01)
- ケムリ :
苺森さん きしめん、は悩んだんですけれど。奇を衒うというよりは、「それっぽく」なり過ぎるのを防ぎたかったんです。耳から飛び出す細いものならなんでも良かったんですけれど、どこか一つ外しみたいなものを入れたかった。上手くいっているかはわからないのですが、その辺はもう少し色々考えてみます。ありがとうございます。
良さん なにが言いたいか、ということはもちろんあるんですが、読み取れるように書いてはいません。(それでも、今回のように読んで貰えると嬉しくて、またその一面ちょっと悔しかったりもするんですが)ただ、伝わるものが無かったのは、書き手としては残念ですし、反省します。万人に伝わるものが、やはり書きたいですから。ありがとうございます。 ('06/05/14 01:10:14)
- 苺森 :
そうだったんですか。うぅむ。まったくわかっちゃいない私でもその辺は成功率の低い難しい賭けになってくるのかなと思いました。
外しや遊びといった変調のスパイスが土台のリズムを殺さず重なり、そのマイナーコード自身も存在感を譲ることなく全体とそれぞれの味を引き立たせ合えるいい仕事をするならひとまず大成功と言えるんでしょうか。ふむむ。
日本語わかりづらかったらすいません。思ったまま書きなぐってしまったけど
どこがどうとも言えないでただ「意味わからない」と野次飛ばすのは誰んだってできる。それならそうと俗受けしそうな文章を百歩譲って書いたところで陳腐だありきたりでつまらないだで終わるんだろうよ、わからないだどうの言うより先にわからない自分を問題視したか。
踊らされてる様を眺めて楽しむのが目的としか思えない、こういう感想しか書けない奴は。読み手が書き手へと書く文章にも読み手がいるってこと考えてほしい。間違ってんのかな私 ('06/05/14 06:10:44)
- tomo :
ケムリさん こんばんは。
なんとなくカフカの香り(たとえば『城』とか)がこの作品の底に漂っている気がしました。まずは感想まで。 ('06/05/14 22:29:11)
- まーろっく :
東京の虚妄さをせいいっぱい嘲笑している若者の気負いのようなものは感じられますが、荒唐無稽に終始しておりナンセンス詩としての出来は疑問です。東京を嘲笑する「俺」をさらに嘲笑する複眼的作者の視点が欲しいところ。とりあえず関町の交差点で青梅街道を横断して吉祥寺までぶらぶら歩きながら詩の構造について考えることまずは肝要かと。 ('06/05/14 23:49:37)
- ケムリ :
苺森さん 成功率は、低いですよね。でも、単語を選んでいく作業って、一番楽しい部分でもあると思うんですよ。そういうの、ぼくは好きです。失敗もしますけど。
tomoさん カフカはどうしても好きになれなかったんですよね、ぼくは。カミュは物凄く好きなんですけど。じゃあ、影響が無いかといわれればそれは難しいんですけれど。影響はあるかもしれません。ありがとうございます。 ('06/05/15 03:56:40)
- ケムリ :
まーろっくさん とりあえず、こういうのは卑怯だと思うんですけれど。ぼくは「ナンセンス詩」を書くつもりは全くありませんでした。この詩の根底にあるのは描写であり、世界性の共有という基本スタンスは変わっていません。「トーキョー」にはぼくの個人的事情があるだけで、その現実の街並みには関わりが無いんです。でも、もちろんそうとしか伝えられなかったのはぼくのマイナスポイントですけれど。もう少し、色々やってみようと思います。ありがとうございます。 ('06/05/15 03:58:27)