切り抜かれた白紙の上で 夕暮れの光が焦げている
林檎が置かれたテーブルで 夜の虫が息づいている
ゴムのピストルで太陽をおっことして
誰かの背中で新しい歌が始まっている
水気のない夜の生き物が
足の数を数えながら低く唸っている
指先弾いて終わった一日の
バスケットシューズの中に隠した言葉
生まれたことの無いあなたが スクラップ置き場で笑っている
風車小屋のわら屑から生まれるのよ なんて
主を忘れた野生の影が
街並みをどこまでも間延びさせていく
ページを繰って生まれた風が
オーブントースターの中で腐っていく
星空にくゆらせた指に
窓辺から飛び立とうとする若いシャツに
カンバスからこぼれたものたち
本当は絵が描けたら良かった
風船を渡す女の子の絵が
今はとても書きたい
靴箱の中で眠る 解き放たれた花束
限りない花弁はあまりに苦痛で
それでも 幸福だと
背中にぶつかった歌を齧る
花束を抱いた骸骨 肋骨の隙間
痩せこけた風が走り抜けていった
ジャンクドロップの色の一つ一つが
窓枠からこぼれはじめて
ロバがこっそり羽根を広げる夜更け
眠りをクロールする子ども達 部屋を誰かがノックする
ヘッドフォンを外してお気に入りの靴で
新しい歌が始まっている そこで ここで どこかで
- まーろっく :
何について書いているのか、まず主題が不明すぎる。タイトルからすれば
嫌悪の情で書かれているはずだが、メルヘンチックな言葉群から嫌悪を読み取ることはできない。新しい歌について?でもなさそう。
状況も不明。「ほんとうは絵が描けたら良かった」と言っている語り手と「生まれたことのないあなた」というのはどんな関係なんだろう。しかしそもそもふたりの関係が作品の軸になっているかどうかさえ怪しい。
夥しい言葉の群れを一つの世界として統べる強い主情を欠いているためにイメージがバラバラにぶちまけられている、そんな印象です。作品の雰囲気というものがない。 ('06/03/15 23:56:34)
- りす :
>新しい歌が始まっている そこで ここで どこかで
この一行が全てを語っているように思います。全てのイメージの断片が何かの「始まり」を予感させる印象です。この作品にテーマがあるとすれば、その点に尽きると思います。作品としての出来栄えには、あまり注意を払っていないような気がしますね。初めて読んだときは何だかさっぱり分からないというのが正直な感想でした。でも、読み返すうちに、
>花束を抱いた骸骨 肋骨の隙間
>痩せこけた風が走り抜けていった
このようなイメージが鮮やかな絵になり、
>カンバスからこぼれたものたち
>本当は絵が描けたら良かった
というような言葉が重みを持ってきます。
他のイメージも、面白いものが多いのですが、このような書き方をしつつ作品としての体裁を整えるというのは、かなり厄介な問題だと思いました。筋書きみたいなものを設定すると、それはそれで嘘っぽい感じにもなりますし。それは、さておき、ケムリさんのイメージの作り方が、明るくなったなという印象を持ちました。「ヘッドフォンを外して」とかね。今後の展開を期待しています。 ('06/03/17 00:29:15)
- ケムリ :
ログに落ちる前に間に合った…。すいません、返事が遅れてしまって。
私事で東京に引っ越しまして、今は上石神井の漫画喫茶から繋いでます。(かみしゃくじいって読むんですね。かみしゃくじんい、じゃなくて)
まーろっくさん これは、ひとつの素朴な疑問なんですけれど。作品に主軸って必要なんでしょうか。ぼくは、詩ってものは個人の世界性の提示、あるいは共有みたいなものだと思ってるんですけれど、世界に主軸ってあるんでしょうか。僕は自分の詩がどのように読まれるかは全く問わないし、どんな読み方でも出来るような詩が書きたいと思うんです。(ただ、それと言葉がバラケてしまうのは全く別で、これは単にぼくの筆力の不足なんですけれど。すいません、纏まって無いのは認めます)レスありがとうございます。
りすさん 始まりの印象と言うか、この詩の中で確実に読めるように書いたものは、日暮れから深夜までの時間の経過だけなんです。その先にある変わらない毎日と新しい始まり、深夜に開くイメージ、そんな感じのところが表題に懸かって来るんですが、これは正直な話理解されようと思っていないし、説明もしたくないので許してください。
イメージの作り方が明るくなったのは、色んなところで心機一転したからかもしれません。これからは、もう少し真面目に、丁寧に生きていこうと思ってます(笑) ('06/03/31 11:03:19)
- 一条 :
ケムリさん、こんにちは。
個人的に思うのですが、小説という形式を使った方がケムリさんが提示したい個人の世界性というのは、より明確になりそうな気がします(作者であるケムリさんにとって、もちろん読み手にとっても)。バラケた断片を、ひとつの作品として読み手に最後まで読ませてしまうのは、ケムリさんの力量だと思うのだけど、それが詩という限定された作品の中では、手馴れた手練手管だけがクローズアップされて、上手にまとめましたよねーって思ってしまうんですよ。なんか、もうちっとハレーションさせてもいいんじゃないですかね。強い光を強い光として描く筆力は、いつもすごいなあと感心しますが、現実は、強い光というのは、白くぼやけるのが普通じゃないですか、そういう「ぼやけた感じ」があれば、もっといいなあと思います。 ('06/03/31 11:56:12 *1)
- ケムリ :
一条さん 「ぼやける」ですか。その目線は無かったです。ぼくの場合、始点のイメージがまずあって、その集積として作品があって、どう切り出すか、あるいはどう重ねるか、そこにばかり腐心して来たので。一点の曇りもなく、っていうのがぼくが書いてきた感覚に近いです。
小説、書いてます。でも、詩と違って抑えが効かないんですよ。自分がモロに出てしまう。何作書き上げても気に入らないんです。自分の内的世界を描くなら、それは伝わる形で書かなきゃならないのに、小説に出てくるのはただの自分の外形でしかないんです。その辺、難しいです。詩の方が、シャープにアプローチ出来るというか。 ('06/03/31 13:23:41)
- 松島右京 :
各連ごとのイメージは、絵のように、それぞれ楽しめます。
ただ、ひとつの絵という視点が良いのか悪いのか意見がわかれるとしても、
たとえば、白紙のキャンバスにいろいろと投げ放たれたものを、読み手がどう受け取るか、というところで、なにかこうギュッと引き締めるものが欲しくなりました。基本的に読み心地は良いので、贅沢な意見かもしれませんが。 ('06/03/31 20:00:30)
- ケムリ :
松島さん それなんですよ。元来は、詩のために詩を書いていたわけじゃなかったんでそういったものもあったんですけれど。詩のために詩を書くようになって来ると、その辺が無くなるんです。まーろっくさんの言うとおり、中心軸が無いんです。問題は、ぼくにとって中心軸になるようなものが今のところは無いし、それが必要かすらわからないってことなんです。もう少し、色々やってみようと思います。レスありがとうございます。 ('06/04/02 17:45:00)
- ダーザイン :
作品として上手に纏まっているかどうかはさておき、この詩には中心軸はありますよ。ずっと書かれてきた「女の子」のイメージです。
>花束を抱いた骸骨 肋骨の隙間
>痩せこけた風が走り抜けていった
ずっと博物館の金色に輝く陳列物のように保存されていた少女は時々語り手と不可能な対話をするべく幻出してきたのだが、そこに風が通っていった。少女の像が時間軸の中で動き出す者であるべきだする明確な書き手の判断、心情の変異が見えるんだよ。
それで何故、 「アイ・ヘイト・イット」なのかというと、
>生まれたことの無いあなたが スクラップ置き場で笑っている
>風車小屋のわら屑から生まれるのよ なんて
と語られる、かつてと同じようにこのように書かざるを得ない亡い者を呪現しようとする者が味わう砂を噛む様な苦々しい不変の現実と、
>ヘッドフォンを外してお気に入りの靴で
>新しい歌が始まっている そこで ここで どこかで
と語られる、新しい世界、新しい関係を受け入れ、獲得することへの、アンビバレントな感情であろうと思う。
中心軸が無いというのは、中心軸に死者との関係が据えられていたからだろうが、「無は存在の無の顔だ」とハイデガーは言う。虚無ですら実は存在の暗い顔で、憎しみを覚える者も存在に抱かれた中心構造に絡め取られた存在者なのだろう。そのような否定神学的な構造から外へ出ようとしている様子が垣間見える作品でした。
>カンバスからこぼれたものたち
>本当は絵が描けたら良かった
>風船を渡す女の子の絵が
>今はとても書きたい
話者が、「今はとても書きたい」と言っている「風船を渡す女の子」は、「カンバスからこぼれたものたち」という言葉で亡い者を指すようにとりあえずこの連では見えるけれども、最後の2連で、強い痛みを伴いながらも、その関係の外が示されています。
ケムリさんの詩をずっと読んで来た者が感じることで、初見の人には辛いと思う。新奇なイメージを拾うことよりも、作品に構造を建て込むことの方が今必要なことじゃないかと思う。 ('06/04/08 06:57:21)
- 野本英舜 :
ケムリさんへ
野田 高梧氏の「シナリオ構造論」を読むことをお勧めします。
シナリオ作家向けに書かれたものと思われますが、単にそれに留まらず、優れた芸術論であり、詠む価値は十分あると思います。不滅のバイブルといわれてますしね。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/483201272X/250-6569056-8412255 ('06/04/08 15:01:09)
- atsuchan69 :
否定はしない。たぶんこういう詩があってもよいのだろう。しかし強さが足りない。作者はちゃんと食べているのだろうか? 心配なくらいだ。言っておくが「詩」とは文章力や技術的な腕力に頼って読者の感動をよびおこすものではない。あえて言えば「静かなる命がけの絶叫」である。僕の言葉が素直に届くかどうかは定かではない。ただこれは驕った詩人のことばではなく、あるひとりの「あなたの読者」の言葉として届いて欲しい。 ('06/04/09 00:33:28)
- ミドリ :
こんにちは、ケムリさん。
街の匂いと、生命の匂いが、ミクスチャーされていている、この場所で。そこにいま居る、埋没しがちな僕らが唄う、「新しい歌」そんな感じでしょうか。
ある「孤独」を抱え込む少年たち。
「ゴムのピストル」で太陽を落っことしてさ。「オーブン・トースター」の星空に、汗にまみれたTシャツを着替えるだ。
この辺りの、へもマッチョな雰囲気が醸す、酸っぱい青春の味わいが好いですね。
でもこう読んでると、ケムリさんの詩風は、フランス料理のような感じがします。素材よりもむしろ、調味料を生かす。だとすればこの詩は、あまりにも乱雑に、エスプリとウィットが皿の上に投げ出されている。そんな印象を残してしまう気がする。
どうせならもっとエレガントに、そしてガツンっとイメージを突っ込んでもらいたいモンです。 ('06/04/09 14:39:07)
- ケムリ :
ダーザインさん それは、あくまで事前知識としてぼくのことを知っているからこその読解じゃないかと思うんです。もちろん、この作品ひとつを書くに当たって、「そういうこと」が影響を与えてないと言えば嘘になりますし、その部分まで踏まえれば解釈としては「大当たり」なんですけど、少なくとも読めるようには書いていません。そのことが産みだした結果、つまり作品は読まれたいけれど、ぼくはその部分まで作品がモロに描くのは下賎だと思うんですよ。
ちょっと、作品の構造については一度考えてみます。でも、イメージの飛び石的な構築法もまだ先がありそうな気がするんですよね。
野本さん あなたに薦められた本は、あんまり読みたくないですね。極めて個人的な話ですが。
atsuchan69さん 「強さ」っていうものがどういうものなのか、ぼくには全くわかりませんが。少なくとも、ぼくの認識では「静かなる命がけの絶叫」なんて全然ダメだと思うんですよね。「静かなる命がけの「上手な」絶叫」じゃなければ。文章力や技術的な腕力は、結果のためのものに過ぎませんけれど、「重視されて当たり前」「前提条件」みたいなものだと思うんですよ。ですから、ぼくは技術至上主義であると言って差し支えないと思います。(自分に技術が伴っているかは、また別の話ですけれど)ですから、その助言は完全に受け入れられません。ぼくは、詩は読み手のためのものであると考えてますし、読み手は書き手に対して常に優位であると思っていますけれど、それでも自分の作品を書くに当たっては、やっぱり自分なりの論理が必要ですから。 ('06/04/17 18:33:04)
- ケムリ :
ミドリさん 「フランス料理」って表現はいいですね。そういうつもりで書いています。そもそも、たかが二十歳の小僧の中に作品にするような事柄がそうそうあるわけないですから、こういった方法を取るのは寧ろ必然だと思うんですよ。
イメージの飛び石、みたいなものをぼくはずっと試して来たんですけれど、これの距離は遠ざかれば遠ざかるほど面白みが増すような気がするんですよね。もちろん、距離は遠くても全体をきっちり抑え込む必要はあるんですけれど。その部分が、この作品は上手くいっていないんじゃないかと思います。(でも、本人は自覚しにくいんですよ。何せ、全部自分の頭の中で展開されてるわけですから)イメージを最大飛距離でぶっ飛ばして、尚且つパッドもスコーンと決める。そんな感じに書けたらいいんですけれど。 ('06/04/17 18:42:37)