頸が、痛むので、雨傘を持って、うつくしい炎のひとしずくをうけとめる。誰もことばにすることのできない、空の、ある一点から、老いた星が、上昇するのを。かわいた、うすいすねをさすり、骨粗鬆症に、くるしむ、祖母の、ような。点は、毎年、ひろがりを孕んでいる。
うれしさやよろこびが、青空をひきさいていく。
ともだちに追われる、こどもの声。そして追われ、脅かされながら、こどもを作る、わたしたちの声。
街が赤土に覆われて、ひとびとの影が、極端にみじかくなって、葉緑素を保有する植物が、もう二種、三種ほどをのこして、滅びさってしまったころ、それでもまだ、今年も、風鈴が、あざやかに揺れている。
ふぜいを愛するひと。ばかだねえ。その手のひらの皮が、何度めくれてはがれおちても、また、はりめぐらされるような。
その、開かれた国語辞典の、『は』、“梅雨”という項、あるいは、『つ』だけれども、気のふれた、神経痛みたいな、季節風に、はこばれて、海面すれすれを、ひろい大洋のうねりにのまれたり、それでまた、おおきな入道雲へと、羽化してみたり。
雨雲の、中心。核と呼ぶべき部分には、文字が埋め込まれている。いつも。
凍りついた、そいつが、解けて、ほんとうは、わたしたちが、摂取し、体内へと流し込むことで、生き永らえてきたのだけど。
なぎ倒された、電信柱の、切り株の、手ざわりを、思い起こす。電気信号によって調律されるべき、鍵盤が、狂おしい金切り声をあげて、音を曲げる。この地に、偶然の雨が、降らなくなってどれくらい?
ぼくは雨を祈る
あなたは雨を祈る
乾きひび割れた表皮にひとしずく
手のひらに乗るような、小さな炎が、ゆるゆると降り注ぐ都会のど真ん中で。
飽いた熱の、かわりに
ひとびとは雨を祈る
おばあちゃん、と呼んでみたら、骨の透けてみえる、広い海を泳いでいて、そこではすべて潤っていて、浮かんでも、沈んでも、果てがないから、ひろがっていくことしか、わたしたちには、のこされておらず、そういえばわたしたちの、中心部にも、核にも、文字が据えつけられていた、ような記憶があって、水のなかで、ずっとちらちらと瞬く、放射線みたいな、熱くない炎を、なにも、ここまできて、握りしめていなくたって、いいのじゃないか、という気になったので、ぬるい水をひっかくために、手指をぜんぶ、のばし、た。
たおれた電信柱。
むき出しの赤土。
砕かれ砂になった窓。
再びひきさかれた縫い痕だらけの空。
今年も割られずに揺れる風鈴。
おばあちゃんと呼んだ声がそこかしこに散らばっている。
さぼてんが花をつけている。
酸素が燃えつきればここは宇宙空間とかわらず。
うつくしい炎が今もまだ焦土にてくすぶっている。
海は、その大半が涸れ、
わたしたちの身の丈をあまさず抱くことは、
できなくなって、
ひきさかれた空の向こうへと、
もう一度、上昇していく、
老いた星々が、
仄暗い、闇に吸い込まれるようにして、
あらゆる音が、今は、もうない。
>> permanent URI: http://bungoku.jp/ebbs/20180607_356_10508p
- 田中修子 :
わ〜ものすごく好きです!!
なんだろう。
たぶん何回も読み直せばストーリーも入ってくるんだろうけれど、文字を追うだけでもなんだかよく分からないけれど世界が浮かんでくる。
おそろしいほどの、感性の世界。
ばらばらになっちゃいそうな。
イメージがイメージを呼ぶというか。
なんだろう、ともかく、すごいと思いました。
これ、絶対に私には書けません。 ('18/06/08 00:30:43)
- アラメルモ :
読ませて頂きました。このように丁寧な言葉使いでコメントに入るのは、それだけ作者の持つ詩的な世界観に敬意を表したいからであります。そうなのです。たとえ現実から逃避するように幻想的世界観を表しているにしても、それは日常を意識してのことだから、やはり現実を切り離して考えることはできないのです。現実とは、当然のことながら社会生活を営む上での思想史観が含まれることになります。倫理、哲学、宗教と歴史を含めて人間の思考は様々な世界観を作り上げてきました。そのことが今日の我々が生きる上での社会体制とは切っても切り離せない。そうした因果関係の基に我々は社会生活を営んでいる。これは現実として誰しもが認めざるを得ない事実でしょう。
言葉の持つ力とはそうした現実を挟んで変化もしてきました。ある時は戦争という人為的悲惨な経験を境にして。またある時は自然災害というやりきれない思いを胸に秘めて。そうした時代背景を眺めながらも、詩情という普遍性に充ちた感情を、人類は想像の言葉で醸し出してきました。
このように前置きをして何が言いたいのかと申しますと、詩的言語を駆使して向かう先は内包された詩情。この作品もそのことを意識せずにはいられない。優れた言葉の選取、レトリックでもあるのでしょう。しかしながら、わたしはこれを今日の混沌とした欺瞞だらけの社会状況に照らし合わせて考えずにはいられない。
嘘が真になり、真がいつのまにか嘘に変わる社会状況。しかしよくよく考えてみれば、これは今も昔も同じことでしょう。真実とは一体どこに隠れてあるのか。それとも無いのか。
そのような社会状況の最中にあって、これまでのような変わることのない詩情というものが果たして今日も必要なのだろうか。どうだろうか。
永く人類は詩的言語を駆使して詩情を醸し出してきた。しかしそのことによって世界史観までもが果たして変化してきただろうか。詩によって倫理や哲学や宗教は人類の感情にどう変化を及ぼしもたらしてきたのだろうか。
わたしはこの詩情という普遍性に充ちた感情を、安易に否定するのではなく、もう一度徹底的に懐疑してみる必要に迫られている状況ではないかと思うのです。 ('18/06/08 03:36:56 *6)
- Mizunotani :
田中修子さん
肯定されることは気分の良いものですね。きっと、とても優しくて、いろんな辛酸や痛苦を味わってきた人なのでしょう。でなければ見ず知らずの、しかも画面越しの、ほとんど透明な他人なんかを、褒めたりできないでしょうから。
でも、ぼくは、自分では大したことのない作品だと思ってます。もちろん、雑に書いたわけじゃないですが、全力で書きましたけど、完成度とか、鋭さとか、そういうのがビミョーかなって。リハビリですからね。今、ここで誰よりも下手な書き手がぼくです。そうでなきゃ、いけない。
ありがとうございます。
アラメルモさん
ご高説、大事に読ませていただきました。ああ、決して皮肉や揶揄ではないので誤解なきようお願いいたします。
ぼくは、ただ、詩を書いている内は、人間はきっと、現在進行的に歴史を体感したり知覚したりすることは、ないんだろうな、と思うのみです。どうせ使うんならカッコよく使いたい、だから詩を書く。そんなミクロな視点、違うか、価値観で世界は動いてないでしょうからね。
懐疑されるのは詩情でなくて、詩語。いつだってツールに留まるようですね。詩情を懐疑するってのは、そりゃつまり詩ですからね。ぼくが考えるに、ですけど。
ありがとうございます。 ('18/06/08 22:38:39)
- 玄こう :
すごくいいレベルで自然を、詩としてしっかりと描いているな。と思い読ませてもらいました。
でも、まだまだすごく言葉が、頭のイメージがまだまだ専ら先行している気がしました。 ('18/06/08 23:10:24)
- Mizunotani :
玄こうさん
現実の自然ではあり得ないですけど。
どっかにこういう自然が、日常が、あればいいのに、とは思います。
多分、イメージに対して筆力が不足している、という意味だとぼくは解釈しましたが、そうなのかもしれません。詩なんてほとんど書いた経験がない、いや嘘だな、最近は少なくとも全然書いてこなかったから、自分でももどかしい気持ちがあり、そんなもん、他の人が読んだらもっとだろうにと思いつつも、とりあえずぼくにはこれで精一杯です。
精進します。
ありがとうございます。 ('18/06/09 01:29:37)
- あやめ :
予想できる範囲の言葉やイメージだけで作られているなと思いました。
それがいいかわるいかはなんとも言えないのですが、退屈ではあると思います。
そして読点がよく機能していないなと思います。リズムを作ることができていないなと思うのです。 ('18/06/09 17:14:10)
- 紅茶猫 :
>誰もことばにすることのできない、空の、ある一点から、老いた星が、上昇するのを。
ここは助詞を意識的に変えているのでしょうか?後半の繋がりを考えると「誰もことばにすることはできない」としても。
「おばあちゃん」という言葉が一番伝えたい言葉なのでしょうか。おばあちゃん子ですか?
ただ詩の中では少し浮き上がって聞こえますね。
これだけ言葉数が多くても、鮮やかな景が一つも浮かんできませんでした。
しかしながら意気込みは充分感じられます。 ('18/06/09 19:12:31 *2)
- Mizunotani :
あやめさん
退屈させてしまい申し訳ないです。それはぼくの実力が足りてなかったからだ、と猛省しているところです。
予想を裏切り続ける文章が、あやめさんの良い作品なのでしょうか。確かに飛躍飛躍飛躍って翻ったりもんどり打ったりする言葉はカッコいいですよね。でもそれは運ゲーですから。投稿するタイミングや、読む人によって、良いも悪いも180度評価が変わってきてしまう作品をあえて書こうとは思いません。ぼく、そんな運の良い方じゃないんです。
そのようにして書いてみてもどうせ、読めないでしょう。どうせ、ぼくも書けませんけれど。
読点については、あやめさん好みのリズムを作るために置いているわけではないので、このまま改めるつもりはありません。とりあえずは、ですけど。アドバイスを拒んだように聞こえてしまうと思いますが、あくまで暫定的に、です。色々の人の意見があったり、勿論はじめはあやめさんでしたが、自分で閃くところがあれば、その限りではないのです。
ありがとうございます。
紅茶猫さん
まあ、その部分難しいですよね。難しい、というか、変に絡まってるというか、ぼくはこだわって書いてるんですけど。伝わるかどうかは、読み取ってもらえるかどうかはまた別ですね。当然のことなんですけど。
仰る通り割とおばあちゃん子として生きてきたような気がしますけど、この作品の中ではどうでもいい感じですかね。安倍総理、でも問題ないです。そうは書きませんでしたが。
確かに音がよくなかったかもしれませんね、“おばあちゃん”だと。
どうも読んで損したと思われてしまったようで、そこは本当に申し訳ないです。実力が足りませんでした。
ただ、ええと、多少不躾になりますが、コメントを書かれる際、作者に訊ねるのは反則気味ですよね。それ、え、きっちり答えちゃっていいの? それって負けじゃない? じゃあとりあえず「おっしゃるとおりですごめんなさい」って謝っとこ、という風になるってもんじゃないですか。
うん、すみません、これ以上読んでくれて、わざわざコメントまでつけるという労力を支払ってくれた人に難癖つけたくないので、もうぼくからは言いません。
ありがとうございます。 ('18/06/09 23:23:21)
- 一輪車 :
アラメルモさんのレスが秀逸。^^
内容は最後まで(最後になっても)わからないのだけど、
おもしろい。
渥美清の寅さんがチェック地のブレザーをきちっと着込んで
口上を述べているみたい。^^
最後にテンテンテンという三味線の音がしてずっこけると
もっといいのだけどね。^^
さてこの詩だけど、「、」を多用する前半はどこにいつ「、」を打つか
というセンスが問われているわけだが、これはむつかしいからねえ。
そこに詩人の詩的指南力やテツガクが入ってくるから。
人によって違うだろうけど、この打ち方には一昔前の古い詩の感性を感じたな。
文極に熱があったころに優秀賞をとったような投稿者の感性だな。
わたしのような書けないものがへえとおもって遠巻きに眺めていたような
そういう詩の感性。それもいまではコケオドシであったことがわかっている。
それは時代が教えてくれるものでかれらのせいじゃない。
当時は真剣なものだったのだろう。でも、もう、いかにも古い。
真剣なものであるとしても。 ('18/06/10 10:49:38 *3)