私は、カーディガンに、
ルビをふる、
魂から、零れ落ちる、
台詞のない、
幽霊が、
服を着て、町を歩いている、
この寒さ、
耳を、凍えさせる、
防寒具はもう昨夜のうちに、
作者の、こだまする、
魂から、
温暖な、地方へ逃げ去った、
あれから、作者は、
体を動かしながら、
笑った、
笑いの中に、
一筋も、凍えるものが、なにもないのなら、
私たちはいつだって、
魂を、ここに捨て去ることだってできるはずだ、
昼下がり、カーディガンが、
月をたたく、
あの、光線を送り続ける、
葡萄の、果実を、
唇で、開き、
天気を、再度呼ぶために
(降らせる)
カーディガンに、ルビを降らせる、
都市の、荒廃した姿を、
思い浮かべながら、
ずっと遠くまで、
詩人のいない、世界で、
口笛を、ふくように、
この寒さ、
耳を、口を、瞳を、
覆うようして、
言葉が始まる
>> permanent URI: http://bungoku.jp/ebbs/20081229_320_3228p
- 破片 :
こんばんは、祝祭さん。遅れましておめでとう。
俺は祝祭さんの詩でこんなにもはっきりと冴え凍えた夜の詩を初めて見たかもしれません。
祝祭さんが謳う詩人のない世界。それは多分あなたにとって希望や願いが行き着く先のコト、であろうと思っています。だから、あなたが採光して作った詩は、高らかにそれを唱えている―――そういうことを象徴していた。ドイツ的な雰囲気や詩の持つ性質の描写がハマっていました。今回の詩は、そこから変わって、夜を払拭していくという意思が描かれたものだと思います。俺がこれまで見てきた詩が理想を掲げ続けるものだとしたら、今回のこれはもっと前向きでともすれば明るんだ印象を受けるな、と感じました。ところどころに取り込まれた無機質で冷たい、「夜の描写」が、全体として光へと向かっていくこの詩を彩っている。よって、ほんの僅かなそれが絶大な効果を発揮している。
俺はあなたのこの詩を、「ああ、いいな」と思って読んだのでした。
失礼しました。 ('09/01/04 00:34:18)
- 祝祭 :
最近、生きるために労働しているんだけど。筋肉が痛む、と、自分の体が回復されてくるように感じる。詩ばっかり書いてると、体があることを忘れてしまう。筋肉の痛みは、有限性をまさに見せ付けてくれて、「あー、体はたしかにある、と、」思いながら詩を書いてるね。体を動かすのに言葉なんていらなくて、なんか、そういう感じのことを思いながら詩を書いているという変な感じ。 ('09/01/04 13:15:07)
- 午睡機械 :
最終連については、少なくともぼくにはふたつの読み方が考えられます。
第一の読み方:「私」の感覚器官でもありコミュニケーションにおいて大きな役割を果たす部分である「耳」や「口」や「瞳」を、前連の「詩人のいない世界」という想像からくる「寒さ」が覆ってしまい、もはや伝えることも伝えられることもなくなった状態で、自らの内部において「言葉が始まる」のだ。
第二の読み方:やはり「詩人のいない世界」という想像からくる「寒さ」があり、その「寒さ」から守るかのように「言葉が」「耳」や「口」や「瞳」を覆いながら「始まる」のだ。
要するに各語の修飾関係を見出すときに、「覆う」主体を「寒さ」と捉えるか「言葉」と見なすかで解釈が異なってきます。
ここで注目しておきたいのが第三連です。「笑い」のなかに「凍えるものが」「なにもないのなら」「魂を」「ここに捨て去ることだってできるはずだ」と書かれています。これは反語表現です。つまり、そのような「笑い」のなかにある「凍え」=「寒さ」に「作者」が覆われているので、たとえ「台詞のない幽霊」(第一連)や「防寒具」(第二連)は「作者」の「魂」から出ていくことができたとしても、「魂」そのものは「作者」から出ていくことができないということです。
第三連をこのように読むなら、最終連については第一の読み方をとるべきでしょう。すると、「作者」にとって、「笑い」のなかの「凍え」と「詩人のいない世界」の「寒さ」はほとんど同質であるように思われてきます。あるいは、むしろ「笑い」のなかに「詩人」はいないかのようです。おそらく「作者」にとって「詩人」とは、悲劇的かつ英雄的で、ナルシスティックなものと捉えられているのでしょう。「笑い」はそれらを全部「笑い」尽くしてしまうことができるので、うすら寒くもあり、また「都市の荒廃した姿」というイメージにもつながっています。
そのような観念の廃墟を歩くことで、ようやく「言葉が始まる」。しかもそれは、伝えることも伝えられることもないような状態においてです。だからこそ詩はここで終わっているのでしょう。 ('09/01/04 14:27:40 *2)
- コントラ :
この作品では完全に力量不足としか言いようがないです。もったいぶって書いているだけで、作者の筆力のなさをさらしてしまっている。そんな印象だけが残ります。 ('09/01/06 08:43:37)
- 寒月 :
天空から降る雪をまとい、あるいはふりようも無いふりがなを私はわたしにふる。寒さに、わたしたちを暖めたはずの鳥たちは、その軽やかな羽は、女は、どこにも見えず、凍える。去った。笑い。一筋の悲しみさえも。天の気を、再び呼ぶために。降らせる。口よ。この身に降らせる。ふくように。日々寒く さむく。耳よ、瞳よ。寒さに閉ざし、言葉が始まる の中にことばがはじまる。句点のない詩をわたしはうたう、寒さの中一人つぶやくように /と読むことで、詩を眼にした最初風邪をひいたわけでも花粉症でもない僕の鼻水とうるうるした目は一呼吸つきました。そうさせた肝心なことについては申し上げることが出来ないのですが。やはり何かいっとかないと、と思い。 ('09/01/06 09:13:27)
- 祝祭 :
まとめて返信
詩人を、悲劇的かつ英雄的で、ナルシスティックなものと、思っているかどうかは、実際今ではよくわからないのですが、ただ、肉体労働を最近しているんですよ。すると、体がどうしても痛んだり、疲労したりするわけですね。体を動かしているときには、言葉なんてものはいらなくて、実際、ほとんど反射的に行動しているんです。痛みも、「痛い」という言葉とか以前に、そうなるのだから、どうしようもないわけです。
でも、詩を書くことは、どんなに疲労していたり、筋肉痛になろうが、なぜか、PCの前に座って、書いているんですよね。一人になると、とりあえず、その日の労働やあったことを振り返りながら、詩を脳内で延々と作りながら帰宅する。でも、いざ、家に帰ると、体を動かすのに言葉なんて要らないのに、と、思って、途中で投げ出して、突然、途中で詩を投げ出したり、破棄したり、そんな感じ。でも、書くことはやめられない、とそういう感じで書きました。
後、他人の詩への感想やレスへの返信は、たぶん、極力しないようになっていくと思います。なんとなく、今の自分では、他人の詩を読んでも、言葉にするほどの余裕が自分にはないだろう、と思うから。 ('09/01/07 01:09:30 *1)
- 桜井 :
たくさん打たれた読点が、言葉の流れを堰き止めていて、妙な印象を僕は受けました。 ('09/01/07 20:24:16)
- 雨の実 :
考察の結果の開示ではなく、考察せずにいられないということ自体が、結露として震えている。そんな感想を持ちました。興味深いです。 ('09/01/08 16:33:21)
- コントラ :
読み返してみましたが、この作品、それほど悪くないです。罵倒しておいていまさら申し訳ないですが。ただどうも最近の祝祭さんのスタイルは効果的には思えない。やたら濁点を打ちまくるのと、改行の多さは、言葉を「軽く」見せてしまっていると思う。かつて過去の入選者のまーろっく氏が言っていたと思うのですが、
詩は一度散文として死なねばならない。
基本的に、どんなスタイルであれ文章を書くときには蛇口が言葉が溢れる状態で、それを注意ぶかく選別するのじゃなきゃ駄目だと思う。祝祭さんのこのスタイルだと、言葉が枯渇している状態から無理に搾り出している、その痛々しさみたいのが垣間見えてしまって読んでてしんどいんです。
この作品でもそのような印象はぬぐえませんね。 ('09/01/19 14:14:49)