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ロボット

選出作品 (投稿日時順 / 全2作)

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


エレベーター

  ロボット

廊下に敷かれた朱色の絨毯は
闇に向かってのびていた
背中のエレベーターは
開閉を繰り返している
扉に合わせて
廊下は朱色を明滅させ
エレベーターは
誰も運ぼうとせず
誰も迎えにいこうともしなかった

廊下の奥の闇の遠くで
部屋の扉が軋む音がした
男の話し声が洩れてきた
その声は囁くようにかすかでありながら
耳元で話されているように
嫌にはっきりと聞こえた

 「ケッキョク、タスケラレナカッタジャナイカ」

責めるような
嘲笑うかのような声だった

男の薄ら笑いが
視界の隅を掠めた

不意に恥ずかしいという感情が
分けもなく湧き上がった

それは知っているような
それでいて初めて見るような
どこか茫漠とした顔立ちだった

 「この顔は…」

思った瞬間
腹の底でそれまでとは全く別の
激しい感情が
怒りが
逆流した排水溝のように
音もなく胸の底にとぐろを巻いたかと思うと
一瞬のうちに羞恥も疑問も駆逐し
身体のすべてを支配した

突き動かされるように
廊下の奥の
闇の向こうにいるはずの
男に向かって歩き出した

エレベーターの開閉音が次第に遠ざかった
部屋の明かりがわずかに漏れた扉が見え始めた
あそこだと思った
足を速めた

目の前が暗くなった
思わず立ち止まった
扉が閉じられたのだ

見計らっていたに違いない
忌々しい
片っ端からドアを開けて
どうにか見つけ出して何か言ってやろうと思った
しかし、自分の中にはその男に言うべき何物をも持っていなかった
振り返った
開閉を繰り返していたはずのエレベーターは
もうそこにはなく
廊下が急に奥まで伸びたように見えた
闇が皮膚に吸い付いた
こめかみが脈打った
脈にあわせて鋭い痛みと言葉が脳髄を貫いた

 「もっとうまくやれたのではないか?」
 「もう少し慎重であれば助けられたのではないか?」

どこからか際限なく言葉が雪崩れ込んだ
だが、何を助けるべきだったのか
何を慎重にすればよかったのか
その肝心なところが
どうしても思い出せなかった

 「いったい何の罪がある?」

男がせせら笑う

 「デハ、エンザイダトデモ?」
 「オマエハ、シッテイル。ケッキョク、タスケラレナカッタ ト」


エレベーターの扉が開く音がした
ふたたび闇に朱色の穴が開いた
中から浴衣を着た小さな男の子とその母親らしい若い女が現れた
男の子は手に吊り棒の付いた提灯を下げ
エレベーターの扉が閉まると
提灯の灯りだけが取り残されて
男の子の顔と母親の浴衣の裾がぼんやりと浮かび上がった

二人はしきりに何かを話しているようだった
その会話をどうにかして聞きたいと思った
そうすれば何かが思い出せるような気がしたからだ
しかし、届いてくるのは断片的な言葉ばかりで
なかなかうまく文章にできなかった
そんな中

 「金魚は焼きましょう」

母親のやさしい声でその箇所だけがはっきりと聞きとれた
この母親は金魚を焼いて食べる気でいるのだった
口の中で焼いた金魚の味がした
それは覚えのある味だった
蝋燭の燃えるにおいがした
提灯はすぐそばまで近づいてきていた
子供のもう片方の手には
金魚が入っているらしい透明の袋の水が
提灯の鈍い光を反射させていた
母親の顎の線が闇の中でわずかに見えた
笑っているようだった
男の子も笑って何かを答えていた
だが、その声はまったく聞こえず
通り過ぎた二人の背中はすぐに色を失い輪郭だけになり
母親が消え
やがて男の子も闇に消えた

金魚の味と蝋燭の匂いは鼻腔に漂い続け
それは記憶を引き寄せつつ同時に霞ませていた


「五年前、イギリスのハイドパークの芝生に座って私が申し上げたこと、あなたはもうお忘れになったのでしょう」

女が部屋に入りながらシャツを脱ぎ
落ち着いた、それでいて少し剣のある声で言った
黒い彦帯を締めた大柄な男はそれに対して何も答えず
ただ黙って畳に正座をして文机に面していた

海外になど一度も行ったことのないこの男に
そんな記憶があろうはずがなかった
あろうはずのない記憶を忘れようもなく
忘れようもない記憶を忘れたとなじられる覚えもなかった
けれど、男は反論一つしなかった

女は下着も外すと半裸で窓辺に立って
レースのカーテンと両開きの窓を開け放った
塞き止められていた風が一気になだれ込み
カーテンと一緒に女の髪をなびかせた
女の背中で男は立ちあがると隣室に出て
ソファの背もたれに軽く腰をかけ
懐に入れていたガムを取り出し
口に入れた

 「夕食、ミネストローネでいいなら僕が作るよ」

窓辺の女は男の言葉には応えず、自分の話を続けた。

 「大きなリスがいたでしょう。楠の根っこのところに。生まれてはじめてよ、さすが外国ね、あんなに大きなリスを見たのは。イタチほどもあったかしら。私そこであなたにこういったのよ。『もすごたりすとしたら、あなたはひたみしていかいとしてね』」

男は肝心なところだけがうまく聞き取れず、
それでも何かしなければならないことを言われたのだということはわかって
薄暗い玄関のほうを睨みつけながら聞いた言葉を意味のある文章に直そうとした
エレベーターが到着した高いベルの音がした
暗く伸びた廊下が蛍光灯の光に遮られた

彼女はいったい何を言いたかったのだろうか?
思い出す声をどんなにパズルのように組み合わせてみても
何の意味も見い出せなかった

確かに何かを忘れている
それはもう
間違いのないことだった

 だが何を?

問いかけてみたが
その疑問は答えではなく
空白と不安を呼び
ざらつく胃に吐き気を覚えた

 大事なもの?

脇から攻めた
いや
きっと
取るに足りないもの
忘れても物語に何の影響もない
つまらないもの

そんな気がした

だが
背景色のない
肖像画のように
思考も記憶もみんな浮ついて

どこにも行けないでいる
誰も運ぼうとせず
誰も迎えにいこうともしない
エレベーターのように


水道橋

  ロボット

どこかの寺の鐘が鳴り
ビルの屋上に現れた野良犬の
遠吠えは細くかすれていた
その寂しい咆哮は喧噪を吸い取り
すべての色を拭い去った
深まる影に表情は隠れ
存在の輪郭だけが際立っていった

水道橋の中途には丸帽子の男がひとり
何をするでもなく立ち続け
反対側の欄干を
女の子が綱渡りのように両手を広げて
歩きはじめた
彼らの足下の川には
数日前に誰かが取り損ねたボールが
河口に向かって流れていた

そして
今日も使われずに無駄になった切符が
手の中で少し大きくなった
野良犬の姿はもうなく
風にとばされ舞い上がる菓子パンの袋に
微かな夢を忍び込ませた

文学極道

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