その夜、いえに帰って、おれは妻にせんこくしたのだ。
おれが、
さきに死んだら、
くちを、きけなくなった物質のおれを、
けっしてだれにも、神さまにもみせるな。
それが、おれの遺言だ。
おれは、酔っていたのか。
ふだんなら、そんな不吉にもとれることを、
この世でいちばん、こころが、
弱いであろう妻に、
いうはずもないのだが、
おれは、我慢ができなかった。
*
妻にせんこくを、おこなう前、
おれは、
恵比寿でのんでいた。
仕事のしり合いが、ろくにん、ほど居て、
ひとりは、
海外で商業デザインの仕事をしている有名じんで、
ひとりは、そこの営業まんで、
ひとりは、そこの子がいしゃの社長で、
他は、おれのかいしゃの部下たちで、
おれの隣りには、末っていう、
この世の終わりみたいな名前の、
気まじめな部下が酔っ払っていて、声がおおきい。
どんどん、酒をくみ交わし、うまい素材を、
うまい調理で、
つまり、カウンターの向こうの、
いちりゅうコックの手ぎわの鋭さで、
はらいっぱい食って、
夜はどんどん、ふけて熱っぽくなった。
おれは、それなりに快活に、みせて、
ばかもいったし、
それなりに、危なかしいことをいったつもりだが、
本当のことは、何もいわなかった。
*
さしみや、
しゃぶしゃぶは、淋しい。
どんな快活なおしゃべりをしていても、
くちにするのは、淋しい。
おれは、てかてか光る、
箸を、
まるで、器用にすべらせながら、
時おり、外の、ぷらたなすの樹をみていた。
まどから、さんぼん指のような、
みつ葉が、
みえて、緩やかにうごいていた。
かきが、出てきた。
話しは、
その、物質のけいたいに関係なく、
わかい、おんなとの火遊びについての、
ものとなったが、
おれは、遊びにん、のふりをして、おおいに食い、
のんで、おもい切り笑った。
*
おれは、ほうこく書でも、せいかつでも、
おしゃべりに見えて、本当にいいたいことは、
決していわない。
生きていると、言葉が、
にじむように、
湧きあがって、こみ上げてきて、
それを堪えるのは、なかなかに、辛いことがある。
いいたいことを、いわなくなったのは、
何時からなのか。
おれは仕事のせかいで、箸さばきほどに、
それなりに、器用になったし、
これでも、抜けめないやり手にみえるらしいが、
おれが、本当のことを、いいはじめたら、
こんなもんじゃない。
*
こころの弱い妻よ。
いいたいことを、我慢できなくなったおれが、
本当のことを、
いいだすのが、こわい。
生きているおれは、いわない言葉に、
みちていて、いわばそれは、
おれを生かしている内圧のようなもので、
おれの、おれなりの、
バランスなんだ。
くちを、きけなくなった死体のおれを、
だれにも、みせないでほしい。
*
ぷらたなす、というのは、
アメリカから輸入された、街路樹らしい。
この国では、いほうじん、なんだね。
しらなかった。
まどの外の樹を、話題にしたおれは、
部下の末のおおきな声に、
いらいらする。
売り上げを、ろく倍にした社長さんのくしゃみに、
いらいらする。
ぷらたなす、といって、それきり、
大きぎょうの悪ぐちに話題をかえたおれは、
品のいい、
僅かばかりの炊きこみご飯を、くちにしている。
ぷらたなすのみつ葉は、
にんげんの指にくらべると、欠けている。
それが、
おれの内がわで、何時までもうごいている。
*
生きる、にあたり、
いちばん辛いこと。
死を、いたむこと。
名まえのある、ペットの死をいたみ、
名まえのない、野良犬の死をいたみ、
妻の死をいたみ、
しり合いの死をいたみ、
しり合いでない、すべての死をいたむこと。
*
話題がかわっても、
ぷらたなすは、ぷらたなすの、ままだ。
その、うごく、
みつ葉にみえる指のあいだから、
表皮の、剥がれた幹がみえていて、
それは、しろい、
くもった色をしていて、
いよいよ、街灯のじんこうの光りをうけ、騒いでいた。
部屋のなかは、どんどん熱っぽく、
熱っぽくて、おれは、はらが痛い。
おれの妻は、なぜあれほどに、
こころが、
弱いのだろうか。
*
恵比寿のみせを出ると、
そらの雲はものすごく、流れていて、
星がみえなかった。
とうきょうの明かりは、
おれの想像をいつも遥かに、うわまわるばかりだ。
商業デザインのその有名じん、とやらに、
おれはそっと耳うちする、
お、うえん、していますよ、と。
その夜、いえに帰って、おれは妻にせんこくしたのだ。
おれが、
さきに死んだら、
くちを、きけなくなった物質のおれを、
けっしてだれにも、神さまにもみせるな。
おれの遺言をきかされて、
思ったとおり、妻は、不安がったけど、
いがいにも、泣き出さなかった。
わかりました、と、
だけ、約束してくれたのだ。
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