二〇一九年三月一日 「考察」
同じ密度で拡散していく。
二〇一九年三月二日 「箴言」
仏に会えば仏になるし、鬼に会えば鬼になる。
ひとはひとと出会って、ひとになる。
二〇一九年三月三日 「H」
イタリア語で
Hのことは
アッカっていうの
でも
イタリア語では発音しないから
ハナコさんはアナコさんになります
ヒロシくんはイロシくんになります
アルファベットで
ホモシロイと書けばオモシロイと読まれ
ヘンタイと書けばエンタイと読まれ
フツーよと書けばウツーよと読まれます
二〇一九年三月四日 「ピーターに気をつけてね。」
あしたは神経科医院に。痛みどめももらえるように言おう。ピーター、つくねに気をつけてね。
二〇一九年三月五日 「リンゴの存在」
ここにリンゴがある
といえば、リンゴがあると思う。
ここにリンゴがない
といえば、リンゴがないと思う。
ここにリンゴがあるかもしれないしないかもしれない
といえば、あるかもしれないしないかもしれないと思う。
しかし、リンゴの存在は
ことばによらない。
二〇一九年三月六日 「ところで、きみの名前は?」
「ところで、きみの名前は?」(トマス・F・モンテレオーニ『既視感』鎌田三平訳、SF短篇アンソロジー『三分間の宇宙』258ページ下段・第20行)
二〇一九年三月七日 「殺したかもしれない。」
ぼくは小学校のときに
継母を自宅のビルの屋上から
突き落として殺してやろうと思ったことがある。
小学5年のときだったかな。
小学校5年だったら
警察には疑われないと思って。
二〇一九年三月八日 「久保寺 亨さん」
久保寺 亨さんから、詩集『続・白状/断片』を送っていただいた。宗教的なところに関心をもたれておられるようで、そのような描写が随所にあらわれる。また宗教と哲学は密接な関係をもっているのだろう。哲学的な考察も随所にあらわれる。生のなりわいの根本的な詩集だ、と思われた。
二〇一九年三月九日 「草野理恵子さん」
草野理恵子さんから、同人詩誌『Rurikarakusa』の第10号を送っていただいた。「抽斗」のなかで、「抽斗の中 突然雨が降り出した」とあったのだが、ぼくもまったく同じレトリックを使ったことがあったので驚いた。ぼくのは「箪笥のなかで」だったけれど。草野理恵子さんに親近感をもつはずだなと思った。
二〇一九年三月十日 「葱まわし」
葱まわし 天のましらの前戯かな
孔雀の骨も雨の形にすぎない
べがだでで ががどだじ びどズだが ぎがどでだぐぐ どざばドべ が
二〇一九年三月十一日 「ミッション」
火曜日のミッションを成功させること!
3月23日 土曜日 11時半 歯医者
二〇一九年三月十二日 「藤井晴美さん」
藤井晴美さんから、詩集『無効なコーピング』を送っていただいた。冒頭の詩篇から、いきなり胸を掴まれた。この方の詩篇は、ぼくを興奮させる。そういった言葉遣いだ。おいくつくらいなのだろう。ぼくの好みにぴったりの表現をなさっておられて、とても興味がある。ありがたくご本をいただく。
二〇一九年三月十三日 「耳にしたこと」
仕事の帰り道、近所で
建築現場に居残った若い作業員二人がいちゃついてた
一人の青年が、もう一人の青年の股間をこぶしで強くおした
「つぶれるやろう」
「つぶれたら、おれが嫁にもろたるやんけ」
イカチイ体格の、真っ黒に日焼けした男の子たち
二〇一九年三月十四日 「傘」
ふつう、一人でさす傘は一本である。
しかし、たくさんの人間で、一本の傘をさす場合もあれば
ただ一人の人間が、たくさんの傘をさす場合もあるかもしれない。
ただ一人の人間が無数の傘をさしている。
無数の人間が、ただ一本の傘をさしている。
うん?
もしかしたら、それが詩なんだろうか。
きょう、恋人に会ったら
ぼくは、とてもさびしそうな顔をしていたようだ。
たくさんのひとが、たくさんの傘をさしている。
同時にただ一本の傘をさしている。
それぞれの手に一本ずつ。
ただ一本の傘である。
たくさんの傘がただ一本の傘になっている。
ただ一本の傘がたくさんの傘になっている。
たくさんの人が、たくさんの傘をさしている。
同時にただ一本の傘をさしている。
二〇一九年三月十五日 「詩人」
詩人のうち、いくらかは
意味を吟味することで人間を知ろうとする
詩人のうち、いくらかは
人間を吟味することで意味を知ろうとする
詩人のうち、いくらかは
意味を吟味することで意味を知ろうとする
詩人のうち、いくらかは
人間を吟味することで人間を知ろうとする
詩人のうち、いくらかは
意味を吟味することなく人間を知ろうとする
詩人のうち、いくらかは
人間を吟味することなく意味を知ろうとする
詩人のうち、いくらかは
意味を吟味することなく意味を知ろうとする
詩人のうち、いくらかは
人間を吟味することなく人間を知ろうとする
詩人のうち、いくらかは
意味を吟味することもなく人間を知ろうともしない
詩人のうち、いくらかは
人間を吟味することもなく意味を知ろうともしない
詩人のうち、いくらかは
意味を吟味することもなく意味を知ろうともしない
詩人のうち、いくらかは
人間を吟味することもなく人間を知ろうともしない
二〇一九年三月十六日 「考察」
言葉が意味を通じて意味を知る
言葉が意味を通じて人間を知る
言葉が人間を通じて意味を知る
言葉が人間を通じて人間を知る
人間が言葉を通じて意味を知る
人間が言葉を通じて人間を知る
人間が人間を通じて意味を知る
人間が人間を通じて人間を知る
二〇一九年三月十七日 「八千代館」
高校時代に
クラス・コンパの二次会のあとで
友だち6、7人で
酒に酔った勢いで
生れてははじめてポルノ映画館に行ったのだけれど
そのときに見たピンク映画の一つに
田んぼのあぜ道で
おっさんが農婆を犯すというのがあって
そんな記憶が、ふと思い出されたのだ
八千代館という
そのポルノ映画館も
きょう行ったら
若者向けの洋服屋になってた
ポルノ映画を見て、勃起した友だちの
チンポコさわりまくりの高校時代だった
二〇一九年三月十八日 「ゲゲゲのゲーテ」
あの黄色と黒の
ちゃんちゃんこ着たゲーテ
二〇一九年三月十九日 「焼き鳥じゃなくて」
書き鳥
二〇一九年三月二十日 「箴言」
倫理的な人間は、神につねに監視されている。
二〇一九年三月二十一日 「地球のゆがみを治す人たち」
バスケットボールをドリブルして
地面の凸凹をならす男の子が現われた
すると世界中の人たちが
われもわれもとバスケットボールを使って
地面の凹凸をならそうとして
ボンボン、ボンボン地面にドリブルしだした
それにつれて
地球は
洋梨のような形になったり
四面体になったり
直方体になったりした
二〇一九年三月二十二日 「ゴミ」
ゴミはゴミになるまえはゴミじゃなかった。
二〇一九年三月二十三日 「鯉もまた死んでいく 鯉もまた死んでいく」
中学3年のときかなあ
何かがパシャって水をはねる音がして
見ると
白川にでっかい鯉が泳いでいて
なんで白川みたいに浅い川に
そんな大きさの鯉がいるのかな
って不思議に思うくらいに大きな鯉だったんだけど
ぼくが
「あっ、鯉だ!」って叫ぶと
林くんが
学生服の上着をぱっと脱いで川に飛び下りて
その鯉の上から学生服をかぶせて
鯉を抱え上げて川から上がってきたのだけれど
学生服のなかで暴れまわる鯉をぎゅっと抱いた林くんの
彼のお父さんと同じセルの黒縁眼鏡の顔が
それまで見たことがなかったくらいにうれしそうな表情だった
今でもはっきり覚えている
上気した誇らしげな顔
林くんはその鯉を抱えて家に帰っていった
ガリ勉だと思ってた彼の意外なたくましさに
鯉の出現よりもずっと驚かされた
ふだん見えないことが
何かがあったときに見えるってことなのかな
これはいま考えたことで
当時はただもうびっくりしただけだけど
ああ
でももう
ぼくは中学生ではないし
彼ももう中学生ではないけれど
もしかしたら
あの三条白川の川の水は覚えているかもしれないね
二人の少年が川の水の上から顔をのぞかせて
ひとりの少年が驚きの叫び声を上げ
もうひとりの少年が自分の着ていた学生服の上着を脱いで
さっと自分のなかに飛び降りてきたことを
あの三条白川の川の水は覚えているかもしれないね
ひとりの少年が顔を上気させて誇らしげに立ち去っていったことを
そして、もうひとりの少年が恨みにも似た羨望のまなざしで
鯉を抱えた少年の後ろ姿を見つめていたことを
二〇一九年三月二十四日 「俳句」
花ひらく さまには似ても にぎりつぺ
花ひらく さまに似たれど にぎりつぺ
花ひらく さまにも似たる にぎりつぺ
手から手へ 無情な水を こぼし合う
額寄せ 水こぼし合う 縁かな
椀の手に 無情な水を こぼし合う
二〇一九年三月二十五日 「年金の相談」
年金の相談に行ったら、7月に来て下さいと言われた。そうか、タイムラグがあるのか。
二〇一九年三月二十六日 「海東セラさん」
海東セラさんから、詩誌『グッフォー』第71号を送っていただいた。海東セラさんの作品「床」では、床の模様と、床の存在としての立ち位置みたいなものがていねいに描いてあって、ああ、こういう書き方もあるのだなと思わされた。
二〇一九年三月二十七日 「幽霊がいっぱい」
マンションでは
猫や犬を飼ってはいけないというので
猫や犬の幽霊を飼うひとが増えて
もうたいへん
だって、壁や閉めた窓を通りこして
部屋のなかに入ってきちゃうんですもの
まあ、うちの死んだお祖父ちゃんが
アルツで、夜な夜な
よそ様の部屋に行って
迷惑かけてることがあって
文句は言えないんだけど
二〇一九年三月二十八日 「詩論」
聖書のなかで、さいしょになされる問いかけは、創世記の第三章・第一節の「園にあるどの木からも取って食べるなとほんとうに神が言われたのですか」という、いにしえの蛇の言葉であった。イヴのその問いかけに対する答えは、「わたしたちは園の木の実を食べることは許されていますが、ただ園の中央にある木の実については、これを取って食べるな、これに触れるな、死んではいけないからと、神は言われました」というもので、すると、狡猾な蛇は、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」と言ったのだが、けっきょく、イヴはその木の実を食べ、アダムにも食べさせたので、二人は善悪を知ることになったのである。このことは、人間の知恵というものが、唆しと誘惑、そして虚偽と欺瞞からはじまったということを教えてくれる。詩とは何かと考えることがあり、以前に、問いかけではないかと書いたことがあった。聖書のさいしょの問いかけが悪魔によって発せられたこと、そして、そのあとの虚偽と欺瞞に満ちたいにしえの蛇の言葉を思い起こしてみると、もしも、詩というものが問いかけであるのだとしたら、根源的に、詩人のこころには、誘惑してやろう、唆してやろうという気持ちや、その言葉には、虚偽や欺瞞といったものが含まれているのではないか、とも思われた。
二〇一九年三月二十九日 「詩論」
凝固点降下という現象がある。純粋な物質に不純物を入れると、固体になる温度が下がるという現象である。純粋な物質だと結晶化するのに時間がかかるが、不純物を入れるとたちまち結晶化するという現象もある。人間の体験も、自己の体験をのみもとにして考えるよりも、他者の体験やものの見方といったものを合わせて考えたほうが、より迫真的なものとなったり、じっくりと考えさせられるものとなることが多いように思われるのだが、その他者の体験やものの見方といったものに、映画や文学といった、あからさまな「つくりもの」を入れると、自己の人生がより生き生きとしたものに感じられるためには、自己の体験である、「真実のなかに」、自己の体験ではない「少しの虚偽が必要である」ということにならないだろうか。いや、もしかすると、「少しの」ではなく、自己の人生をより生き生きとしたものと感じるために、「たくさんの」虚偽を必要としている人間もいると思われる。その数もけっして少なくないような気がする。筆者もその一人であろう。頭のなかには、実在人物の名前よりも多くの、文学作品の登場人物の名前が収まっているのである。
二〇一九年三月三十日 「詩論」
詩人のマイケル・ファレル氏に、とても基本的なことを訊いてみた。「あなたはなぜ詩を書いているのですか」という質問に詩人がとまどっていた。同じく、詩人のジョン・マティア氏にも同じ質問をしてみた。二人とも、即座に答えられず、なんとか答らしきものを聞き出すのに相当な時間を要した。ぼくはつねに、自分がなぜ詩を書いているのか考えて生きているので、ぼくの素朴な質問にすぐに答えられなかった詩人たちのとまどう表情を見て、ぼくのほうがとまどってしまった。自我とは何か。言葉とは何か。記憶とは何か。思考とは何か。関心があるのは、ぼくには、ただこれらのことについてのみ。
二〇一九年三月三十一日 「人生の意味」
ジミーちゃんのところに食事に行く約束をしていて、じっさいに行ってみたら、彼はピアノを弾いていて、玄関でピンポンってチャイムを一分くらい押しつづけても出てこなかったので、そのまま帰った。往復で2時間以上もかかったのだけど、自転車なので、運動になったかなって思うことにして、まあ、芸術にいそしんでいるときだから仕方ないかなって。ぼくなら、ピアノ、途中でやめるけどね。まあ、そういう人なんだろうね。これがはじめてじゃないから、そんなに驚かないけれど、ぼくもわがままだけど、そこまではね。いろいろなひとがいて、いろいろなひとと出会って、人生を味わうのが、人生の意味だと思うから、べつにいいんだけどね。帰ってきたら、リュックのなかで、ヘッドフォンが千切れてた。5年保証に入ってたから、ジョーシンに行って交渉。1週間以内に届くとのこと。
最新情報
選出作品
作品 - 20201109_516_12204p
- [優] 詩の日めくり 二〇一九年三月一日─三十一日 - 田中宏輔 (2020-11)
* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。
詩の日めくり 二〇一九年三月一日─三十一日
田中宏輔