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作品 - 20200522_347_11906p

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


「詩」と「詩論」

  Migikata

 「詩的真実」に従って溝に水が流れ出し、根元から濡れ始めた棒杭の先に翡翠がとまった。開いた翅が閉じる。水が流れるとせせらぎの音が立ち始め、その静かさが遠い囀りや葉擦れの音を際立たせた。
 「展翅」という語がある。快楽的な死が、感情の浅い流れの底に小石を洗う。そんな語感だ。あの日、ゴミ捨て場に置かれた紙袋の中で、壊れた木製の標本箱がどれだけ傾いても、ピンで留められた蝶たちは落ちることなく翅を大きく開いたまま、死骸として宿命づけられた姿勢を保っている。後ろには父と、僕と同じ年の従弟が立っていた。「もう、行くぞ」と父は言い、一緒に動いた従弟の握る白い捕虫網が、高い位置で揺れた。彼が肩から掛けている布鞄の中には幾つかの毒瓶、殺虫管があり、その中には息絶えた小さな甲虫が何匹か収められているはずだった。虫の生涯は、人からは窺い知れぬ構造を持つ主体の、残酷な詩的遍歴として既に終わっていた。
 標本箱を捨てた夏休みの一日のこと。記憶は澄み渡った健康な尿のように勢いよく迸り、ぴっと切れよく収まった。わずかにアンモニアの臭いがする。
 堆積岩や火成岩が小さく丸く洗われて、浅く澄んだ流れの下から美しい肌理を露わに晒す。翡翠が見下ろす視界の中で、詩の言語は悉く文脈から削り出された石である。
 翻って発話される詩は、人を構成するいくつもの結節を解き開くため、唇から唇へメロディとして流し込まれてくる。音律のない概念としてのメロディが、口の端から零れて滴るほど豊かに。裸身のままの欲情を呼び覚まし、あげくわずかな痙攣が詩人の白々と長大な背を走り抜けるまでに、だ。誰も主体たる地位からは逃れられない。詩は主体と不即不離の関係で、新たな他者による解釈と解釈の間を伝播するより他にない。
 だから翡翠が杭の先から見ているものは詩であって詩ではない。主体の外側にあり、内実を持たない詩の外形なのだ。世の中の表象の表面を流れる「詩的真実」が真実とは名ばかりの、時間軸上の座標点の転変に過ぎない事実を、言葉自体の持つ性質が最初から内包している。
 詩の言語は時間の経過に晒され、洗われているばかりではない。相対的に真実の具現をコントロールしているわけだ。言葉がなければ、時間は経過しないということ。言葉は時間経過の中で自ら表出を全うする仕組みを持つということ。

 初夏だった。川の流れを目で追うと、水際に伸びた若草の先が風に煽られて時々水面に触れ、ぴっと弾かれる様子が見られた。揺れる。収まるところはない。青い臭いがとめどなく放出され、高い密度を形成する間もなく速やかに風に拡散されていく。
 昆虫採集から帰った従弟と僕は、日暮れまでの時間を父と母のダブルベッドの上で過ごした。二人は大抵の日、この別荘の図書室で本を読んでばかりいたので、裸になると互いの体は真っ白だった。父と母が外出先から帰宅するまで、僕らは相手をてんでにいじくり合って過ごすことにした。僕らはずっと無言でいた。総ての言葉が水の底に沈み込み、一つ一つのわずかな重量を光に変えて、ただひたすら表面の雲母をきらめかせているのだった。
 やがて僕は彼の裸身を大の字に仰向かせ馬乗りになっていた。顔を向かい合わせると、瞬きもせず見つめ返してくる。この形が定まった後、彼は力を抜いて、もう自分から動こうとはしなかった。
 僕は目線を逸らし、自分の体の影でいくぶん薄暗くなっている彼の裸身をまじまじと見つめ、何かの花のような、まったく密やかな体臭をかぎ取った。十一歳の体はどこまでも緩みなく張り詰めて、それでいて柔らかい。体を辿っていくと、無毛の性器についてもそれは同じだった。勃起した小さなペニスを包み込む白々とした包皮までもが、やはり緩みなくぴんと張り詰めていた。
 彼も僕も、性愛というものの正体をあらかた知っていたが、それを直ちに自分の肉体に適用することにさほどの興味はなかった。今となっては不思議なことに、漫然と、何の目的もなく彼の性器を見て、淡白な手つきで弄ぶばかりだった。
 この時、僕は既に「展翅」という言葉も知っていた。彼を永遠に動かぬ蝶、詩的遍歴を終えた骸とし、視界を標本箱として、ガラスの向こうに彼の一切を組み敷いた。そのつもりになっていた。
 二人の間に肉体の快楽はなかった。が、発せられぬ言葉をある種の精神的愉悦が洗い、早瀬に乗り上げて激しくなった時間の流れが、僕らをこの場にこうして置いたままで、たちまち世界を最終的な死に導くように思えて息苦しさすら感じた。胸の動悸が高鳴った。
 むろん言うまでもなく、それは一時の未熟で痴〓な思い込みに過ぎなかった。僕はこうして遙かな射程から二人を捉え、言語化することでその時点で試みられた「愛」へのアプローチという遊戯の持つ愚かさに報復を与えているのだ。

 詩は肉体にも精神にも、直接そのところを得ることはない。ただし、その過去への残虐な君臨に対する報いとして、今、僕は当時の僕らに抑えきれぬほど激しく、しかしどこまでも静的な興奮を覚えていることを、告白しなければならない。醜い。
 あの時、射精に至らなかった二人の性器。互いの手の中で緊張と弛緩を繰り返した陰部の形は翼のない鳥に似る。この詩文の全編を通じて、古い杭の先から見つめている翡翠の実在と性器とが、取り合わされて意味を持つということだ。翡翠は夏の季語である。夏という季節の情感が持つドメスティックな記憶もまた、鮮烈な流れとなって迸っているのだ。
 言葉はモノを抽象化し、人の意識の内部へ整頓して収める働きを持つ。また逆に、抽象化された思考の要素を一々具象に引き戻そうと誘惑する。そんな矛盾した性質を持っている。最も抽象化の進んだ数字でさえ、例えば「1」は、隙さえあれば一個の西瓜や一個の如雨露、さらにいえば虫の死骸を内包した一本の殺虫管であろうとするのだ。
 詩は日常生活から隔絶した「書き言葉」を用いることによって、詩とは別の文脈の派生を抑制しようとする。あるいは言語によって構成される事の顛末を著しく特殊化する。そうやって、意識の持つ構造的な自己完結に至る「ありきたりの文脈」の干渉、感染から逃れようと臆病に震える。
 だが、そういう試みに対して、この文では既に明確に否定的見解を示している。「詩の言語は悉く文脈から削り出された石である。」と。
 翡翠は俯瞰する。居ながらにして飛び、居ながらにして水に潜く。
湿潤な風土を陽が巡る。陽樹と陰樹の入り交じった、まだ若い雑木林。日射しが強まると木々の葉叢は膨大な量の光と影を抱え込む。風が抜けると光の葉と影の葉が目まぐるしく入れ替わり、森全体に感情に似た何かが伝播していく。それを下から支える幹の並び。雑草。苔。音がものの隙間を埋めながら形なく、しかも重層的に広がり、やがて聴覚を経て意識の中心で一羽の翡翠となる。


 「私の詩を読めよ」と彼女は言った。「私が書いたお前の詩だよ」
 僕は何のことかと聞いてみたかったが、彼女の素足に右頬から顔を踏みつけられていたので何も言えなかった。彼女の足裏はすべすべしていて皺のひとつもない。膝の関節から僕の頭部を通してペルシャ絨緞の上に力のベクトルが一直線に抜けている。「お前の書きそうな詩なんだよ」と言って僕の頭を蹴り離す。
 あ。単純なベクトルが複雑な動きに絡め取られて作用と反作用の歪な繰り返しの中で拡散していくじゃないか。もったいない。
「舐めさせて下さい」
と自由になった口で僕は言った。「指の先から上の方へ、それからもっと上の方も舐めさせて下さい」
 彼女の足が僕から離れ、すうっと引き上げられるのを僕は這いつくばったまま見ていた。「まったく呆れたねえ」と彼女は実際に呆れた人の多くが示す表情と声音で言っている。
「話を聞いてねえじゃんか。豚野郎。ありがとうございます、って今すぐ読めよ」
「いやだ、足の裏を舐めさせて下さい。それからもっと上を舐めさせて下さい。じゃなきゃ、そんなもの読まない」
僕は彼女に食ってかかる。この人の椅子から垂らした脚の裏側に回り込み、踵からアキレス腱、ふくらはぎから膝裏へ、それからもっと上を舐め進みたい。僕はそれしか考えていない。
 それが僕だ。僕の詩だ。
「馬鹿な男だねえ、お前は。豚以下か?おい?」
「そりゃ、豚以下です。そうですそうです」
 彼女は四つん這いになって起き上がろうとする僕の前に片膝をついて屈み込んできた。僕の頬を両手でやんわりと挟んで斜め上からこちらの目を覗き込んでくる。
「人類の性衝動のトリガーは単純な肉体の刺激や季節変化から脱して脳内に作り出した意識を介在させるようになった。本来はより複雑な判断により生殖機会を逃さないように、性の発動条件を緻密にコントロールするためだったよな。社会的文化的条件。個体の経験、本能の記憶。私らはイメージで発情する。だが、それが目的にすり替わってしまって、人の性欲はフェチシズムに変換されてしまった。まあ、それをなんとか異性の肉体に結びつけて交合に至らせるためにだ、性欲の緻密なコントロールが行われるようになった。それはつまり、性衝動に至るまでの脳内の過程を知性的に批評する必要が生じたということだ。」
 僕は目を閉じた。
「おい、批評に必要なものは何だ?」
「言葉です」
「そうだ、言葉は外界の一切に繋がっている。性的妄想が求心的にではなく、拡散的に世界と相対化されることで自己完結したオナニズムが再び他者の肉体との関係を取り戻していくんだ」
 彼女の台詞は長すぎる。僕の存在はもう持ちこたえられない。
「言葉は人を酔わせる酒であり、同時に気付け薬でもある」
じっと目を閉じたままの僕に、彼女はキスをする。めくれた唇の内側が熱こそ伝えるが、舌は入れない上品なキスだった。むろん僕は上品ではない。
 目を開けた。彼女の目線は少しも動かず僕を貫いたままだった。「私の詩だよ。お前の詩でもある。」
 彼女は立ち上がり、再び放埒な脚の全容を晒してショーツを脱ぎ捨てた。僕は俯いてしまって顔を上げられない。
「陶酔しつつ覚醒する詩。言葉が肉体を模し、言葉で作られた肉体が、同じ言葉によって絶えず批評される詩だ。題名は『「詩」と「詩論」』、下らない詩だぞ。何しろお前の詩だからな」

 「あんたの詩でもあるんだろ」と僕は口の中で呟いた。

文学極道

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