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作品 - 20200401_645_11788p

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


詩の日めくり 二〇一八年一月一日─三十一日

  田中宏輔



二〇一八年一月一日 「熊人形」

きょうから、リチャード・マシスンの短篇集『13のショック』を読む。スタージョンの短篇集は、いいの1作品だけだった。「熊人形」だけがよかった。スタージョンの短篇集、すべて本棚にあるんだけど、ほかのはもっとましだったような気がする。でもまた目次を読んだら記憶にないものばかり。あーあ。

二〇一八年一月二日 「大谷良太くんち」

これからお風呂に入って、それから大谷良太くんちに遊びに行く。

二〇一八年一月三日 「オレンジ・スタイル」

いま、ふつうの焼き鳥屋さんの「日知庵」、ゲイ・バーの「オレンジ・スタイル」の梯子から帰ってきた。ゲイ・バーに行くのは、5年ぶりくらいだろうか。小さな集団だけれど、みんな、キラキラしてた。それはとてもすてきなことだと思う。クスリをのむタイミングをはかって寝る。おやすみ、グッジョブ!

二〇一八年一月四日 「草野理恵子さん、植村初子さん、池田 康さん」

いま日知庵、パフェ屋さんのカラフネ屋の梯子から帰ってきた。きのう、すてきな出会いがあって、きょう、そのつづきのデートがあったのだった。神さま、ぼくを傷つけないでください。もちろん、その子のことも傷つけないでください。というか、神さま、お願いです、世界の誰をも傷つけないでください。

草野理恵子さんから詩誌「Andante Parlando」を送っていただきました。彼女の作品を、ぼくはいままで、「ホラー詩」と呼んでいましたが、冒頭に掲載されている詩をはじめ、4作品とも「不気味詩」と呼んでみたい気がしました。不気味です。どこからこんな発想が生まれるんでしょうかね。わかりません。

植村初子さんから、詩集『SONG BOOK』を送っていただいた。映画的だなって思った。映画のカットみたいなシーンや、映画のなかの場面のような詩が載っていた。抽象的な場面は、こころのなかの思いを込めた部分にだけ出てくる。目の詩人さんなのだと思った。

池田 康さんから、詩誌『みらいらん』を送っていただいた。池田さんの「深海を釣る」を読むと、アートと詩が、詩と詩が出合っているのだなあと思わせられる。そこに池田さんの場合、哲学や宗教がからんでくるのだけれど、そこで反射して自分を省りみると、なんにもないんだなって思ってしまった。

二〇一八年一月五日 「うれしいメール」

いま日知庵から帰ってきた。きょう、うれしいメールが10通近くきていた。57歳近くになって、まだ恋愛できるのかなと思うと感慨深い。かわいい。とにかくかわいいのだ。きょうも、リチャード・マシスンの短篇をひとつでも読んで眠ろう。おやすみ。

二〇一八年一月六日 「『一年一組 せんせい、あのね』」

朝から掃除に洗濯。

これからルーズリーフに引用を書き写す作業に。ケネス・レクスロス。

見つかった。何が? 探していた本が、扉付きの本棚で偶然に見つかった。てっきり手放していたと思っていた本で、Amazon で買い直そうかどうか迷っていたのだけれど、けっこう高かったのでためらっていたのだった。小学1年生の書いた詩がよいのだ。もしかしたら、『月下の一群』よりも影響を受けてるかも。

『一年一組 せんせい、あのね』というタイトルの本で、たとえば、こんな詩が載っているのだ。やなぎ ますみちゃんの詩。


おとうさん

おとうさんのかえりがおそかったので
おかあさんはおこって
いえじゅうのかぎを
ぜんぶしめてしまいました
それやのに
あさになったら
おとうさんはねていました


Amazonで、さっそく続編を買った。

きょうは、部屋の扉付きの本棚で偶然に見つかった『一年一組 せんせい、あのね』を読みながら眠ろう。こころがほんわかとするすばらしい本だった記憶がある。収録されている小学1年生の子どもたちの詩がすばらしかったことも憶えている。大人が書いたのではない、なにか純粋なものが見られるのだ。楽しみ。

二〇一八年一月七日 「ジェイムズ・メリル」

これからデートである。これから駅まで迎えに行って、ぼくの部屋に戻る途中でお昼ご飯を食べる予定。

いまだに、ジェイムズ・メリルの詩集って、新しいのが出ていないのだね。なぜ? もっともすぐれた世界的に有名な詩人なのに?

二〇一八年一月八日 「ジョルジュ・ランジュラン」

きょうから寝るまえの読書は、ジョルジュ・ランジュランの『蠅(はえ)』である。むかし、子どものときに見たTVで、『蠅男の恐怖』ってのがあったけれど、めっちゃ怖い映画だったけれど、その原作者の短篇集である。楽しみ。

二〇一八年一月九日 「『続 一年一組 せんせい、あのね』」

郵便受けに、先日 Amazon で注文した『続 一年一組 せんせい、あのね』が入ってた。部屋に戻って封を開けると、とてもきれいな状態の本だったので、とてもうれしかった。小学校1年生の子どもたちの詩がぎっしり。読むのが楽しみ。これがなんと1円だったのだ。(送料350円)帯がないのが惜しい。

『続 一年一組 せんせい、あのね』を読みだしたのだけれど、さいしょの3つの詩しかまだ読んでいないけれど、読んだ記憶があって、もしかしたら、むかし読んだことがある本なのかもしれない。一度読んだ短篇集を読み直ししても、既読感があまりないのに、子どもたちの詩はしっかり覚えてた。それだけ、子どもたちの詩が印象深い、力強いものだったというわけだろう。

二〇一八年一月十日 「機能不全」

ツイッターの機能が不全で、フォローしているひとのお名前が20人くらい、直近のものしかあらわれず、いま日知庵から帰ったのだけれど、日知庵でごちそうしてくださった方に直接メッセージしようとしてもできなかった。泰造さん、ありがとうございました。ごちそうになりました。

きょうの寝るまえの読書は、きょう届いた『続 一年一組 せんせい、あのね』にする。おやすみ、グッジョブ!

ツイッターの機能不全といえば、写真があげられなくなったのだ。FBでは、ちゃんと機能するのだけれど。

『続 一年一組 せんせい、あのね』を読み終わった。読んだ記憶のある詩がいっぱいあって、やっぱり、この本、読んだことがあるねんなあと思った。ドキッとした詩は、いま読んでもドキッとするし、感心した詩は、いま読んでも感心した。これから寝る。おやすみ。

二〇一八年一月十一日 「白湯」

1月10日で、57歳になりました。情けない57歳ですが、よろしくお願いしますね。

白湯を飲んでいる。ジジイになった気分で、寝るまえの読書は、ジョルジュ・ランジュランの短篇集『蠅』のつづきを。まだ冒頭の「蠅」を読んでいる。白湯のお代わりをして、つづきを読もう。おやすみ、グッジョブ!

二〇一八年一月十二日 「蠅」

ジョルジュ・ランジュランの『蠅』を再読したけれど、映画の方がよかったかな。でもまあ、きょうは、そのつづきから読んで寝る。おやすみ。

日曜日にデートの予定だったが、前倒しして、あしたになった。きょうは早めに寝なくてはならない。ジョルジュ・ランジュランの短篇集『蠅』も、3つばかり読んだ。冒頭の「蠅」以外は、ふつう小説かな。

二〇一八年一月十三日 「言葉」

数え切れないほど数多くの人間の経験を通してより豊かになった後でさえ、言葉というものは、さらに数多くの人間の経験を重ねて、その意味をよりいっそう豊かなものにしていこうとするものである。言葉の意味の、よりいっそうの深化と拡がり!


二〇一八年一月十四日 「おうみん」

きょうは、滋賀県のおうみんというお店に、Tくんが連れて行ってくれました。湖畔のカフェにも連れて行ってくれました。すてきなレストランとすてきなカフェ、Tくん、ありがとう。きょうも、すてきな一日を過ごせました。

ぼくは同志社を出たけれど、(大学院も同志社だけれどね)、同志社文学なるものから、一度も原稿依頼をされたことがない。三田文学とえらい違いである。

きょうもランジュランの短篇集『蠅』のつづきを読みながら眠るとしよう。おお、マリア、きょうも、一日、ぼくの一日はおだやかでありました。あしたもまたおだやかでありますように。

二〇一八年一月十五日 「考えるロボット」

ツイッターにコピペしようとしても、できなくなった。つぎつぎツイッターの機能が不全になっていく。このあいだ、ひさびさに画像を入れられたけれど、いまではまったく画像がアップできなくなっている。FBはまったく問題がない。

きょうの寝るまえの読書は、ランジュランの短篇集『蠅』のさいごに収録されている「考えるロボット」。時間があれば、シャーリイ・ジャクスンの短篇集『くじ』にするつもり。

二〇一八年一月十六日 「世界」

この世界の在り方の一つ一つが、一人一人の人間に対して、その人間の存在という形で現われている。もしも、世界がただ一つならば、人間は、世界にただ一人しか存在していないはずである。  

二〇一八年一月十七日 「いい作品」

どうやら、ぼくの見る目はかなり厳しくなっているようだ。早川書房の異色作家短篇集で見ると、一冊に一作くらいしか、いい作品がないのである。このシリーズの再読が終わったら、河出書房新社の奇想コレクションのシリーズを再読するつもりだけれど、順序を逆にした方がよかったかもしれない。それにしても、ジョルジュ・ランジュランの短篇集『蠅』に収録されていた「考えるロボット」、ぜんぜん意味がわからないあらすじで、これからちょっと読み直して、自分のこころを落ち着けようと思うのだけれど、それにしても、ずいぶんひどい作品だったなあと思う。読み返すぼくもおかしいのだけれど。

二〇一八年一月十八日 「くじ」

なぜだかわからないけれど、美術手帖さんがフォローしてくださったのでフォローしかえしておいた。

画家になるのが夢だったからかもしれない。詩人なんてものになってしまったけれど。

きょうは幾何の問題で一問、解けなかったものがある。あした取り組む。

解けなかった幾何の問題が解けてほっとしている。補助線の問題なのだな。単純な問題だった。解けたあとでは、いつも、そう思う。

シャーリイ・ジャクスンの短篇集『くじ』を読んでる。どの短篇も文章がしっかりしている。読んで損はない。だけれども、おもしろいかと問われれば、いいえと言わざるを得ない。なんなんだろう。この感じは。うまいのだけれど、おもしろくないのだ。うううん。ぼくの目が厳しくなったのだろうか。

けさ見た夢はマンガのようだった。あした、書き込もう。おやすみ。

二〇一八年一月十九日 「夢」

きのう、見た夢。大洪水の連続で都市は水没している。上流は上流階級の人間が、下流は下層階級の人間が住んでいる。お金持ちの子どもはボートで、貧乏人の子どもは泳いで学校に通う。電話ボックスのなかで、少女が叫んでいる。なんでわたしは30もバイトをしなきゃなんないのよ。その生徒はテレフォンセックスの広告に目をやる。それを同級生の女の子が見てる。弁当箱をもって弁当がダメになっちゃった〜と叫ぶ男子生徒。ジャンボ赤ちゃん。下流の人間が上流の人間の子をさらって巨大化した赤ちゃん。足の裏には濡れてもにじまないペンで住所が書かれている。

雨は太陽に殺された死体だ。

二〇一八年一月二十日 「炎のなかの絵」

寝るまえの読書は、シャーリイ・ジャクスンの短篇集『くじ』のつづきを。いま半分くらいのところだ。とにかく文章がうまい。P・D・ジェイムズと同じく、描写がすごくうまい。ただ、読後に読んだ物語を忘れてしまうところが難点だ。そこんところ、短篇小説のいいところが抜け落ちているような気がする。

シャーリイ・ジャクスンの『くじ』おもしろくて、徹夜して、さいごに収録されている「くじ」まで読んでしまった。といっても、どうせ、タイトル作品の「くじ」しか、あしたになって憶えているものはないんだろうけれど。あ、誤植があった。271ページ上段うしろから5行目「気持ち襲われる」 これはもちろん「気持ちに襲われる」だろうね。校正、しっかりしてやってほしいね。名著の復刊だものね。

きょうからの再読は、早川書房の異色作家短篇集シリーズ・第七弾、ジョン・コリアの『炎のなかの絵』。コリアといえば、違う短篇集を読んだことがあるのだけれど、残酷ものが多かったような気がする。ひとつしか覚えてないけど。この短篇集は一作も読んだ記憶がない。タイトル見ただけではね。いま読んでいる、ジョン・コリアなんていうと、めっちゃ古臭くて、読んでるなんて言うと、バカにされそうだけど、まあ、いいや。シェイクスピアやゲーテが、ぼくの読書の源泉だから、ジョン・コリアなんて新しいほうだと思う。まだね。シェイクスピアやゲーテに比べてね。

あしたデートだ。うひゃ〜。クスリのんではやく寝よう。

二〇一八年一月二十一日 「断章」


なぜ人間には心があり、物事を考えるのだろう?
(イアン・ワトスン『スロー・バード』佐藤高子訳)

心は心的表象像なしには、決して思惟しない。
(アリストテレス『こころとは』第三巻・第七章、桑子敏雄訳)

二〇一八年一月二十三日 「断章」

われわれはなぜ、自分で選んだ相手ではなく、稲妻に撃たれた相手を愛さなければならないのか?
(シオドア・スタージョン『たとえ世界を失っても』大森 望訳)

光はいずこから来るのか。
(シェリー『鎖を解かれたプロメテウス』第二幕・第五場、石川重俊訳)

わが恋は虹にもまして美しきいなづまにこそ似よと願ひぬ
(与謝野晶子)

二〇一八年一月二十四日 「血は冷たく流れる」

いま日知庵から帰ってきた。きょうから寝るまえの読書は、早川書房の異色作家短篇集の第8巻のロバート・ブロックの『血は冷たく流れる』である。ブロックの短篇集はもう1冊、文庫で持ってたけれど、おもしろかったような気がする。1作しか覚えていないけれど。この短篇集の再読はどだろ。いいかな。

ジョン・コリアの短篇集はよかった。傑作というものはなかったけれど、どれも滋味のある、いい品物だった。

二〇一八年一月二十五日 「ル・グウィン」

アーシュラ・K・ル・グウィンが亡くなったという。本物の作家がひとり亡くなったということだ。すでに本物の作家がほとんどいなくなったこの世界で。

きょう、日知庵で、えいちゃんのツイートを見てて、ぼくのとえらい違うなあと言った。かぶってるひとって、ひとりかふたりくらいしかいないんじゃないのかな。見える風景がまったく違っていて、びっくりした。

これから読書。寝るのが遅くなった。ロバート・ブロックの短篇集『血は冷たく流れる』を読む。冒頭の作品は、きのう読んだのだけれど、もうタイトルも内容も忘れている。おお、このすさまじき忘却力よ。あなどりがたき忘却力よ。

二〇一八年一月二十六日 「断章」

一つ一つのものは自分の意味を持っている。
(リルケ『フィレンツェだより』森 有正訳) 
 
その時々、それぞれの場所はその意味を保っている。
(リルケ『フィレンツェだより』森 有正訳) 

二〇一八年一月二十七日 「断章」

われわれのあらゆる認識は感覚にはじまる。
(レオナルド・ダ・ヴィンチ『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』人生論、杉浦明平訳)

二〇一八年一月二十八日 「ひる」

きょうから再読は、早川書房の異色作家短篇集・第9弾の、ロバート・シェクリイの『無限がいっぱい』。SF作家だからSFを期待している。もう2篇、読んだけど、「ひる」なんて、ウルトラQの『バルンガ』そのものじゃん。これは憶えていた。

いまも本棚に並んだ本を抜き出しては表紙を眺めて、ああ、おもしろい本だったなと思って文庫本をつぎつぎ手にしては、本棚に戻してる。ぼくは本が好きだけど、もしかしたら本の内容より本の表紙のほうが好きなのかもしれない。

二〇一八年一月二十九日 「草野理恵子さん、廿楽順治さん」

草野理恵子さんから『Rurikarakusa』の7号を送っていただいた。収録されている「望遠鏡」という作品には、江戸川乱歩を髣髴とさせるタイトルのように、不気味な世界が描かれていた。最終連で、世界を覗く二種類の「望遠鏡」の提示に驚かされた。世界の選択か、と感慨深いものがこころのなかに生じた。もう一篇収録されている草野理恵子さんの作品「缶詰工場」も、アイデアが秀逸で、ぼくが草野さんをうらやましく思う理由のひとつだ。

廿楽順治さんから、『Down Beat』の11号を送っていただいた。収録されている廿楽さんの「大森貝塚」と「高幡不動様」を読ませていただいた。言葉が自在だなという印象を受ける。うまいものだなと思う。ぼくも自在に言葉を操ってみたいなと思った。どこからアイデアが浮かぶのだろう。不思議に思う。


二〇一八年一月三十日 「蝸牛。」

雨に触れると雨になる蝸牛。

二〇一八年一月三十一日 「美術手帖」

いま、美術手帖の編集長の柿下奈月さんにメールをお送りしたのだけれど、雑誌の編集のお仕事はたいへんだなと改めて思わされた。来月の2月17日に販売される雑誌の「美術手帖」の3月号が「ことば」の特集号で、ぼくの詩が採り上げていただけるのだけれど、メールのやりとりだけでも何十人となさっておられるのだと思うと、気が遠くなるような気がして、雑誌の編集って、すごいたいへんなお仕事だなって思った。ぼくも、同人誌の Oracle の編集長をしていて、何万枚ものコピーをして、それを上梓するために印刷所に持って行ったりしていたことがあるけれど、いま思い出しても、ぞっとする経験だった。

『マールボロ。』は、シンちゃんに、東京にいたときの思い出をルーズリーフに書いてと言って書いてもらった言葉を、ぼくが切り刻んでつないだだけの作品で、引用だけでつくった詩のなかでもとくべつな作品だった。それを読んだシンちゃんの感想は、「これはオレじゃない。」だった。詩論の核になった。『マールボロ。』は、ぼくの詩論の出発点になった作品だった。抽出する思い出の選択の違いや、その思い出たちの順番を替えただけで、別の人間になるんだね。何人ものぼく、何人ものきみがいるってことだね。いくつもの作品が同時に仕上がるってこと。『順列 並べ替え詩。3×2×1』のようにね。いや、違う。違う、違う。それは、作品上のことだけで、人生そのものは、時間の順番も、場所の順番も、出来事の順番も一つしかない、一回きり、一度きりの、ただ一つのものだったね。そう。人生と作品は区別しなきゃいけないね。あれ? それとも区別できないものなのかな。むずかしいね。どだろ。そいえば、このことを「万華鏡」にたとえて書いたことがあったな。鏡の筒のなかに入った、いろいろな色の、いろいろな形のプラスチック片が、筒を動かすたんびに、いろいろな景色をつくりだすのを眺めているのと比べたことがあったな。どれくらいむかしに書いたっけ。忘れちゃったな。10年、20年、まあ、そんなくらいのむかしのことだったと思うけど。なにに書いたっけ。詩論詩集の『The Wasteless Land.II』だったかな。いや、まだ未発表の詩論詩だったかな。なぞだ。あまりにも、たくさん書きすぎて、わからなくなっている。まあ、いいや。未発表の詩論詩たちも、そのうち文学極道に投稿しよう。

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