二〇一七年六月一日 「擬態」
ジョー・ホールドマンの『さらば ふるさとの惑星』ちょっと読んだ。ちょっと読んでも、ヴォクトの2冊の本よりはよいことがわかる。ヴォクト、非Aシリーズが傑作だった印象があるので、さいきん読んだヴォクト本にがっかりしたのは、自分でもずいぶんと驚いている。非Aシリーズを再読しないかも。
人生において重要なのは、下手に勝つことよりも、いかに上手に負けるかである。うまく負けるのに、とびきり上等な頭が必要なわけではない。適度な考える力と、少々の思いやりのこころがありさえすればよい。ただ、この少々の思いやりのこころを持つというのが、人間の大きさと深さを表しているのだが。
休みの日は、だらだらと寝ているか、小説を読んだり、ときには詩集をひもといたりしているか、まあ、自堕落な時の過ごし方をしているが、いま読んでいるジョー・ホールドマンの『さらば ふるさとの惑星』は読みごたえがある。ホールドマンの作品は、一作をのぞいて、すべて傑作だったと思う。
その一作って、タイトルも忘れてしまったけれど、ほかの作品は、みな傑作であった。その一作は、文庫にもならなかったもので、といえば、この『さらば ふるさとの惑星』も文庫化していないけれど、その一作も叙述はしっかりしていたし、おもしろくなかったわけでもないけれど、さいごの場面が安易で、ぼくの本棚に残しておく価値はないと判断したのであった。まあ、このあいだ読んでた、二冊のヴァン・ヴォクト本に比べれば、読み応えがあったけれども。いま読んでる『さらば ふるさとの惑星』って上下二段組みなので、字がびっしりって感じで、今週中に読み終えられるかどうかってところ。どだろ。
そろそろクスリをのんで眠りにつく。寝るまえの読書も、ひきつづき、ジョー・ホールドマンにする。サリンジャーの短篇集『倒錯の森』も寝具の横に置いてあるのだけれど、なかなかつづきを読む気が起こらない。まあ、そのうち、SFにまた飽きたら、純文学にも手を出すだろうとは思うのだが。おやすみ。
うわ〜。大雨が突然、降りはじめた。雷も鳴っている。ただ一つ、えいちゃんの仕事帰りが心配。それにしても、きつい雨の音。すさまじい勢いだ。急いでベランダにある干し物を取り入れた。雨は浄罪のシンボルだけれど、さいきん罪を犯した記憶はないので、過去の自分の過失について思いを馳せた。
クスリがまだ効かない。雨が小降りになってきた。ジョー・ホールドマンも、ぼくがコンプリートに集めた作家や詩人のひとりだが、最高傑作は、『終わりなき平和』だろう。ぼくが、手放したホールドマンの本は『擬態』だった。叙述は正確そのものだったのだが、さいごの場面がなぜかしら安易だったのだ。
二〇一七年六月二日 「さらば ふるさとの惑星」
ジョー・ホールドマンの『さらば ふるさとの惑星』半分くらい読んだ。だんだん政治的な話になっていくところが、ホールドマンらしい。つづきを読もう。
あした午前に仕事があるので、お酒が飲めず、あてだけを食べている、笑。焼き鳥、枝豆、にぎり寿司。
きょうも一日、楽しかった。いろいろあるけれど、ぜんぶのみ込んじゃって、楽しめるようになったかな。これからクスリのんで寝る。といっても、一時間近く、眠れないで読書するだろうけれど。ジョー・ホールドマンの『さらば ふるさとの惑星』付箋だらけ。やっぱり、ホールドマンの言葉は深い。
二〇一七年六月三日 「さらば ふるさとの惑星」
仕事に。きょうは、夕方から日知庵で飲む予定。
いったん仕事から帰ってきて、読書のつづきをしている。夕方にお風呂に入って、日知庵に飲みに行く予定。
いま日知庵から帰ってきた。きょうもヨッパ〜。いまからFB、文学極道の詩投稿掲示板を見に行ってくる。
きょうも、寝るまえの読書は、ジョー・ホールドマン。やっぱり哲学があって、叙述力がある作家だと思う。『擬態』はよくなかったけれどね。叙述力はあっても、さいごの場面が安易すぎた。残念。それ一作以外、みな傑作なのに。
クスリのんで横になる。横になって、ジョー・ホールドマンの『さらば ふるさとの惑星』のつづきを読む。これって、Amazon で見たら、200円台で売ってるんだよね。びっくり。よい作品が安い値段で出てるってのは、ぼくはよいことだと思う。
二〇一七年六月四日 「さらば ふるさとの惑星」
きょうは、昼に大谷良太くんとビールを飲んで、夕方から日知庵でビールを飲んで、文学をまったくしていなかったので、きょうは、これから寝るまで、ジョー・ホールドマンの『さらば ふるさとの惑星』のつづきを読む。いま199ページ。あと65ページある。読み切れないだろうけれど、がんばる。
二〇一七年六月五日 「さらば ふるさとの惑星」
ジョー・ホールドマンの『さらば ふるさとの惑星』を読み終わった。あしたの昼に、ルーズリーフ作業をしよう。ぜんぶでメモした箇所が13カ所。あまり、いい数字じゃないな、笑。でも、こころをこめて、ていねいにルーズリーフに書き写すことによって、きっとぼくの潜在自我が吸収してくれると思う。
クスリのんで寝ます。あしたは笹原玉子さんと、笹原玉子さんが連れてこられるゲストの方(まだお名前を教えていただいていない)と、3人で、夕方5時に、きみやで食事をすることになっている。3人の平均年齢が、およそ70歳くらいなのだ。どんな会話になりますことか、チョー楽しみにしています。
寝るまえの読書は、ひさびさに、サリンジャーの短篇集『倒錯の森』のつづきから。
二〇一七年六月六日 「笹原玉子さん」
いま起きた。休みの日は、たいていこの時間くらいに起きだす。さて、コーヒーとサンドイッチでも買ってお昼を食べてから、ジョー・ホールドマンの『さらば ふるさとの惑星』のルーズリーフ作業をしよう。夕方からは笹原玉子さんたちと河原町で食事だ。
ジョー・ホールドマンの『さらば ふるさとの惑星』のルーズリーフ作業が終わったので、あと一時間ほど、サリンジャーの短篇集『倒錯の森』のつづきを読もう。まだ2篇目だけれど。
いまから河原町へ。平均年齢70歳の3人が、めっちゃモダンな居酒屋さんへ。きみやヘ、ゴー!
いま、きみやから帰ってきた。笹原玉子さんと、お酒を飲んでいた。もうおひとりの方は来られなかった。文学の話をいっぱいして楽しかった。京都に来られたのが、じつは彼女の玲瓏賞の授賞式だったからだと聞いて、喜んだ。
帰りに、西院駅のまえのビルの2階にある「あおい書店」で、文庫本を3冊買った。ハーラン・エリスンの『死の鳥』と『ヒトラーの描いた薔薇』と、ロバート・F・ヤングの『時をとめた少女』である。エリスンの『死の鳥』は、出たときにも買ったのだが、さいしょの2篇があまりにも駄作だったので、破り捨てたのだけれど、あとで、タイトル作が名作だと聞いて、そのうち、買い直そうと思っていたもの。『ヒトラーの描いた薔薇』は、いま出たとこなのかな。平積みされていたので買った。ヤングはもう仕方ないね。買って読んで捨てるってパターンの作家だな。でも、いちおう全作、読んでるんだな。
きょうは寝るまで、ヤングの短篇集『時をとめた少女』を読もうと思う。
ヤングの短篇集『時をとめた少女』を91ページまで読んだ。わくわく感はない。安定した叙述力は感じるが、ただそれだけだ。しかし、せっかく買った、ひさしぶりの新刊本なのだから、さいごまで読もうとは思う。木曜日までには読み終えて、ハーラン・エリスンの『ヒトラーの描いた薔薇」を読みたい。
二〇一七年六月七日 「時をとめた少女」
ロバート・F・ヤングの短篇集『時をとめた少女』を読み終わった。ヤングらしくないさいごの2篇がよかった。とくに、さいごに収録されている「約束の惑星」はさいごのどんでん返しに感心した。冒頭の「わが愛はひとつ」はいつものヤング節かな。「妖精の棲む樹」と「花崗岩の女神」は同様の設定だったが、こういう方向もあったのだと、ヤングを見直した。短篇集として、『時をとめた少女』は、5点満点で3点というところか。まあ、普通だったかな。でも、一か所、ぼくが死ぬまでコレクションしつづけるであろう詩句を、「花崗岩の女神」IIのなかに見つけた。ひさびさのことで、ちょこっと、うれしい。
「きみの名前は?」(ロバート・F・ヤング『花崗岩の女神』II、岡部宏之訳、短篇集『時をとめた少女』174ページ・5行目)
しかし、このヤングの短篇集の『時をとめた少女』の表紙、どうにかならんか、笑。
いま日知庵から帰ってきた。きょうから、ハーラン・エリスンの短篇集『ヒトラーの描いた薔薇』を読む。きょうは、解説だけかな。
二〇一七年六月八日 「ヒトラーの描いた薔薇」
いま起きた。休みの日はこんなもの。読書しよう。ハーラン・エリスンの短篇集『ヒトラーの描いた薔薇』。
きょうは、ハーラン・エリスンの短篇集『ヒトラーの描いた薔薇』を読んでいた。いま、236ページ。読書疲れだろうか。目がしばしばする。もうちょっと読んだら、クスリのんで寝よう。おやすみ、グッジョブ!
二〇一七年六月九日 「法橋太郎さん」
ハーラン・エリスンの短篇集『ヒトラーの描いた薔薇』を読み終わった。5点満点中3点といったところか。まあ、同じ3点でも、ロバート・F・ヤングの短篇集『時をとめた少女』より、おもしろくは思えたけれども。
いま目次見て、どれがおもしろかったか、書こうとして、半分くらい話を憶えていないことに気がついて、すごい忘却力だと思った。まあ、おもしろいと思ったのは、「解消日」、「大理石の上に」、「睡眠時の夢の効用」くらいかな。
きょう、ブックオフで、108円だからという理由だけでほとんどだけど、2冊、買った。創元SF文庫から出てるジェフ・カールソンの『凍りついた空━エウロパ2113━』と、創元推理文庫から出てるピーター・ヘイニング編の短編推理アンソロジー『ディナーで殺人を』下巻。下巻がおもしろかったら、Amazon で上巻を買おう。いくら本を処分しても、本が増えていく。不思議ではないけれど、そういう病気なのだろうと思う。まあ、読書が生きがいだから、仕方ないけどね。
帰ってきたら、郵便受けに、法橋太郎さんから詩集『永遠の塔』を送っていただいていた。表紙の絵がいいなと思ったら、装幀がご本人によるものだった。冒頭の詩「風の記憶」にある「死ぬまで爪を切りつづける。」という詩句に目がとまる。つぎつぎと収録作を読んでいく。「幻の群猿」という詩を読むと、「四方に網を掛けた。執着の網を掛けた。猿の類がかかった。おれもまたそうだったが、執着の曲がった視線でしかものを見られない猿たちがいるのだ。」という冒頭の詩句に目がとまった。「死ぬまで爪を切りつづける。」という詩句の具象性と、「四方に〜」という詩句における抽象性と、詩人というものは両極を行ったり来たりする存在なのだなと思った。現在のぼくは、ひたすら具象性を追求する方向で作品を書いているのだが、法橋太郎さんの書かれた詩句のような抽象性も持たなければいけないなと思った。
二〇一七年六月十日 「武田 肇さん」
日知庵から帰ってきて、郵便受けを見ると、武田 肇さんから、自撰句集『ドミタス第一號』を送っていただいてた。ぼくの好みは、「雲はいつの雲にもあらず雲に似る」、「形あるものみな春ををはりけり」、「足のうら足をはなれてはるのくれ」といった句である。ひとは自分に似たものを好むというアリストテレスの言葉を思い出した。ぼくには、ここまで圧縮できないと思うけれど、自分が考えていることに近いというか、そんな気がする句が好きなようだ。俳句というのは、世界でもっとも短い詩の定型詩だと思うけれど、そこで残るような作品をつくることは、ほんとうにむずかしいことだと思う。むかし集中して俳句を勉強したけれど、いまでも、すっと記憶に出てくるものは10句もない。ルーズリーフに書き写している俳句も200句か300句ほどしかないと思う。武田 肇さんの俳句を味わいつつ、俳句そのものの形式について考えさせられた。ぼくが書くには極めて圧縮された形式でむずかしい。
武田 肇さんの俳句を読み終わったので、きょうの残った時間は、ハーラン・エリスンの短篇集『死の鳥』のつづきを読んで寝よう。おやすみ、グッジョブ!
二〇一七年六月十一日 「死の鳥」
ハーラン・エリスンの短篇集『死の鳥』を読み終わった。SFって感じがあまりしなかった。どちらかといえば、幻想文学かな。よいなと思った作品は、「ジェフティは五つ」と「ソフト・モンキー」。「ソフト・モンキー」はまったくSFとは無縁の作品。それはもう幻想文学でもない、普通の小説だった。アイデアとしては、未来人との絡みで、ジャック・ザ・リッパーを扱った「世界の縁にたつ都市をさまよう者」が印象的だったかな。あと、「プリティ・マギー・マネーアイズ」も印象に残ったかな。タイトル作の「死の鳥」はまったく意味がわからなかった。「「悔い改めよ、ハーレクイン!」とチクタクマンはいった」と「おれには口がない、それでもおれは叫ぶ」は、以前に読んだ記憶がある。どちらも古いSFを読み直しているような気がしたが、前者がオーウェルの『1984年』や、ザミャーチンの『われら』に通じるものだったという記憶がなかったので、そこは意外だった。後者の記憶はほとんどなかったのだが、なんだか、エリック・F・ラッセルか、クリフォード・シマックの短篇を読んだかのような読後感を持ってしまった。まあ、いずれにしても、50年代のSFって感じだった。でも、いま解説を読むと、前者は1965年に、後者は1967年に発表されたものだった。ぼくの1950年代のSF感が間違っているのかもしれない。河出文庫から出ている年代別の短篇SFアンソロジーで調べてみよう。『20世紀SF(2) 1950年代 初めの終わり』と『20世紀SF(3) 1960年代 砂の檻』の目次を見比べた。そうだな。やはり、エリスンのは50年代のほうに近いかなと思った。1960年代は、SFにおいては、ニュー・ウェイヴの時代だものね。短篇集のタイトル作品がニュー・ウェイヴっぽいかなと思ったけれど、ぼくには意味不明の作品だった。2つの話を一つにしたってだけの感じしかしなかった。幻想文学の諸知識と安楽死というものを無理に一つにした小説だね。
二〇一七年六月十二日 「潜在自我」
きょうはずっと読書している。ときどき、コーヒーを淹れるくらい。ぼくの人生、あとどのくらい本が読めるのだろうか。まだまだたくさんの未読の本が棚にある。それでも、新刊本も買うし、ブックオフで読んでいない古いものも買う。ぼくが本に投資しているのと同様に、本もぼくに投資してくれてのかしら。
まあ、全行引用詩に貢献してくれているし、なにより、ぼくの潜在自我や建材自我の形成に大きく寄与しているだろうから、ぜんぜん無駄ではないね。しかし、傑作は多いけれど、ゲーテの『ファウスト』やシェイクスピア級の傑作は、それほど多くない。とはいっても、SFで20作くらいはありそうだけど。
二〇一七年六月十三日 「凍りついた空━エウロパ2113━」
きょう、一日かかって、ジェフ・カールソンの『凍りついた空━エウロパ2113━』を読んでいたのだが、で、いま読み終わったのだが、26ページの記述から以後の記述とのつながりがいっさいなくて、さいごまで読んだのに、なんだか騙されたかのような気がした。作者のミスだと思うが、話の筋自体に、整合性のないものは、いくらSF小説とはいっても許されるべきものではないと思われるのだが、いかがなものであろうか。不条理小説ではなく、どちらかといえば、ハードSFに分類されるような専門用語と設定で押しまくられて、さいしょの疑問がどこでも解かれていないなんて、ひどい話だと思う。ぼくが読んだ長篇SFのなかで、いちばんひどかったのではないかと思う。ちなみに、ぼくの記憶は都合がよくできていて、ひどいものは忘れるのがはやいので、これ以外に、ひどい長篇SFをいま思い出すことはできないのだけれど。というのも、いま部屋の本棚にあるものは傑作ばかりなので思い出せない。しかし、このSF小説のカヴァーはひどいね。芸術的なところが、いっさいないのだね。まあ、さいきんのハヤカワ、創元のSF文庫の表紙の出来の悪さは、経費削減のためなのか、あまりにシロート臭くてひどいシロモノばかりだ。
今晩から、ピーター・ヘイニング編の短篇ミステリーのアンソロジー『ディナーで殺人を』下巻を読む。でももう、きょうは、だいぶ、遅いね。クスリをのんで横になって読もう。12時半くらいには寝たいのだが、どこまで読めるだろうか。さっき、『凍りついた空』読み直ししたけど、やっぱりひどいわ。
二〇一七年六月十四日 「風邪」
いま学校から帰った。風邪を引いたみたいだ。咳がするし、熱もある。きょうは、このまま横になって寝ておくことにする。
二〇一七年六月十五日 「風邪」
風邪がひどい。風邪クスリのんでずっと寝てる。
二〇一七年六月十六日 「風邪」
風邪がよりひどい。きのう、きょうと、学校の授業がなかったので、ずっと部屋で寝込んでいる。あした午前に、一時間の授業があるので、そこをどうやりくりするかである。声が出なかった場合、どうするか。むずかしい。やっぱり、仕事は体力がいちばん大切だなと実感している。いまも熱で朦朧としている。風邪にはよくないと思いながらも、横になって読書をしていた。ピーター・ヘイニング編の短篇推理小説アンソロジー『ディナーで殺人を』下巻の315ページを読んでいたら、ぼくがコレクトしている言葉にぶちあたった。「きみの名前は?」(レックス・スタウト『ポイズン・ア・ラ・カルト』小尾芙佐訳)
短編推理小説のアンソロジー『ディナーで殺人を』下巻を読み終わった。風邪がひどい状態なので、頭痛がしつつも、痛みが緩慢なときに、ここ数日、読んでいた。つぎには、なにを読もうか。きょうは、もうクスリをのんで寝るけれど、寝るまえの読書はサリンジャーの短篇集『倒錯の森』のつづきにしよう。
二〇一七年六月十七日 「澤 あづささん」
澤 あづささんが、ブログで、拙作『語の受容と解釈の性差について━━ディキンスンとホイットマン』を紹介してくださっています。
二〇一七年六月十八日 「グリーン・マン」
いま日知庵から帰った。きょうは5時から、日知庵に、9時すぎに、きみやに、また10時30分ころに、日知庵に飲みに行ってた。風邪でめまいもしてたけれど、風邪などお酒で吹き飛ばしてやれという気で飲みに行った。いま、めまいがしながらも、いい感じである。風邪はたぶんひどいままだろうけれど。
で、一回目の日知庵では、大谷良太くんと出会い、二回目の日知庵では、東京にいらっしゃってて、京都に来られたとき、たまたま横でお話させていただいただけなのに、目のまえで、Amazon で、ぼくが2014年に思潮社オンデマンドから出した詩集『LGBTIQの詩人たちの英詩翻訳』と、『全行引用詩・五部作』上巻を、即、買ってくださった方とお会いしたのであった。大谷良太くんとも、そうだし、その方とも、そうだけど、なにか運命のようなものを感じる。まあ、勝手に感じてろって自分でも思うところはあるのだけれど、笑。出会いと人間関係なんて、どこで、どうなるか、わかんないものね。
きょう、寝るまえの読書は、キングズリイ・エイミスの『グリーン・マン』。どこがSFなのか、まだ26ページ目だけれど、さっぱり、わからない。居酒屋けん宿屋の主人の一人称形式の物語。幽霊の話が出てくるのだけれど、ブライアン・W・オールディスが、この作品をベタ褒めしていた記憶があって、エイミスといえば、サンリオSF文庫の『去勢』や、彼は詩人でもあって、アンソロジストでもあるのだけれど、彼が編んだ『LIGHT VERSE』を思い出す。お酒の本も出してたと思うけれど、手放してしまった。キングズリイ・エイミスもゲイだったのだけれど、『LIGHT VERSE』にも、ゲイの詩人やレズビアンの詩人のもので、おもしろいものがたくさんあったと記憶しているのだけれど、そいえば、さいきん、英詩を翻訳してないな。
あかん。まだ熱がある。咽喉も痛い。クスリのんで横になろう。あしたは、神経科医院に行く日。3時間待ちか。しんどいな。仕方ないけど。おやすみ、グッジョブ!
二〇一七年六月十九日 「自費出版」
いま神経科医院から帰ってきた。きょうは、もう横になって、風邪の治りを待つだけ。エイミスの『グリーン・マン』いま80ページほど。ていねいな描写なので、疲れない。P・D・ジェイムズのようなていねいさではない。彼女のていねいさは狂気の域に達している。まあ、ぼくはぜんぶ読んだけど、天才。
キングズリイ・エイミスの『グリーン・マン』 いま152ページ。これって、SFじゃなくて、幽霊話なんだね。しかも、主人公が人妻と浮気して、自分の妻との3人でのセックスの提案をしつづけていたりという、エロチック・怪奇小説って感じ。エイミスって、一流の作家だと思っていたので、びっくり。まあ、いま書いて自分の意見を否定するのだけれど、そんな題材で小説が書けるのだと、いまさらながら気が付けさせられた。そういう意味では、ぼくも死ぬまでに書きたい小説があって、そろそろ手をつけるときかなって思っているのだけれど、構想だけにすでに数年の時間を費やしている。
チューブで、ホール・マッカートニーのトリビュートを見てたんだけど、まえのアメリカの大統領と同席して、ポール自身が見てたんだけど、ポールが一瞬のあいだも見逃さないようにステージを見つめてたとこに、なんだか、こころにぐっとくるものがあった。音楽で食べてるひとたちもいる。あきらめたひとたちもいる。ぼくも結局、詩集を出すのに1500万円くらいかけたけれど、1円も手にしていない。ほんとうに趣味なのだ。しかも、これからさきも死ぬまで1円も手にしないだろう。永遠のシロートである。しかし、詩人はそんなものであってもよいと思っている。むしろお金を儲けない方がよいとすら思っている。ほかにきちんと仕事を持っているほうが健全だと思っている。賞にもいっさい応募しないので、だれにおもねることもない。献本もしないので、ぼくの詩集を持っているひとは、みな、ぼくの詩集を買ってくださった方だけである。このきわめて健全な状態は、死ぬまで維持していきたいと思っている。
二〇一七年六月二十日 「エヴァが目ざめるとき」
ピーター・ディキンソンの『エヴァが目ざめるとき』を読み終わった。彼の作品にしては、毒がないというか、インパクトがないというか、それほどおもしろい作品ではなかった。亡くなりかけた娘の記憶を猿に記憶させて云々というゲテモノじみた設定の物語ではあるが、児童書のような印象を持った。
二〇一七年六月二十一日 「源氏の気持ち」
源氏の気持ちのなかには、奇妙なところがあって、衛門督の子を産んだ二条の宮にも、また衛門督にも、憎しみよりも愛情をより多くもっていたようである。いや、奇妙なことはないのかもしれない。人間のこころの模様は、このように一様なものではなく、同じ光のもとでも、さまざまな色とよりを見せるものであろうし、まして、違った光のもとでなら、まったく異なった色やよりを見せるものなのであろう。源氏物語の「柏木」における多様な性格描写が、ぼくにそんなことを、ふと思い起こさせた。
二〇一七年六月二十二日 「まだ風邪」
いま日知庵から帰った。風邪、まだ直っていないが、という話を日知庵でしたら、お友だちから、「肝臓がアルコールを先に処理するので、風邪を治すのはあとになるよ。風邪を治すのにお酒はよくないよ。」と言われて、ひゃ〜、そうやったんや。と思うほど、身体の生理機能について無知なぼくやった。Tさん、貴重な情報、ありがとうございました。きょうは焼酎のロック2杯でした。2杯で、ベロンベロンのぼくですが。うううん。寝るまえの読書は、キングズリイ・エイミスの『グリーン・マン』あとちょっと。きょうじゅうか、あしたのうちには読み切れる。さいご、どうなるか楽しみ。幽霊話だけどね。
キングズリイ・エイミスの『グリーン・マン』を読み終わった。読む価値は、あまりなかったようなシロモノだった。ブライアン・オールディスは絶賛していたけれど、どこがよかったのだろう。よくわからず。まあ、さいごまで読めたので、叙述力はあったと思うのだけれど、そこしかなかったような気もする。
ここ連続、あまりおもしろくない本を読んでいたので、ここらで、おもしろい本と出くわしたいのだけれど、どうだろうね。
二〇一七年六月二十三日 「敵」
敵だと思っている
前の職場のやつらと仲直りして
部屋飲みしていた。
膝が痛いので
きょうは雨だなと言うと
やつらのひとりに
もう降っているよと言われて
窓を開けたら
雨が降っていたしみがアスファルトに。
でも雨は降っていなかった。
膝の痛みをやわらげるために
ひざをさすっていると
目が覚めた。
窓を開けると
いまにも降りそうだった。
この日記を書いている途中で
ゆるく雨の降る音がしてきた。
二〇一七年六月二十四日 「双生児」
きょうは、食事をすることも忘れて、一日じゅう読書をしていた。いまから寝るまでも、本を読むつもりだけれど。これまた、ぼくがコンプリートに集めた作家、クリストファー・プリーストの『双生児』本文497ページの、とても分厚い単行本なので、今週ちゅうに読み終えられればいいのだけれど。
二〇一七年六月二十五日 「いっこうに治らない風邪」
いっこうに風邪が治らず、きょうは読書もせず、ずっと寝ていた。あしたは、ちょっとは、ましになってるかな。
二〇一七年六月二十六日 「秋山基夫さん」
秋山基夫さんから『月光浮遊抄』を送っていただいた。いま自分が来年に出す詩集の編集をしていて、『源氏物語』を多々引用しているためか、秋山さんの詩句に『源氏物語』の雰囲気を重ねて読ませていただいていた。そのうえで、送っていただいたご本の第二次世界大戦時の記述が混じって、その違和感がおもしろかった。
二〇一七年六月二十七日 「若菜」
(…)院も時々扇(おうぎ)を鳴らしてお加えになるお声が昔よりもまたおもしろく思われた。すこし無技巧的におなりになったようである。
(紫式部『源氏物語』若菜(下)、与謝野晶子訳)
無技巧的になって、おもしろく思われる。
ではなくて
おもしろく思われるのも、無技巧的になったからか。
というのである。
コクトーも、うまくなってはいけないと書いていた。
コクトーは技巧を凝らした初期の自作を全集からはずしたが
ぼくも、自分の技巧的な作品は、好きじゃない。
自然発生的なものしか、いまのぼくの目にはおもしろくないから。
二〇一七年六月二十八日 「日付のないメモに書いた詩」
職員室で
あれは、夏休みまえだったから
たぶん、ことしの6月あたりだと思うのだけれど
斜め前に坐ってらっしゃった岸田先生が
「先生は、P・D・ジェイムズをお読みになったことがございますか?」
とおっしゃったので、いいえ、とお返事差し上げると
机越しにさっと身を乗り出されて、ぼくに、1冊の文庫本を手渡されたのだった。
「ぜひ、お読みになってください。」
いつもの輝く知性にあふれた笑顔で、そうおっしゃったのだった。
ぼくが受け取った文庫本には、
『ナイチンゲールの屍衣』というタイトルがついていた。
帰りの電車のなかで読みはじめたのだが
情景描写がとにかく細かくて
またそれが的確で鮮明な印象を与えるものだったのだが
J・G・バラードの最良の作品に匹敵するくらいに精密に映像を喚起させる
そのすぐれた描写の連続に、たちまち魅了されていったのであった。
あれから半年近くになるが
きょうも、もう7、8冊めだと思うが
ジェイムズの『皮膚の下の頭蓋骨』を読んでいて
読みすすめるのがもったいないぐらいにすばらしい
情景描写と人物造形の力に圧倒されていたのであった。
彼女の小説は、手に入れるのが、それほど困難ではなく
しかも安く手に入るものが多く、
ぼくもあと1冊でコンプリートである。
いちばん古書値の高いものをまだ入手していないのだが
『神学校の死』というタイトルのもので
それでも、2000円ほどである。
彼女の小説の多くを、100円から200円で手に入れた。
平均しても、せいぜい、300円から400円といったところだろう。
送料のほうが高いことが、しばしばだった。
いちばんうれしかったのは
105円でブックオフで
『策謀と欲望』を手に入れたときだろうか。
それを手に入れる前日か前々日に
居眠りしていて
ヤフオクで落札し忘れていたものだったからである。
そのときの金額が、100円だっただろうか。
いまでは、その金額でヤフオクに出てはいないが
きっと、ぼくが眠っているあいだに、だれかが落札したのだろうけれど
送料なしで、ぼくは、まっさらに近いよい状態の『策謀と欲望』を
105円で手に入れることができて
その日は、上機嫌で、自転車に乗りまわっていたのであった。
6時間近く、通ったことのない道を自転車を走らせながら
何軒かの大型古書店をまわっていたのであった。
きょうは、昼間、長時間にわたって居眠りしていたので
これから読書をしようと思っている。
もちろん、『皮膚の下の頭蓋骨』のつづきを。
岸田先生が、なぜ、ぼくに、ジェイムズの本を紹介してくださったのか
お聞きしたことがあった。
そのとき、こうお返事くださったことを記憶している。
「きっと、お好きになられると思ったのですよ。」
もうじき、50歳にぼくはなるのだけれど
この齢でジェイムズの本に出合ってよかったと思う。
ジェイムズの描写力を味わえるのは
ある年齢を超えないと無理なような気がするのだ。
偶然。
さまざまな偶然が、ぼくを魅了してきた。
これからも、さまざまな偶然が、ぼくを魅了するだろう。
偶然。
さまざまな偶然が、ぼくをつくってきた。
これからも、さまざまな偶然が、ぼくをつくるだろう。
若いときには、齢をとるということは
才能を減少させることだと思い込んでいた。
記憶力が減少して、みじめな思いをすると思っていた。
見かけが悪くなり、もてなくなると思っていた。
どれも間違っていた。
頭はより冴えて
さまざまな記憶を結びつけ
見かけは、もう性欲をものともしないものとなり
やってくる多くの偶然に対して
それを受け止めるだけの能力を身につけることができたのだった。
長く生きること。
むかしは、そのことに意義を見いだせなかった。
いまは
長く生きていくことで
どれだけ多くの偶然を引き寄せ
自分のものにしていくかと
興味しんしんである。
読書を再開しよう。
読書のなかにある偶然もまた
ぼくを変える力があるのだ。
二〇一七年六月二十九日 「『ブヴァールとペキュシェ』フロベール 全3巻 岩波文庫」
欲しい本で、まだ買ってなかったもの。
ヤフオクで、落札価格1900円+送料320円
到着するのが楽しみ。
いま全行引用の長篇の作品をつくろうとしているのだけれど
それを、それの数倍の長さの長篇作品の最後に置くアイデアが
じつは、フロベールの『ブヴァールとペキュシェ』からだった。
全行引用の長篇の作品とは
「不思議の国のアリスとクマのプーさんの物語。」
のことである。
来年度中には完成させたい。
きょうは、ひさびさにエリオットを手にして
寝床につこうと思う。
じゃあ、行こうか、きみとぼくと、
薄暮が空に広がって
手術台の上の麻酔患者のように見えるとき。
(岩崎宗治訳)
後日談
大失敗、かな、笑。
ネットで検索していて
「ブヴァールとペキュシェ」が品切れだったと思って
何日か前にヤフオクで全3巻1900円で買ったのだけれど
きょう、『紋切型辞典』を買いにジュンク堂によって
本棚を見たら、『ブヴァールとペキュシェ』が置いてあったのだった、笑。
ううううん。
560円、500円、460円だから
新品の方が安かったわけね。
日知庵に寄って、バカしたよ〜
と言いまくり。
ネット検索では、品切れだったのにぃ、涙。
ひさびさのフロベール体験。
どきどき。
きょうは、これからお風呂。
あがったら、『紋切型辞典』をパラパラしよう。
で
このあいだ、ヤフオクで買ったの
届いてた。
ヤケあるじゃん!
ショック。
で
いまネットの古書店で見たら
4200円とかになってるしな〜
思い違いするよな〜
もうな〜
足を使って調べるということも
必要なのかな。
ネット万能ではないのですね。
しみじみ。
古書は、しかし、むかしと違って
ほんとうに欲しければ、ほとんどすぐに手に入る時代になりました。
古書好きにとっては、よい時代です。
こんなスカタンなことも
ときには、いいクスリになるのかもしれません、笑。
前向き。
二〇一七年六月三十日 「岡田 響さん」
岡田 響さんから、散文詩集『幼年頌」を送っていただいた。300篇の言葉についての緻密な哲学、といった趣と、言葉にまつわる自身の経験的な非哲学の融合、といったところが、同時に感じられるが、質的にだけではなく、量的にも圧倒される。このような作品を書くことの困難さについて思いを馳せた。
二〇一七年六月三十一日 「杉中昌樹さん」
杉中昌樹さんから、詩論集『野村喜和夫の詩』を送っていただいた。ひとりの詩人による、もうひとりの詩人の詩の詳細な解説である。これは書かれた詩人にとっても書いた詩人にとっても、僥倖なのであろう。しかし、もしも、自分の詩が、ひとりの詩人によって徹底的に解説されたらと思うと、おそろしい。
最新情報
選出作品
作品 - 20191202_113_11590p
- [優] 詩の日めくり 二〇一七年六月一日─三十一日 - 田中宏輔 (2019-12)
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詩の日めくり 二〇一七年六月一日─三十一日
田中宏輔