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作品 - 20190619_608_11274p

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カスピ海へ至る道

  右左

夢のなかに、わたしが現れたことは一度もない。夢のなかで、わたしはいつも傍観者である。そこでどのような出来事がくりひろげられていようとも、わたしはただ一個の視点として、それを見つめるだけだ。でも、わたしは無機質な機械ではない。不条理に怒り、陰惨な事態を悲しみ、歓喜を共有することができる。わたしは夢のひとびとの仲間である――一方的な関係において。

ひとびとはといえば、撮影者であるわたしに構わず、好き放題にどこへでも行く。空を飛び、深海を歩き、時空を飛び越えたりする。わたしもたやすく彼らについていく。夢のふしぎなちからを借りて、わたしたちの関係は保たれているのだったが、ちかごろ様子が変わった。ここ最近、同じ舞台の夢を見つづけている。まるで続き物のドラマのようだ。わたしは、彼らを置き去りにして、ひとりカスピ海へ向かっているのだった。

最初の日、うとうとと眠りに落ちたわたしは、例によって身体を失い、意識が徐々に徐々に立ちのぼってきて……やがてはしゃぎまわる彼らを捉えた。酒場みたいなところ、そのすさまじい盛り上がり! いま振り返ってみると、あの爆弾めかした笑い声、支離滅裂な会話の数々には、こちらをぞっとさせるものがある。しかし、そのときのわたしは、感情がいやに平板で、彼らに同調することもなければ、反発も覚えなかった。目の前の光景をひたすら見た。徹底的にというよりは、茫然とそうしていたと言ったほうが正しい気がする。あるいは、たしかにそのとおり、夢見心地で。時間が経ち、夢の住人たちも、机に突っ伏したり、床に転がったりして、すっかり寝入った。それを見届けると、わたしの視線はひとりでに行動をはじめ、鈍い動きで店の外に出て、星月夜の道を進みだした。《カスピ海へ向かっているのだ! この道の果てに、カスピ海がある!》

次の日も、その次の日も、そして昨日も、わたしはカスピ海へ向かって歩きつづけている。道のようすはわからない。月と、点々とちらばる星々は、わたしの行手を照らしこそすれ、あたりを明らかにはしてくれなかった。はるか遠くでちらりと見える光は、湖面から放たれているものなのだろうか? 日に日にそこまで近づいてきてはいるが、まだ先は長そうである。それにしても、なんという静寂。カスピ海へ向かっていることを察したあの奇妙な直覚を最後に、わたしの意識は沈みこみ、感情が死んだようになっている。視界だけが、任務でもこなしているみたいに、黙々と活動していた。わたしの夢からは、ついに誰もいなくなってしまったのだ。わたしは、おそらく生涯で一度も関係することがないであろうカスピ海について、すこし調べてみた。手近にあった百科事典を開く。そこには、油田地帯としてのカスピ海の写真があった。その写真からは、人間の姿も、世界最大級といわれる広大な水域も、あまり見えなかった。たぶん、今日の夢も、このつづきなのだろう。こうした種々の想念が、眠りに就くとともに消失し、目覚めるまでずっと、足音も立てず静かにカスピ海へ向かうのだ。もっとも、道の果てにあるのが本当にカスピ海なのか、わたしの本能以外には何の確証もない……住人たちもみんな置き去りにしてきた……

文学極道

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