返礼品の中には詩集が入っており、パラパラめくるに一冊を通して一つの話を物語っているようだった。わたしは詩集を函のなかに戻し、それを玄関の花が活けてある辺りに置くと、今朝から考えていた問題に頭を巡らせることに戻った。それはなぜ私が呪われているのか?という問いだった。この郊外にこしてきた当初、別段おかしなことはなかった。のどかで、牧歌的とも云えて、この中古だが新しい家での生活に満足していた。ある日のことだった。一人の男が訪ねてきた。ひょろっとして、丸刈りで、眼鏡をかけていた。右腕には数珠をふたつ巻いていた。彼はじぶんは風水をなりわいとしていると語った。そして私の顔をじっと見ると安心したような顔をしたのが第一印象。先月こしてきたばかりなんですよ、というと顔面がみるみる青くなっていくではないか。彼の言葉を率直に書けば、ここは風水上最低の鬼門である。最悪の場合死につながる。はやく出ていかなければ呪われる。ということだった。それを彼は何重にもオブラートに包んだ言い回しで伝えてきたのである。西は浄土の方角なんですよ、ほら、西向きの玄関でしょう、毎朝、死に向かって出勤するというのは、と彼が言いかけた途端、私はキレた。いい!出ていってくれ、私は新しい住処を散々に言われて腹が立ってしまったのだ。しかし、そこから日に日に私の生活は悪くなっていった。庭に梅の木があった。となりに百日紅の木があるが、百日紅の木はもうおかしくなっていた。そこで百日紅の木を抜いてしまおうと、近くの庭屋へTELし、見積もりをとってもらった。七十万円した。なんで百日紅の木を抜くだけで七十万もかかるのか、問うと、ここの家は土壌が互い互いで緊張を保っている、もしもそのバランスを少しでも欠いた場合、他の木も倒れて最悪家に当たり、損害が出る。慎重に物事をきして百日紅を抜いた場合、これくらいは当然かかる、というではないか。ありえない!と私は怒号をあげて電話を切った。それ以降呪いについて気に掛ける日々がつづいたのだが、いつの間にか考えることも忘れていた。すると今度は犬が近所のガキにチョコレートを食わされて半死、病院にも連れて行ったが死亡した。私は自室で過ごすこと大抵なのだが、そのエアコンから幻聴が聞こえ始めた。自分は鬼の子供でここらでゆったり過ごすことが好きなのだ、と言った。あっけにとられていると、今度はお前のツイッターを閻魔様は大変関心をもってご覧になっている、とその内容まで朗々と語りはじめたときには開いた口がふさがらなかった。まだ自分に非があり、その罰として災難を受ける、というならば話はわかる。悪いのは私なのだから。しかし、私はいたって普通の人間であると自分を評価していた。特別悪いことをしたこともない。堅実に、いや、必死になって生きてきた。誤りがあれば正し、害を与えれば補てんした。弁償した。しかしこの世の不幸の中には罰にもあたらない、ただただ不条理なものがあることも一連の「ここ」での生活のなかで理解した。私は焦っていた。半ば泣きじゃくるように、逐一己を点検し、罪がないか確認した。いくら捜しても見つからないのだけれど。私がしたことは「ここ」にこしてきたことだ。毎朝「死」に向かって出勤したことだ。昼食を終えて、返礼品の詩集を眺めるよう読む。どうやら旧約聖書のヨブの物語を主題にしているようだ。
神がそうならば応えて下さるはずである。私には何の過誤もないということを。
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選出作品
作品 - 20190409_551_11160p
- [佳] 過誤 - 卍 (2019-04)
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過誤
卍