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作品 - 20181201_932_10926p

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


これで終わり

  いかいか

 白く壁を塗るのは人。そして、新しく家を建てるのは獣。また母の生まれた故郷を花で満たすのは初めての僕の妻。

嵐。

雨のように濡れた服を着るのは子供。生まれたての午後は優しい。それは踝。やわらかい人が降ってくる。黒く家に幕を降ろすのは火。そして新しく言葉を生みだすのは鳥。また父の生まれた故郷を戦争で満たすのは初めての僕の仕事。温かい人たちは逃げ出してしまった。

水。

怖いことは、悲しいことだと、悲しいから怖いのだと、夏が終わり冬がずぶ濡れになり泣き叫びながら雨を突き抜けてやってくる前に、この「もの」を語り終えたい。
行きはよいよい、帰りは怖い。

そう。

帰りが怖いんだ。何もかもそうだ。「もの」は帰り道がない。物語にも帰り道がない。ずっと、行ったきりで帰ってこない。振り返る事が出来ない。帰る事が出来ない。何かを「かたる」とはきっと怖くて悲しくてひどくて優しい事なんだ。悲しい感情や優しい感情には帰る道がない。でも帰る場所だけはある。それがもっともやっかいだ。帰り道はない、でも、帰る場所だけはある。どうやって帰ればいい?

もしくは?
 
この「もの」語りを始めるにあたって、どこから初めようかと思い、僕の記憶を遡って行くと、千葉県側の江戸川の堤防で、一人、彼女を待っていた所から始まる。向こう岸には、埼玉県が見える。川が県境になっており、境界というわけだ。山だったり、川だったりが境目になっている場所はたくさんあるが、これから僕が話す事のすべてが、境界についてだ。もったいぶらない全部ははじめから話してしまう。
僕は饒舌になった。幼い頃の僕は、人と話すのが苦手だった。話す事自体に興味がなかった。それは、自分自身に対して、語るべきものが何もない、と思っていたからだ。父や母からも特に心配されなかった。父も母も、僕と同じ様に何かを多く話すような様な人ではなかったし、後から知った事だが、僕が生まれる前から、すでに終わっていた、らしい。らしいというのは、母が大学卒業後数カ月して、「すでに、終わっているのよ」と僕に言ったからだ。発言は突然だった。あくまでも、僕にとっては突然であり、この後、幾度となく、父と母から聞かされる言葉によれば、すでに決まっていた事だった。日時、そして、まず母から、最後に父からと、手順も決められていたのだろう。僕は、父と母の正しい手続きでただただ押し込められることがすで決まっていた。
僕の顔など見向きもせずに、唐突に口から出た母の言葉。そして、言葉の後の母の横顔が春先に吹く、まだ冬の冷たさをまとった風の様で、これから訪れるであろう春の生命の躍動にも一切の興味がなくそれとは無関係に、吹き抜けていく清々しさを感じさせた事を、今でも憶えている。そして、母は遠くを見ていた。僕の表情などどうでもよかったのだ。母からすればすべてが決められていた。僕が知らないところで、すべてが父と母の手続きで埋め尽くされていただけにすぎなかった。だから、母は僕の動揺や感情の動き、気持ちなどどうでもよかったのだ。そんなものはすでに問題ですらないのだ。僕は、父と母の問題の中心にいながら、初めから疎外されていた。僕は署名でしかなかった。父と母が設けた手続きにのっとり、流れていく書類でもある。僕が書類として父と母の間を流れて、僕自身が署名する。すべては、何度も繰り返し言い続けられる父と母による「貴方が生まれる前から予め決めていた」ことが処理されていく。僕に設けられた場所は、署名する空欄のみだった。僕は僕の名前を署名するだけで、それ以外の言葉を書き込むことは許されていない。書き込んだとたんに、この書類と手続きは一切の効力を失うのだ。
すでに、終わっている事を、続けている事は、終わっている事が、終わっていないのではないか、と、僕は思った。遠くを見つめたままの母に尋ねた。「いつから?」と、母は、「貴方が生まれるずっと前から」と、そして、「お母さんは、今、妊娠してるの。お父さんとは離婚するし、離婚することも、貴方が生まれる前から決めていたの」と僕の手をとって、「まだ何も聞こえないかもしれないけど」と言って、僕の手を母のお腹に添えさせる。花を摘んだ幼い子供の手をその花と共に引きよせるようにして。
「ごめんなさい。コバトはこの子のお兄ちゃんにはなれないけど、コバトには教えておきたかった。お腹の子は、お父さんの子供じゃない。お父さんも貴方も知らない人の子供。昨日、お父さんに伝えた。そしたら、お父さんも喜んでたわ。おめでとうってね。で、お父さんの方も子供が生まれるみたい。お母さんも貴方も知らない女の人がお父さんの子供を産むの。今日、お父さんが仕事から帰ってきたら、ちゃんとした話があると思うからね。でも、不思議ね。素直に、心の底からお父さんに子供が生まれる事が嬉しいの。それがお母さんの知らない女の人との子供であってもね。勿論、嫉妬とかそんなものはないわ。コバトが生まれる前から、二人で決めていたんだもの」母は話し終えて微笑んでいる。ただ、それは、母のお腹に手を当てている「事」を見て微笑んでいるのであって、僕に微笑んでいるわけではないことに僕は恐ろしくなった。母は僕の方を見ておきながら僕に対してはずっと横顔を向けたまま遠くを向いているのだ。母の手は、幼い頃、僕の手を引いた優しさを未だ持っていた。昔と変わらず優しいが、僕の手は大きくなった。母ではなく、女性としての母を理解できるほどに大きくなった手を、母は、悪意も善意もなく導いたのだ。それはもう、僕と母との間に一線が引かれてしまった事でもある。母は僕の手にも、僕の感情にも無関心でしかなく、自らの中に眠る名前のない不気味な塊にしか興味がない。その塊について、母は、僕に教えておきたかった、と言う。でも、それは、母の冷酷さの表れでもあり、僕はもう冷酷にしか扱われない、興味のない対象でしかないという証明でもある。僕は、ここでも署名しなければならなかった。母のお腹に触れることで、母の体に、そして、不気味な未だ顔のない得体のしれない塊に対して、僕は僕の名前を署名しなければならなかった。
夜、父が仕事から帰ってきた。玄関で靴を脱ぎ、母がおかえりなさいと言う。父も、ただいま、と言い。寝室に入り、着替えている。これは、僕が大学に受かり、家を出るまでの間ずっと繰り返されていた光景だ。母が、台所で夕飯の支度をしている。着替え終わった父が、居間のソファーに座っている僕を書斎から呼ぶ。父の書斎は、ほとんど何もない。時折、自宅に持ち帰る仕事をするためのパソコンと机と椅子があるだけで、後は、何もないと言っていいほど空白が詰められている。父には趣味と呼べるものが、あまり無かったようで、休日などはほとんどテレビを見ているか、母や僕を連れて外出していた。扉を開けると、椅子ではなく、床に胡坐をかいて座り、僕を見上げていた。同じように僕に座るように言う。
「お母さんから話を聞いたと思うけれども、お父さんとお母さんは離婚する。お互いすでに相手がいるし、子供も生まれる。これは、お前が生まれる前からそう決めていた」そう言う父の顔は、冷静で、僕の動揺や感情の動きなどは一切興味がなく、もう、僕がどうでようがすでに事態を変える事は不可能であり、これは運命だ、とでも僕に言って捨てるような言い方だった。母と同じように、父ももう、ずっと昔から僕に対して、横顔を向けたまま遠くを見ていたのだ。その後は、簡単な話だった。当分生きていけるだけのお金は渡すが、ただ、お母さんもお父さんも新しい家庭があるから、金銭的にはあまり助けられないが、かといって、お前の事は、二人とも愛している。何かあればできる限り手助けするので、遠慮なく言え、そして、この家もお前に残す、と言う。そして、これも、「お前が生まれる前からずっと決めていた事なんだ」と言って、通帳と名義変更された土地と家の書類が渡される。父と母が、若くして建て、十分な所得があるエリートの夫をもちながら、母もパートをしていた理由がその時、初めて分かった。そこからは、早かった。僕は、家を人に貸す事にして、家賃収入を得ながら、今から語る事になる「彼女」と彼女の実家からも、僕の実家からも遠く離れた土地で一緒に住む事にした。彼女の事は、両親には一度も話した事がなかった。
父との話が終わり、夕飯の席に着いた時、僕はこう尋ねた。
「なんで結婚したの?」と、母が何かを話そうと僕の顔を見つめて口を開くと同時に、父が、母に「僕から話すよ」と言って、母が話し始めるのを止める。父と母は、幼馴染で互いの事は昔からよく知っていた。同じ高校に通い、大学は別々だったが、互いに故郷に戻って就職し、互いの両親も仲が良かったため二人の結婚を勧めてきた。二人ともお互いの事を嫌いではないけど、かといって、すごく好きなわけでもなかったが、両親の強い後押しもあって結婚した。けれども、いざ結婚してみるとどうも二人には肝心の愛があるのかないのかよくわからない。互いに互いのことは嫌いではないし、むしろ、お互い昔から知っていた間柄なので、気が合う事は分かっていた。結婚してすぐに、二人で話し合った。お互いに同じ事を考えていて、とりあえず、子供を作ってみようと言う話になった。そして、生まれたのが僕だと言う。ただ、いざ、子供を作ると決めた時、互いにいつか別れるだろうと思ったらしい。自分達二人は、ただマネゴトをしているだけで、そう自覚したのは、互いに一度も「愛している」と言った事がないし、そう思った事がないという。子供が生まれてもお互いに愛が芽生えなかったら、恐らく、今後も芽生えないだろうと二人は結論を出し、僕が生まれても、別れる事を前提に行動することを決めたらしい。ただ、父は、「お前が生まれた時、初めて愛すると言う事がわかった。お前に対しては愛という単語で語る事が出来る。それはお母さんも同じだよ。でも、お父さんとお母さんの間には、お前が生まれた後でも、愛という単語で語るべきものが二人して見当たらなかったんだ」
だから、二人は別れる事にした。僕が生まれてからも、二人は愛を探したというわけだ。そんなものはただの単語にすぎない。そんなものがなくても、二人は結婚したし、夫婦でもあったし、周りから見ればちゃんとした家族だったのだろう。僕は思い切ってさらに突っ込んで尋ねた。
「じゃぁ、お父さんとお母さんには、互いに別の家庭があって、そっちで愛が見つかったの?愛という単語で語るべき何があったの?」
父は笑顔でこう答えた。
「あったよ。愛してる、とようやくお前以外の誰かに言えるようになった」
僕は怖くなった。父の笑顔に、そして、それに何も言わずに聞いている母も父と同じなのだろう。二人が気持ち悪いと感じた。内臓が乾いていく感覚が口の中に広がる。返すはずの言葉が舌の上で腐り、それにたかってくる蠅。羽音がする。本当に恐ろしいモノは、恐ろしい姿ではない事が多い。僕が生まれて初めて愛すると言う事がわかった、と、言う二人は、結局、僕を残して、別々の家庭になり、別々の愛をまた探しに行くのだ。こんな茶番のどこに愛があるのだろうか。僕はこの時に初めて分かったのだ。父、母、と名乗る二人は、化け物だったのだと。父と母は、僕の知らないところで、僕の知らない兄弟を作り、暮らすのだろう。化け物の子供は同じように化け物だ。これは、彼女から教えてもらった。彼女もまた化け物だった。そして、僕にも兄弟がいた事に気付いた。父と母が産み落としてしまったもの。流してしまったからこそ、纏わりついてしまったもの。これも、彼女から教わった。僕には、僕より先に生まれておきながら、兄とはならず弟になってしまったものがいる。父と母は弟の事を知らない。でも、弟はたしかに「いた」のだ。この可哀想な弟は、父と母に復讐しに行くだろう。彼女の姉がそうであったように、間違いなく近い将来、父と母は復讐される。
父と母は、僕に対しては愛を感じた、が、それでは物足りなかったのだろう。それはつまり、愛ではなかった。やはり、僕は署名でしかなかった。書類でしかなかった。父と母のための手続きのための書類、そしてそれを自ら読み、確認する署名でしかない。僕は、絶えず署名し続けなければならない。父と母のために、生きている事が署名しつづけることなのだ。あの可哀想な化け物のために、愛されていた者として、愛が存在しうるであろう可能性を証明し、僕を参照しつづけるのだろう。僕を基準として、あの二人は愛を愛だと確認する。もしかしたらそんなのは存在していないかもしれないのに、彼女の言葉を借りれば「私達とは存在の仕方が違う」のかもしれないものを求める。
父と母は、僕に話しすぎた。その結果、弟は父と母にとっては、どんどん存在が消えていった。隠されてしまったが、僕には逆に強く存在しはじめた。弟はたしかにいる。父と母と僕の間に、この家の中に、ずっといたのだ。むしろ、僕ら家族は弟の内臓の中に住んでいる。

文学極道

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