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作品 - 20181001_043_10781p

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


2012年の林檎 

  朝顔

                         
 暑い暑い夏。ロンドン五輪が終わろうとしている。
「ソーシャルワーカーの大村さん、最近姿が見えませんが」
「ああ、辞めたのよ」
「辞めた?」
「ええ」てきぱきしたチーフの万梨子さんは肘をついて言った。あたしは面談室から出た。旧型のクーラーが全開運転している。階段を降りるとあたしは1Fに足を向けた。ここはジャムを煮る香りで充満している。片隅に手芸のコーナーがある。
「林檎……売れたんですか?」
「ああ、敦美ちゃんの作ったパッチワークの林檎ね」枝川さんは話をそらすように言った。「一個、売れたわよ」
「敦美ちゃん、頑張ってるね」大村さんの声がフラッシュバックした。
「端切れで林檎作ってるの?」
「ええ、でもあたしまつり縫い苦手で。ぼこぼこで」
「はは、僕が一つ買うよ」大村さんは小声で言った。「ありがとうございます」

 マンションに自転車で帰り着くと冷蔵庫から麦茶を出して飲んだ。鶏肉を唐揚げにして、氷水に浸したレタスと胡瓜とプチトマトと一緒にガラス皿に盛ると味噌汁と白飯を用意して待った。
 父親は、いつものように五時半にやってきた。
「いらっしゃい」
 あたしと父親は、黙って狭いダイニングで夕食を食べ始めた。
「羽角君、ここに来たのかね」
「ええ」
「先週の土曜かい?」
「そうよ」
「やめとけ」唐揚げを噛みながら父親はぼそっと言った。「あれはいい子だが、金が目当てだ」
「わかってる」

 あたしはその晩、いつまでも体にまとわりつくような羽角の愛撫を思い出していた。羽角は彼の父親が、中学時代母親の鼓膜を破るほど殴って失踪した後、高校に進学する金がなかった。「そんな男がさ」
「え?」
「エリートになれる道がひとつだけあったんだ」
「何それ?」
「企業内学校だよ」
 あたしが大学を中退して家でごろごろと鬱を発症していた頃、羽角は「東京電力東電大学高等部」に入ったのだ。だからあたしたちには六歳の年の開きがある。
『この国の富増すために エネルギー源絶えずおくる
 大電力のこの学園 肩くみかわす君と僕 おおわれら東電の
 明日の担い手 明日の担い手』
「やめてよ、それ」
「だって、もう覚えちゃってるんだもの校歌」
 勘のいい羽角は震災の一年前に、福島原発に見切りをつけた。そして同時に精神保健福祉士の資格を取った。そこまではよかった。だがそこまでだった。
「敦美、お前のいる就労支援所で職員の空き、ないか」
「ないわよ。自分で探してよ」
「つれないな」

 あたしはまた面談室のドアを叩いていた。
「あたしの林檎、誰が買っていったんですか?」あたしは万梨子さんの目を真っ直ぐに見て言った。
「さあ」
「大村さんじゃ」
「あの人ね」昔証券ガールだった万梨子さんは急に椅子を引き付けて真剣に言った。「あなた、口が固いから言うけど、アルコール依存なの」
「……」
「やっぱり、この国の人じゃないから無理してたんじゃないかしら」万梨子さんははっとして口をつぐんだ。
 あたしはフェイスブックで大村さんの国籍はとっくに知っていた。職員の間で孤立している空気とか、お魚のホイル焼きにたっぷりキムチをかける姿を見てわかってはいたことだった。竹島事件が話題になりだしていた。

 金曜日は通院日だった。ハンサムな医師は無表情とも言える顔で言った。「僕もお父さんと同じ意見です。その羽角君を君のいる就労支援所に紹介しても、君が彼とのマンションの同居を強行する限り、彼がまっとうに働くとは思えません」
「……」
「それはやめなさい」医師はきつい語調で言った。
 医師はあたしの表情を見抜いたように言った。「君に必要なのはお父さんと距離を置くことです」

 あたしはその晩フェイスブックからも姿をくらました大村さんの事を考えていた。
「今日、皆が打った讃岐うどんなの。残ったから二つ持って帰って」
 大村さんが自立支援法の施行以来、ぎすぎすしてゆく支援所の人間関係の緩衝材になっていることをあたしは知っていた。
「精神障害者全員の就労を目的とします」万梨子さんがそう宣言してから支援所の半数が辞めた。四分の一はもっと実入りのいいA型就労支援に移った。そして羊のように大人しく支援員の言う事を右から左へ聞く四分の一だけが残った。
「あなたたち見てると、本当に自分は幸せだと思うのよ」
 新しい裁縫担当の支援員は平気でそんなことを言った。長年の重篤患者の苦痛に黙っていつまでも耳を傾けているのは大村さんだけだった。あたしは寝返りを打ってはっと気が付いた。今までのBFは皆、あたしの体かお金かそれとも食事を作ってくれるヘルパーが欲しかったのだと言うことに。
 だけど大村さんは閉鎖病棟の中であたしの作った五百円のパッチワークの林檎と一緒にいる。
(大村さん!)
 あたしは生まれて初めて赤子のように激しく泣いた。

 土曜日、あたしはいつものように部屋で昼食を食べている羽角に言った。
「純一。空き、出来たわよ、支援所に」
「ほんとか?」
「ええ。……あたし、あそこやめるわ。それで絵本に集中する」

 朝。起きると、ベッドサイドに飾ってあった売れてしまった林檎とお揃いのパッチワークの林檎がなかった。
「ここにあった林檎、知らない?」
「げ、俺の服と一緒に洗濯機に放り込んだかも」
 あたしは慌てて洗濯機を覗いた。林檎は勢いよく服と一緒に回っていた。取り出そうと手を差し伸べた瞬間、林檎はぱあんと音を立ててばらばらになった。
「うああん」
「どうしたよ敦美」
「林檎が……」あたしは子供のように泣きじゃくった。
「ごめん、大事なものだって知らなくって」羽角はパンツを穿きながら言った。「いったいなんなの?」
「なんでもない……なんでもない」あたしは洗濯機の縁をつかんでむせび泣いた。
 林檎はばらばらの端切れに戻った。
「羽角、ごめん。服、林檎に詰まってた綿だらけになっちゃって」
「いいよ俺のせいでもあるし」羽角は服を自分で干しながら言った。「それより大丈夫?」
「うん」
「何か思い出のものだったの?」
「ちがうよ」
 羽角はばつの悪そうな顔をした。あたしははっと気づいて言った。「ごめんね」
「いいんだよ」
 羽角はいつものようにあたしが落ち着くまで、ずうっとハグをすると帰って行った。あたしはドアをぱたんと閉めて思った。
(わるいことした)
 あたしは羽角が帰った後にその端切れを拾い集めて袋に入れてクローゼットの一番奥にしまった。

 あたしは万梨子さんに正式に挨拶をして支援所を辞めた。「うちの羽角をよろしくお願いいたします」。
 帰り道、この区の雑居ビルにある支援所をあたしは眺めていた。1F2Fに精神障害者支援所、3Fに同和関係の事務所、4Fに共産党の議員の事務所のあるそのビルは立派なマンションのそろった街路に不釣り合いだった。
 この国からはみだした、いや邪魔者にされた世間にうまく顔を向けられないあたしたちがこのビルの片隅でかろうじて息を吸ったり吐いたりして僅かなお金を貰って生きている。フリマの時には食べ残しの菓子パンが平気でパック十円で売られているこのビル。g.u.で買い物したって言うと妬まれるから言い出せないここの住人。どこにもいくところがなくってでもどこかへ行きたくてたまらないのにその力のない人間の居場所になっている小汚いビル。
 あたしは交差点を一度渡って、もう一度引き返して、息を大きく吸ってビルに向かって最敬礼した。
 ありがとうございました。
 
 羽角は近くにアパートを借りて支援員をしている。もう寒い土日は少し肩幅の厚くなった彼と二人で毛布にくるまって丸くなって寝る。羽角はあたしのことを病人扱いしなくなった。あたしはと言えばなけなしの自費で自分の絵本をやっと出した。休みの日には羽角が持ってくるもう冬に向かいだした支援所の煮ているジャム用の林檎の余り分を芯をくりぬいてバターで煮てコンポートにする。
 その現実の林檎は虫食いがしたり茶色に変色したりしているけれども、台所で見つめていると不思議な光をあたしに放ってくるのだった。

文学極道

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