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作品 - 20180709_169_10574p

  • [優]  揺り籠 - 田中修子  (2018-07)

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


揺り籠

  田中修子

「こんなに反抗するようになるなら、育てなきゃよかったなぁ」

おとうさんがはなったことばが、夏の台所にさかなのはらわたを置きっぱなしにしたようなにおいをはなっている。
そのまま死神の形相をしてひふの裏にすんなりと沈みこんでゆく。

荒れ狂う風が吹き抜け、からだのなかに街ができた。つねに夜の街。幾千幾万の灰色のビルディングがしずかにたち、ふっとみると、エメラルド色のタワーが明滅している。

あの日以来、怒るとき悲しむとき、この夜の街にいるから、いつだってはんぶん透けているのに。

それなのにおとうさんは、まるでいつだって目の前にいるように、
「そういう不安定なところも、おかあさんにそっくりだ」
あまえたような顔をするのね。

心臓に、さかなのウロコがびっしりと張っていくのがわかる。鼓動のたびにウロコがこすれあい、体のなかに誰もが誰をも無視しあう雑踏のような音を立てる。
夜の街には灰色のどんよりとした雲から黒い雨がポツポツふってきたところだ。妊婦をもつきとばし、幼子を抱きよろけてうめく老女を無視して、我さきへと歩くひとびと。このひとたちのなかにいると、息ができない。息ができなくて、心臓が死にかけた馬の喘鳴。
そうしてからだ全体に、ウロコは細胞として散らばって増殖していく。

きれいなローズピンク色の心臓を取り戻したくて、カッターナイフで左胸を突いた。ひややかな乳房に傷がついただけだった。
雨が降り続き、夜の街のひとびとはすこしいきおいを失ったようだ。深海に白い目のない魚が泳ぐようなひとびと、黒い雨はやがてあのひとたちを白血病にしてしまうだろう。血液のがん、細胞の浸食されていくしずかな音。
傷あとは肉芽になって、えらのような形がすこしのこっている。
えらは、ときたまひきつるように動く。

いつのまにかどこかで知り合って胸をひらいたあなたが、
「これはなに?」
と尋ねた。
「おとうさんよ」
「これは、きみが引き受けるべきものではない」
「おかあさんの身代わりなの」
あなたの手が左胸にすっとはいってきた。はたらき者の熱い大きな手、爪と指のあいだの沈着した色素とささくれ。
カッターナイフは肋骨が受け止めてしまったのに、その手は切れ味のいい刃物よりうんとすんなりと、肉の中にはいりこんでくる。腹をきりひらいたさかなのはらわたをむしるように。
そう、よくはたらく手だからよ。
ペンでもなく絵筆でもなく、際限なくベッドシーツをとりかえし清掃をして仕事終わりに安い石鹸でよく洗われる、がさがさの手だからよ。
その手はうごめく心臓から、血まみれのウロコをとりだした。
むしってすぐの赤いポピーの花びらのよう。
「一枚しかとれなかったな」

それ逆鱗よ。

その瞬間、肉がびちゃびちゃ音を立ててくずれていった。
散乱する内臓、ササミみたいな筋肉、ひろがった肺はプチプチしたのがいっぱいついている。これは腸? 花の塊のよう。
これは脳みそ、白肉色の蛇がとぐろをまいている。あら、目まである。ガラスみたいにころんとして、澄んだ白に黒目。齧ったらどんな音がするんだろう。

青みがかったピンクのマニキュアをほどこした指と爪がハラハラと散らかっている。青い小さな小さなホログラムがひかる。

いまわたしのこの肉をみているこのわたしはだれかしら?

この内臓たち、腐ったさかなのにおいがする。

「もうほんとうはずっと前からこんな感じだったの。ほんとはね。ひとのことだいきらいだと思っていたけど、自分のことがね。ううん、きらいよりうんとひどいの、わたしはね、わたしがないんだわ。だってあの人たちの血を引いているから。知ってるの、だれよりもあの人たちにそっくりだってことを、まわりのひとみんな聞きもしないのに教えてくれるわ。そうなればなるほど、どんどんあのひとたちに似ていって……」

黒い雨をぬって哄笑しながら夜の街に落ちるいなづまのよう。
たぶん白骨になっているわたしがはなっていることば。舌はどこ?
けれど、人であったころよりずうっと素直なようだった。

「ぼくは、生き人形師なんだ。平日には働いて、働いた金を全部つぎ込んで、人間にそっくりの人形を何体も作ってきた。そういうことができる機能もつけたさ。けれど、たいてい作り上げた時点で飽きて、この間けっきょく全部売ってしまった。まあ、気持ち悪いことに、どこかのパーツがぜんぶ自分そっくりなのさ。ものすごい金になったが、なにもする気がおきない。それでぼんやり歩いてたら、人間なのに、人間のふりをしたなにかが歩いているじゃないか」
「それで声をかけたの? あなた、わたしにまけずおとらずとっても気持ち悪い人ね。いきにんぎょうしってなによ」
「……そうして、さっききみのウロコをむしったときにすべて思い出した。きみのつくった夜の街から来たのだよ。排卵とともにぬぐわれた子宮の血を食べ、ゴミを啜り、汚水管にをねぐらに成長して職を得、この街のすきまに少しずつきみの街を作り上げている。きみを作り直そう、ぼくのすべてをかけて。ぼくはあっというまに老いていくから」

口づける。溶岩のようにすべてを飲み込もうじゃない。
あなたは溶けていく。
淡い色をした桜の花びら、いびつな形をした真珠、青い鳥、海岸に打ち上げられて塩漬けになった心臓のような堅く軽いクルミ、母が子に愛を込めて読んだだろうボロボロの絵本、ビー玉、どこかあなたに顔立ちの似た理想的な男の子の裸のお人形、あなたの幼いころの写真、それは、おとうさんの幼いころの写真とそっくりだった。モノクロとカラーの違いはあったが。

あなたがわたしのなかのあの夜の街から来たのならば。
思う間に、内臓はドロドロと混ざり合い、再結合され、わたしの体に這い上がってくる。



つかの間の夢。

ビルディングの一室で白骨と化しているわたしの胸のなかに巣食うこの黒い鴉。
"Never more""Never more""Never more".

暗記してしまったあの短い詩のアルファベットが変化して本から飛び出し、旋回し、肋骨につかの間とまり、そうして錆びた窓枠を抜け嵐のなかに羽ばたいていく。荒れ果てている。

もう二度と取り返しのつかぬこと。もうにどととりかえしの。もうにどと。



めざめると、はちきれんばかりの臨月の腹をして病室にいた。腹のひふは透いて小さな満月を抱いているような、無数にかがやきうごめく卵が見える。混ざり合ったあなたは子宮のなかにいた。

「ようよう子どもを産んでくれる気になったんだね。うれしいなァ」

おとうさんがわらって覗き込んだ。
この収縮する子宮のなかにある卵が孕む無限の可能性。わたしでないわたしが変化し、わたしでないものを産む。

おなかからおとうさんのうめき声が聞こえる。けれどもその根源は、おとうさんにかかった、おかあさんの呪い。三世代にわたるおかあさんのおかあさん、そのおかあさん。
彼女たちのかおはもちろん、わたしとどこかパーツが似ているのだ。

「ママーっ ママーっ」
「痛いーっ!! 痛いーっ!!」
「無限の愛 無限の愛 無限の愛」

海の音のようなこの心音の悲鳴は? だれのもの? あなた?
そうして丸まって分裂をくりかえし、産声を上げる日をまっている。

もうすぐ孵る赤子の声。
オギャア・オギャアと、この世に生を受けた苦痛と驚愕の。そう、わたしたちは手をとりあってそれを乗り越えるの。
そうしてわたしからうまれたあなたたちはあっと言う間に灰色のビルディングになってこの街を作り変える。真夜中、時計がてっぺんをさすと明滅する、あのエメラルド色の塔はあなたたちがからだを結び合わせて作っている。そうしててっぺんのまま時計は静止する。あなたたちは子どもも大人もみさかいなく踏みしだき、やがて黒い雨がふるようになると静かになっていく。そうしてどこかで生まれた子どもがそのうすぐらい街から脱出し、さかなのにおいをはなつ女をとらえ、再生産していく。

でもね、おとうさん、あなたはわたしの子ではないわ。愛する人でも、子どもでもないのに。

白く広い部屋の揺り籠のなかにあなたをいとおしく抱きしめる日を指折り数える。
そう、さいご、この無限の無数の子とともに、おとうさんの耳元にささやこう。

……ママですよ、わたしはね、おとうさん、あなたのママですよ……。


※"Never more" エドガー・アラン・ポー 「大鴉」

文学極道

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