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作品 - 20180604_088_10496p

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


The Show Must Go On。

  田中宏輔



「真実なんて、どこにあるんだろう?」と、ぼく。
「きみが求めている真実がないってことかな?」と、詩人。


でかかった言葉が、ぼくを詰まらせた。


文章を書くということは、自分自身を眺めることに等しい。


まあ、実数である有理数と無理数が、ひとつの方程式のなかにあって、それぞれ独立しているという事実には驚かされるが、あるひとつの数、たとえば、1の隣にある数がなにか、それを言ってやることなど、だれにもできやしない、ということも不気味だ。おそらくは永遠に。いや、かくじつ永遠に。しかし、もっと不気味なことがある。これは、という人物に、このようなことに思いをはせたことがないかとたずねても、首をかしげて微笑むだけで、それ以上、話をつづけさせない雰囲気にされたり、そんなことは考えたこともないと言って、ぼくの目をまじまじと見つめ返して、ぼくが目を逸らして黙らざるを得ない気持ちにさせるばかりであった。いやな思いというよりは、やはり不気味な感じがする。数字なんて、だれだって使っているものなのに。


人間はいったい何を確実に知っているといえるだろう?
(フィリップ・K・ディック『時は乱れて』6、山田和子訳)


中学二年のときのことである。遠足の日に、まっさらな白い運動靴を履いていったのだが、クラスでも一番のお調子者であるやつが、ぼくの靴を踏みつけた。白い靴のコウの部分にくっきりと残った、靴の踏み跡。さらの靴につけられた汚れは、とても目立つし、それに、あとあといつまでも残っている。先に踏みつけられた跡は、あとから踏みつけられた跡よりもはっきりしている。しっかり残るのだ。ホラティウスのつぎのような言葉が思い出される。


出来たての壺は新しい
間に吸ったその香りを
後まで長くとどめます。
(『書簡詩』第一巻・ニ、鈴木一郎訳)


quo semel est imbuta recens,servabit odorem testa diu.
土器は、それが新しきときに一度それが滿たされたるものの香りを、長く保存するならん。
(『ギリシア・ラテン引用語辭典』)


多くの言葉が、概念が、また、概念の素になっているもの、すなわち、まだ概念ではないが概念を形成する際に、その要素となっているもの、またさらに、そういったものどもを結びつける作用の源など、そういったものが、犇めき合い、互いに結びつこうとする。それが意識となるのは、ただひと握りのものだけ。では、そのとき、意識とならなかったものたちは、その意識にぜんぜん影響しなかっただろうか? 何らかの痕跡を残さないものなのだろうか?


言葉は同じような意味の言葉によっても、またまったく異なるような意味の言葉によっても吟味される。


私は私のことをずっと「愛するのに激しく憎むのに激しい」性格だと思っていた。しかし、それは間違っていた。「愛するに性急で、憎むのに性急な」だけだった。


当然のことながら、目は、複数のものに同時に焦点をあわせられない。意識もまた、複数のものを、同時に、しかも同じ注意力でもって捉えることはできない。すくなくとも捉えつづけることは、できやしない。


言葉は完全に理解されてはいけない。完全に理解された(と思われる)ものは、その人にとって吟味の対象とは、もはやならないというところで、その言葉は死んだも同然なのである。意味は完全に了解されると死んでしまうものなのである。それゆえ、わたしは、わたしも含めて、あらゆる人間に、わたしを理解しないでもらいたいと、ひそかに思っている。


われわれが時間や空間を所有しているのではなく、時間や空間がわれわれを所有しているのである。


わたしが過去を思い出すとき、わたしが過去を引き寄せるのか、それとも過去がわたしを引き寄せるのか。


詩人は自分をその場所に置いて、自分自身を眺めた。まるで物でも眺めるように。


ぼくたちが認め合うことができるのは、お互いの傷口だけだ。何か普通と異なっているところ、しかもどこかに隠したがっているような様子が見えるもの、そんなものにしか、僕たちの目は惹かれない。それぐらい、僕たちは疲弊しているのだ。


われわれの感情の中で、どれが本物か本物でないのか、そんなことは、誰にもわかりはしない。


だれと約束したわけでもなかった。この場所とも、この夜とも。けっして。


そのころ詩人はどうしていたのだろう。あとから聞いた話では、川に流れる水の音と、茂みの木々の間から聞こえるセミの鳴き声を使って、聴覚の指向性について実験をしていたのだという。どちらか一方に集中的に意識を振り向けることによって、耳に聞こえる音を自由に選択できたという。しかし、このことは、つぎのようなことを示唆してはいないだろうか? もしも、意識が感覚に強く作用するのだとしたら、逆に、聴覚や視覚といった感覚が、意識というものに強く影響するのではないか、と。そういえば、詩人は、こんな話をしてくれたことがある。早坂類という詩人と、はじめて詩人が東京駅で会ったときのことだ。彼女の姿が、突然見えなくなったのだという。いままで目の前にいた詩人の姿が、ふっと消えたのだという。しばらくあたりを見回して、彼女の姿を探していると、彼女の手が、詩人の肩をポンとたたいたのだという。「どうしたんですか?」という声に、ハッとしたのだという。詩人は、彼女のことを才能のある書き手だと思っていたのだが、才能ではなくて、感覚的なものが、感受性というものが、あまりに自分に似すぎていることに気がついて、気持ち悪くなったのだという。彼女の姿が見えなくなったのは、気持ちの方の反応が、感覚に強く反応したためであろう。詩人には、ときどき、ひとの声が聞こえないことがある。ぼくが話しかけても、返事が返ってこないことが何度もあった。すぐそばで話しかけたのだけれど。


あるものがすぐれているのが、他のあるものに支えられてのことであるのなら、その支えてくれている他のあるものをなおざりにしてはいけない。


だれのためにもならない愛。本人のためにさえ。


「なぜ、人間はヒキガエルになるのか?」と、普遍的な問題に対して、卑近な例を出して考える癖が、その青年にはある。ところで、なぜ、他の多くの青年は、「人間は」ではなく、「ある人間は」なのか。しかしながら、ときには、その青年も、大きな枠で構えたつもりで、些細なことがらに捕らわれることもある。それが癖によるものかどうかは、まだわからない。しかし、それには、欠点もあるが、利点もある。「なぜ、人間はヒキガエルになるのか?」、「ある人間は」ではなく。答えが違っている。答え方、ではなく。


「そして、ふいに陰茎を右の手で握り締めると、彼はいつはてることもない自慰に耽るのだった。」といった文が、文末にあるよりも、文頭にくるほうがいい。


言葉も、人も、苛まれ、苦しめられて、より豊かになる。まるで折れた骨が太くなるように。


彼女は、その手紙を書いたあと、投函するために外に出た。(これは、あくまでも文末の印象の効果のために、あとで付け加えられたものである。削除してもよい。)ポストのあるところまで、すこし距離があったので、彼女は顔の化粧を整えた。彼女は、その手紙に似ていなかった。彼女は、その手紙の文字にぜんぜん似ていなかった。その手紙に書かれたいかなる文字にも似ていなかった。点や丸といったものにも、数字にも、彼女がその手紙に書いたいかなるものにも、彼女は似ていなかった。しかし、似ていないことにかけては、ポストも負けていなかった。ポストは、彼女に似ていなかった。彼女に似ていないばかりではなく、彼女の妹にも似ていなかった。しかも、四日前に死んだ彼女の祖母にも似ていなかったし、いま彼女に追いつこうとして、スカートも履かずに玄関を走り出てきた、彼女の母親にも、まったく似ていなかった。もしかしたら、スカートを履くのを忘れてなければ、少しは似ていたのかもしれないのだが、それはだれにもわからないことだった。彼女の母親は、けっしてスカートを履かない植木鉢だったからである。植木鉢は、元来スカートを履かないものだからである。母親の剥き出しの下半身が、ポストのボディに色を添えた。彼女はポストから手を出すと、家に戻るために、外に出た。


ミツバチは、最初に集めた蜜ばかり集めるらしい。異なる花から蜜を集めることはしないという。


ノサックの『ルキウス・エウリヌスの遺書』のなかに、「裏切りに基づく生は生とはいえない。」(圓子修平訳)といった言葉があるが、リルケの『東洋風のきぬぎぬの歌』には、「私たちの魂は裏切りによって生きている。」(高安国世訳)という言葉がある。どちらの言葉も、ぼくには、しっくりとくる、よくわかる言葉だ。ふたりの言葉の間に、なにも矛盾はない。われわれは、「生とはいえない生」を生きているのだ。生かされているといってもよい。


あなたは削除されています。この世界には存在しません。


オセロウはイアーゴウがいなくてもデズデモウナを疑ったのではないか? さまざまな冒険が、その体験が、オセロウをして想像豊かな、極めて想像豊かな人間にしたはずである。「ハンカチの笑劇」。想像はたやすく妄想に変わる。


時間をかけて結晶化させると、不純物を取り込む割合が低くなる。わたしの思考もまた、そうであるように思われる。『みんな、きみのことが好きだった。』の最初の方に収められた「先駆形」シリーズは、これを逆手にとったものである。すばやく結晶化させると、不純物が多く混じるようになる。不純物を混入させると、たやすく結晶化する。しかし、そもそものところ、思考における不純物とは、いったい何であろうか。その不純物の重要な役割についての考察は、一考どころか、二考、三考にも価する。


詩人がほんとうに死んだのか確かめるために、霊魂図書館に行く。


ひとつの石が森となる。石は樹となり、獣となり、風となり、波となり、音となり、光となり、昼となり、夜となり、じつにさまざまなものになり、感情となり、知性となり、エトセトラ、エトセトラ。


自分の遺伝子を組み込んだ食べ物の話。カニバリズムについて述べる。聖書や伝説や寓話や史実。通貨制度の代わりに、遺伝情報を売り買いする社会。自分の遺伝子を組み込んだものがいちばんうまいと述懐する主人公。社会自体も自分自身を食べる社会になっている。人々は自分の遺伝情報を組み込んだ植物を、牛や馬や豚や魚などの動物の肉を食べ物にし、庭に埋めて花や木として観賞し、さまざまな生き物に組み込んでペットにし、エトセトラ、エトセトラ。


言葉が言葉にひきつけられるのは、たとえば、物体が質量によって他の物体に引きつけられたり、電荷によって引きつけられたり、磁力によって引きつけられたりするように、複数の要因があるのではないか? 文脈の公的な履歴と、一個人の私的な履歴。


巣に戻った鳥が、水辺の景色を思い出す。


わたしはもう変化しないのだろうか?


自然死のない社会。人々はさまざまな自殺方法を試みる。そのさまが、他人の目を惹きつける。さまざまなメディアで、珍しい自殺の方法が紹介される。旧約聖書にあるサムソンの例を出す。仏陀やキリストの最期が自殺ではないかと、主人公の青年が考える。キケロなどの偉人たちの自殺や自殺としか見えない殉教者たちの死に様について短く述べる。主人公の青年は、もっとも苦痛の強い死を考える。生きたまま弱い火であぶる。まっさらな紙で切り傷をつけていく。エトセトラ、エトセトラ。たっぷりと時間をかけて。


あらゆることが人を変える。あらゆるものを人が変える。その変化から免れることはできない。その変化を免れさせることはできない。好むにもかかわらず、好まざるにもかかわらず。


田中の「共有する場の理論」について。
……それゆえ、事物を知ることが、あるいは、他者を知ることが、自己を知ることになるのである。この「共有する場の理論」は、ヴァレリーやホフマンスタールが述べている自我についての見解よりも優れたところがあるのではないか。少なくとも、その理論はより単純であり、適用範囲もはなはだ広いものである。それになによりも、破綻と思える箇所がまったく見当たらない。いまのところ、ではあるが。


「答えはいつだって簡単なほどいいものなのだ。」
(ノサック『弟』4、中野孝次訳)


愛によって形成されたものは、愛がなくなれば、なくなってしまうものだ。
なにがしかの痕跡を残しはするのだろうけれど。


そう言うと、彼は自分の言葉の後ろに隠れた。隠れたつもりになった。


神さまが遅れてやってきた。神さまは腕時計に目をやると、ぼくにあやまった。ぼくは、神さまに、どうってことないよと言った。神さまはニコリと笑うと、ぼくの腕をとって歩き出した。街の景色が、いつもより目に美しく見えた。まるで映画のようだった。突然、神さまは歩みを止め、ぼくを突き飛ばした。まるで、ぼくの身体を狙って走ってきたような、減速もせずにカーブを曲がろうとした乗用車の前に。


ゼロベクトルの定義。テキストによって、つぎの三つに分かれる。向きは任意。向きは考えない。向きを持たない。大きさがゼロであることでは、どれもみな一致しているのだが、向きについては、テキストそれぞれで、著者によって、ゼロベクトルの捉え方が異なることがわかる。任意とするのが、もっとも妥当であると思われる。


まるで覚悟を決めた人身御供のように、わたしは、その場に身を沈めたのであった。


ああ、またしても、ぼくのパンツの中は、ヒキガエルでいっぱいだ。しかも、「死んだひきがえるだ。」(ガッダ『アダルジーザ』アダルジーザ、千種堅訳)彼はボスコで待っていた。


死んだあと、どうするか。動かさなくてはならない。ひとりひとり別の力で。ひとりひとり別の方法で。人間以外のもろもろのものも、動かさなくてはならない。ひとつひとつ別の力で。ひとつひとつ別の方法で。いっしょにではなく、ひとつひとつ別々に。とりわけ両親の死体が問題である。死んだあとも、動かさなくてはならない。そいつは、何度も死んで、すっかり重くなった死体だが。


そのような愛に、だれが耐えることができようか。ひとかけらの欺瞞もなしに。


「同類の人に会うといつも慰められます」
(エリカ・ジョング『あなた自身の生を救うには』柳瀬尚紀訳)


ぼくは彼を楽しんだ。彼もまた憐れむべき人間だった。


人間はなぜ快楽を求めるのだろう? それ自体が快楽だからだ。この場合、目的と手段が一致している。


言葉を耳にしたり、目にしたりして感じることは、たとえば、焼肉を目のまえにして感じることに近いかもしれない。匂い、見た目、音、記憶との連関、エトセトラ、エトセトラ。言葉の意味がもたらすもの。言葉に意味をもたらせるもの。


丸まって眠っている夢を見た。地中に埋められた死体のように。たくさんの死体が、ぼくの死体と平行に眠っている。ぼくの頭のどこかが、それらの死体と同調しているような気がした。夢ではなかったかもしれない。眠る前に目をつむって考えていたことかもしれない。友だちから電話があった。話をしている間に、友だちもいっしょに土の中にずぶずぶと沈んでいくような気がした。横になって電話をしていたからかもしれない。友達の部屋は5階だから、ぼくよりたくさん沈まなければならなかった。


彼は、わたしを愛していると言った。わたしはうれしかった。どんなにひどい裏切られ方をするかと、思いをめぐらせて。


木の葉が風に吹き寄せられる。風がとまる。木の葉が重なり合っている。風を自我に、木の葉を概念に置き換えてみる。風によって木の葉が吹き寄せられるが、木の葉の形と数によって、風の吹き方も影響されるのではないか。すくなくとも、木の葉をめぐる風、木の葉のすぐそばの風は。風車は風によって動く。風車の運動によって、新たな風が起こる。わたしは、わたしの手のひらの上で、一枚の木の葉が、葉軸を独楽の芯のようにしてクルクル回っているのを見つめている。そのうち、こころの目の見るものが変わる。一枚の木の葉の上で、わたしの手のひらが、クルクルと回っている。


彼のぬくもりが、まだそのベンチの上に残っているかもしれない。
彼がそこに坐っていたのは、もう何年も前のことだけれど。


すべての芸術が音楽にあこがれると言ったのは、だれだったろうか? たしかに、音楽には、他の芸術が持たない、純粋性や透明性といったものがある。しかし、ただひとつ、わたしが音楽について不満なのは、音楽は反省的ではないということだ。じっさい、どんなにすばらしい音楽でも、ぜんぜん反省的ではない。他の芸術には、わたしたちに、わたしたちの内面を見るように仕向ける作用がある。しかし、それにしても、音楽というものは、それがどんなにすぐれたものであっても、ちっとも反省させてくれないものである。


見蕩れるほどに美しい曲線を描く玉葱と、オレンジ色のまばゆい光沢のすばらしいサーモンを買っていく、見事な牛。


あなたがこの世界から削除されていることを知るのは、いったい、どういう気分がしますか?


考える対象ではなく、考え方に問題がある。愛する対象ではなく、愛し方そのものに問題があるのだ。


文字を読むと、そのとき魂のなかで何かが形成されるということ。
文字にもなく、魂のなかにもなかったものが。ん?
ほんとうに?


埃や塵を核として水蒸気が凝集して水滴となるように、つまらないことどもが、つぎつぎと話の中心となって口をついて出てくる。「まるで唾となって吐き出されるって感じですけど。」とは、青年の返答。


薬によって頻繁に精神融合したために、青年は自分が詩人が考えるように考えているのではないかと思う。詩人が言っていた概念形成の話を思い出す。薬の効果について考える。薬の記憶に対する効果について考える。副作用について考える。副作用については、個人差が激しく、いったいどんな副作用があるのか、予測することができなかった。青年は、自分が変わってしまったことに気づく。


詩人が、青年のことを、もうひとりのわたしと呼んでいたことを述懐する。


「生のわれ甕は作り直せるが、燒いたのはだめ。」
(『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』人生論、杉浦明平訳)


青年は、詩人と出会って、自分が大きく変わったことに思いをはせ、これからは、これからの自分は、変わる可能性が少ないかもしれない、と思った。そう考えることは、青年を不安にしたが、自分が変わる可能性が低いと思うとなぜ不安になるのかは、青年にはよくわからなかった。


愛だけが示すことのできる何か。作用し変形をもたらすことのできるもの、エトセトラ、エトセトラ。


あれは確かに死んでしまった。
(シェイクスピア『あらし』第二幕・第一場、福田恒存訳)


あるものを愛するとき、それが人であっても、物であってもいいのだが、いったい、わたしのなにが、どの部分が、それを愛するというのだろうか?


どんな言葉が、どのようなものをもたらすか、そんなことは、だれにもわからない。


すぐに働く力もあるが、そうでない力もある。そうでない力の中には、ある限界を超えると、とたんに働きはじめるものもある。ロゴスという言葉を「形成力」という意味に解すると、このように時間がたってから、後から働く力について、多分に有益な考察ができるような気がする。


風が埃を巻き上げながら、わたしの足元に吹き寄せる。埃は汗を吸って、わたしの腕や足にべったりとまとわりつく。手でぬぐうと、油じみた黒いしみとなる。まるで黒いインクでなでつけたみたいだ。言葉も埃のように、わたしに吹き寄せてくる。言葉は、わたしの自我を吸って、わたしの精神にぴったりと貼りつく。わたしはそれを指先でこねくり回す。油じみた黒いしみ。


彼は、ぼくのことを、なにかつまらない物でも捨てるかのように捨てた。捨てても惜しくないおもちゃか何かのように。でも、ぼくはおもちゃじゃなかった。それとも、おもちゃだったんだろうか?


詩人がなぜ過去の偉大な、詩人にとって偉大であると思われる詩人や作家に云々しているのかいぶかしむ人がいるが、そんなことは当たり前で、卑小な人間に学べることは卑小な人間について学べることだけだからである。偉大な人間の魂の中には、卑小な人間の魂も存在しているからである。


裏切りによってのみ、彼は彼自身となる。それが彼の本性だったからだ。人間を人間たらしめるもの、その人をその人たらしめるもの、いわゆる、特質とか特性とかいわれるものであるが、そういったものは、いったい何によって明らかにされるのだろうか?


ふと思いつくこと。忘れていたことが突然思い出されること。赤ん坊が六ヶ月を過ぎたころに言葉を口にすること。これらはすべて、概念が結びつくことが意識の原初であり、意識が概念を結びつける以前に、結びついた概念が意識を形成することを示唆している。ヴァレリーが自我というものを、意識のコアとしてではなく、概念のバインダーとして捉えていたが、まさしく、語そのものに結びつこうとする性向があると考えた方が妥当であると思われる。ロゴスという言葉を、言葉という意味ではなく、形成力という意味に使っていたギリシア人たちの直観力には驚かされる。語は、それ自体、意味を持つものではあるが、同時にまた他の語に意味をもたらせるものでもある。双方向的に影響し合っているのである。鷲田清一の『ひとはなぜ服を着るか』に、「本質的に顔は関係のなかにあるのであって、けっしてそれだけで自足している存在ではない」とあるが、「顔」を「語」あるいは、「人間」として読み替えることができる。


ミツバチが持ち帰る蜜。ミツバチが作る蜜蝋でできた蜂の巣。自我と概念。自我と言葉。


どのような記憶も変化してしまうものだが、この記憶だけは、この記憶こそは、あまたある記憶のなかで、唯一絶対に変わらないでいて欲しいと彼が願った、ただひとつの記憶だった。


遠いところにあるものが、ある場所では、たいへん近くにある。ひとつのものが、同時にたくさんの場所に存在しており、たくさんの場所が、同時にただひとつのものを占有している。


現実によって翻弄される人間。撓め歪められた人間存在。フィリップ・K・ディック。さまざまなレヴェルの現実が、彼を苦しめた。だが、彼も現実に一矢を報いたかもしれない。彼が現実を撓め歪めたとも考えられるからである。カフカ。彼もまた、現実に手を加えた人物である。現実を創り出していく者たち。


愛が、それらの事物や事象に、存在することを許している。愛によって、それらの事物や事象は存在している。つまり、愛が、それらの事物や事象に、存在を付与しているのである。


予知とか予感とかいったものは、ただ単に、さまざまな事柄が繋がり合っているのを感じ取るだけである。時間の隔たりや距離のあるなしには、関係などないからである。意識が現在という時間に、いまそこにいるという場所に縛り付けられてはいないからである。潜在意識も同様である。時間的な隔たりも、空間的な距たりも、概念が結びつく際には、無関係なのである。意味概念の隔たりを類似性と取ることもできるが、そうすると、余計に、概念が結びつく際には、隔たりなど関係ないことがわかる。類似していたって、類似していなくったって、結びつくのだから。類似していてもしていなくても結びつくというのは、プラトンの言葉にあったような気がするけど、まあ、ここで、プラトンの言葉をあえてぼくの言葉に結びつけなくってもいいだろう。


光は闇と交わりを持たない。光は光とのみ交わりを持つ。


われわれが言語を解放することは、言語がわれわれを解放することに等しい。


言語が結びつくことが意識となる。幼児の気分が変わりやすいのは、結びつく言語がそのまま思考となることの証左ではないだろうか? 癖になるには、それが癖になるまで繰り返される必要がある。人には思考傾向とでも呼べるものがあるが、それはそう思考するに至るまで何度も頻繁にそう思考したためではないだろうか? 概念の受容頻度とでもいうものが、思考傾向に大きく関与していると思われる。概念の受容頻度。


彼の内部から暗闇が染み出してきた。彼はすっかり夜となって現われた。


愛とは動詞である。


彼は自分がやめたくなったらやめるのだ。たとえどんなに熱心に激しくしていた愛撫でも。


死に意味があるとしたら、それは生に意味があるときだけだ。


死によって、その生に意味が与えられることもある。


目に見えるもの、耳に聞こえるもの、手に触れることのできるもの、こころに感じられるもの、頭で考えられるもの、そういったものだけで世界ができているとしたら、それはとても貧しいものなのではないか? もしもそうなら、世界はいまあるものとまったく異なるもの、貧しいものとなるに違いない。じっさいは豊かである。思考できる対象しか存在しているわけではないということ、言葉にできないものがあるということ。そういったものがあるということが、わたしたちの思考を豊かにしているのではないだろうか? 思考できるもの、言葉にできるものだけしか、私たちの魂のなかには存在していないとしたら、とても貧しい思考しか存在しないはずである。しかし、わたしたちは知っている。いくらでも豊かな思考が存在していることを。


こんなに醜い、こんなに愚かな行為から、こんなに惨めな気持ちから、わたしは、愛がどんなに尊いものであるか、どれほど得がたいものであるのかを知るのであった。なぜ、わたしは、もっとも遠いものから、もっとも離れたところからしか近づくことができないのだろうか?

文学極道

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