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作品 - 20180409_393_10371p

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


残寒の詩

  霜田明

(本音を書くことは難しい)

みんな似すぎている
どの顔も

それでも、人へ期待する
人に期待することが、
とくにそっくりだ

みんな
自分が余るんだ
数を数えてみるたびに

猫は顔に表情がなくて、
じっと見ていると不安になるけれど
寝ながら目だけで人を追うのを見ていると、
本当に生きているんだな と思う

家を出て、久々に再会した猫が、
思っていたよりずっと小さかったことに
驚いたのを覚えている

猫と過ごしていると
時間の長さを
きりがないということを思う

昨日の夜
眠りにつくには、少し早く床に就いたから
余った時間 好きな曲ばかり聞いていた

サティの「Gymnopedie No.1」に、
ドヴォルザークの「新世界より」
たまの「サーカスの日」、
ピート・シーガーの「My Rainbow Race」
遠藤賢司の「夢よ叫べ」、

どれもが救いをあぶれた曲だった
世界を変えることのなかった曲だ
作者の一時期の浮かれにおさまって、
その間を揺れ動いている曲だった

不死の魂のように、

谷川俊太郎が
詩の言葉は実用書のように、
即座に効果のある言葉ではない
だが気づかないくらいひそかに、
人に作用する言葉だと言っていた

ひそかな作用とは一体なんだろう
ピート・シーガーは死ぬ前に、
「I'm still searching」と歌っていた
吉本隆明は死ぬ前に
本当に性的魅力を感じる女性の現れなかったことが、
未だに心残りだと言っていた

女性の好きな部位を聞かれると、僕は
それは恥じらいだと答える

フェミニストなら怒るだろう、
僕だって、人の精神性を
自分の性的嗜好へ利用する考え方が嫌いだ

あるいはオタクのように、自分の性的嗜好を
それが「女性」を利用することでも、
追求できるのならば、爽やかだと思う

恥じらいはその物事を
自分の方へ引きつけるときにだけ、起こる
あの人が見られていても恥ずかしくないのに、
自分が見られていることは恥ずかしい

自分があの人として生まれていたかもしれない、
あの人と自分の差はなんだろう
それは誤差だ、自分が自分を
割り当てられたという事実、それが自分であることだ

あの人の失敗は恥ずかしくないのに、
自分の失敗は恥ずかしい

高畑勲が死んで、
「人は死ぬものだから」と、思った、
たまたま先月、「平成狸合戦ぽんぽこ」を見たとき、
途中、泣きそうになったシーンがあったけれど、泣かなかった。

「トイ・ストーリー3」でも、
「自転車泥棒」でも、
なんでも泣いてしまう僕の涙には価値がない、

今日は久しぶりに寒かった。
寒いというだけで億劫で、
不幸だとまで思った、

最近は暖かくて、気が抜けて、
何もする気が起きなかった

今日は寒くて、憂鬱で、
何もする気が起きなかった

エアコン暖房を付けることの罪悪感、
地球温暖化のキャンペーンだろうか、
母親の教育の成果だろうか、
その出処がわからないが、
なんとなく罪悪感を感じながら、
暖房をつけたのを覚えている

人を嘲笑うことは本質的に
恥知らずを笑っている

自己否定が恥じらいとしてばかり
訪れることを見るとよく分かる

恥知らずを取り除いたところでは
馬鹿げた行為と高尚な行為には差が存在しない

自分のくだらなさを笑い飛ばそうとするときでさえ
自分を縛る方向へしか働かないように

ピート・シーガーの
「Where have all the flowers gone?」という歌、

サビの最後を締めくくるフレーズが、
この曲を反戦歌に仕立てあげる

「when will they ever learn?」
いつになったら,人びとは学ぶのだろう、

少女が花を摘んでいく、
長い時間が経って、少女は恋人のもとへ、故郷を去り、
その恋人は、戦争へ駆り出されてしまう、
それを切実なものとして振り返りながら、

「when will they ever learn?」
どうして、そんな言葉へ回帰してしまうんだ

母親が、「終わっていくこと」を見て、
心を痛めていたことが印象に残っている
それでも終わっていくということはどこにもなかった

ぼんやりテレビ番組をみていたとき、
こんな番組を楽しんで見ているやつは、
きっと総じて馬鹿だと思った

テレビを消して皿を洗いながら
どんなテレビ番組を見るか、なんてことで
誰も、馬鹿だと見做されるいわれはない と思った

医学者なら、人は死んでいく
それは明らかだと言うだろう
だけど、人は死なないんだ、

文学極道

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