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作品 - 20180402_148_10351p

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引用について。

  田中宏輔



モンテーニュのなかで私が読みとるすべてのものは、彼のなかではなく、私自身のなかで見いだしているのである。
(パスカル『パンセ』断章六四、前田陽一訳)


 確かに、これは、納得し得る言説である。しかし、他の断章から切り離されたこの部分の引用だけでは、文脈が通じにくいところがある。そこで、筆者は、これを、私自身の中で見い出されるすべてのものは、私自身の中にではなく、私の外にあって、私の心に働きかけ、私の心がそれに応えるところのものの中にあるものである、と読み換えてみる。
 また、引用されたこの断章が、その文脈を通じにくくさせている原因の一つに、パスカルがモンテーニュの中から読み取ったものと他の人が読み取ったものとが、同一のものであるという保証がどこにもない、ということがある。というのも、それは、


事物が同一であるのに、(その事物を対象とする)心に差別があるから
(『ヨーガ根本聖典』第四章、松尾義海訳)


であるが、ここで、また、では、なぜ、心というものには違いがあるのだろうか、という疑問が生ずることになる。
 いま、


心はその(事物の)影響に依存するものであるから、事物は(心に影響を与えるときは)知られ、(影響を与えないときは)知られない
(『ヨーガ根本聖典』第四章、松尾義海訳)


ものである、と仮定すると、知識や体験といったものの違いが、心に違いを生ぜしめる要因となっている、ということが結論として得られる。すると、なぜ同じ事物が、ある人には感動をもたらし、ある人にはもたらさないのか、また、同一の人に対しても、ある時には感銘を与え、ある時には与えないのか、といったことの理由が判明するのである。筆者は、先に、モンテーニュの中から読み取られるものが、パスカルと他の人間とでは、同一のものであるという保証はどこにもないと述べたが、その言説の根拠がここにあるのである。勿論、述べるまでもないことではあろうが、このパスカルの断章で言われるところのモンテーニュとは、彼の著作物を指し示す換喩(Metonymy)である。そして、それが、また、さらに、あらゆる事物を指し示す提喩(Synecdoche)となっているのである。
 ところで、また、個性とも呼ばれる、その人をその人たらしめる特質というものは、外因的な要素である事物の他に、内因的な要素である遺伝子という生来のもの、生まれつき備わっているものにも影響されるものであろうから、心に違いを生ぜしめる要因として、遺伝を含めて考察しなければならない。ただ、どちらの方が、より多く心に影響するものであるかということについては、人によって様々に異なるものであろうから、一概にしては言えない。その影響の大部分を、知識や体験といった外因的な要素によって被る場合もあるだろう。しかし、遺伝形質というものも、その人の両親である他の個体によってもたらされるものであるから、それも、また、外からもたらされるものであると考えられるのである。
 では、いったい、


だれがおまえをつくったのか?
(ヴァレリー『ユーパリノス あるいは建築家』佐藤昭夫訳)


誰が私を造ったのか。
(アウグスティヌス『告白』第七巻・第三章、渡辺義雄訳)


 この問いかけは、筆者が冒頭近くでパスカルの一文を読み換えたものと照応する。即ち、外からもたらされたものの取捨選択と集積、そして、それらを組織化するところのものが心に違いを生ぜしめ、私というものを形成するのである。言い換えると、私というものは、すべて外からもたらされたものである、という訳である。『レトリックの本』(別冊宝島25)の中に、ペルシャの神秘主義詩人ルーミーの言葉が引かれている。比喩なしの話を聞きたいと言った人に、「おまえそのものが比喩なのだ。」と答えたという。筆者もまた、その言葉をもじって、「私とは引用そのものである。」と言ってみることにしよう。
 すると、引用というものが、そこで実現された表現とその受容において、いったい、どれほどの効果を持つものとなっているのか、というような問題は別にして、それがもっとも直接的に個性を発現させる技法の一つである、ということが理解されよう。筆者には、ここで、「どんなものを食べているか言ってみたまえ。君がどんな人であるかを言いあててみせよう。」という、ブリア・サヴァランのアフォリスムが思い出されるが、如何なものであろうか。(関根秀雄・戸部松実訳『美味礼賛』岩波文庫)
 
 次に、引用という技法が、その極限にまで達して駆使されていると思われる詩作品を例に挙げて、考察していくことにする。但し、この限られた紙幅では、その全文を掲げるわけにはいかないので、その中から一部を抜粋するに留める。


廃星が

 ──羨しいな、絵の君に、と、ささやき掛けた、或る日、夕暮れ
(吉増剛造『廃星の子』、詩集『螺旋歌』所収)


 これが、その詩作品の冒頭部分であるが、作者の名前が明らかにされてなくても、読者は、これだけで、この詩作品の作者名を容易に言い当てることができる。それは、この部分が、吉増氏によってこれまで頻繁に繰り返し用いられてきた言葉で構成されているからである。詩集『スコットランド紀行』の中に、「引用のことを言いますと、自己引用もしますし、引きなおし、引いて、引いて引きなおして、」という作者自身の言葉があるが、これほど激しく自己引用する詩人は、他には見られない。読者は、その作品世界に冒頭から引き込まれることになり、そこで新たに展開されるヴィジョンは、この作者によって形成された過去の作品世界と共振させられることになるのである。自己引用というものは、とりわけこの詩作品の作者である吉増氏によるものは、その作者が形成する作品世界に、さらに多義的な、或は、多層的な解釈をもたらすものとなっているのである。
 この詩作品では、終わりの方で、また、この冒頭部分に類似した詩句が現われる。


廃星が

 ──羨しいな、絵の君は、と、ささやいた
(吉増剛造『廃星の子』、詩集『螺旋歌』所収)


 これは、作者が言うところの「引きなおし」であろうが、一般に一つの詩作品の中で現われる類似した詩句は、反復(Repetition)と呼ばれるものであって、引用(Quotation)とは呼ばれないのであるが、この詩人の場合には、反復もまた、引用であるかのごとき印象を与えるものとなっている。
 
 この詩作品の初出誌は、「ユリイカ」90年12月号であった。その折りには、『月の岩蔭に蹲んでわたしは春を待つ』というタイトルで掲載されたのであるが、詩集収録時には、末行に書かれてあったこのタイトルと同じ詩句が省かれており、また、末尾に附記されてあった文章が省略されている。その文章には、この詩作品が、画家ジョルジオ・モランディー回顧展によせて書かれたものであるという経緯が述べられてあったが、それは、ここに引用された「羨しいな、絵の君に(は)、」という詩句に照応するものであった。


落ちても枯葉に行く処なし
枯葉に行く処なし
行く処なし
処なし
なし
(吉増剛造『廃星の子』、詩集『螺旋歌』所収)


 初出の段階では、この部分には、各行の行間に、一行分の空白が設けられてあったが、詩集に収録された時には取り去られている。この詩作品においては、様々な改稿が施されているが、この部分とタイトルの改変、そして、初出の際に末行にあった元のタイトルと同じ詩句がなくなっていることは、筆者に非常に大きなショックを与えた。このことは、筆者に、詩篇の改稿というものが、読み手のヴィジョンに対して、どれほど大きく影響するものであるのか、ということについて考えさせるものであった。
 この部分は、筆者に、T.S.Eliotの「The Waste Land」 を思い起こさせた。


‘What are you thinking of? What thinking? What?


 これは、II.A Game Of Chess にある詩行であるが、前掲の吉増氏の詩句は、この Eliot の詩行が表わしている意味内容(Sense)の引用ではなく、その詩行が持っている文体(Style)の引用である。吉増氏の詩句は、Eliot の詩句とは、その意味内容において、関連性のまったくないものであったが、その文体の引用がもたらす音調的な効果が著しく類似しているために、Eliot のThe Waste Land のイメージを筆者の心象に喚起させ、筆者のヴィジョンに揺さ振りをかけるものとなったのである。


"わたしは火がほしい"と枯葉が葉裏であれまた嘘ついちゃった
(吉増剛造『廃星の子』、詩集『螺旋歌』所収)


 これが、詩集収録時の末行であるが、引用であることが示される""で括られた「わたしは火がほしい」という詩句から、ニーチェの『ツァラトゥストラ』が思い起こされた。「私は火を欲する。」といった言葉を目にした記憶があったのである。そこで、筆者は、その言葉が書かれてある箇所を確認するために、その本を繙いたのであるが、捜し当てることができなかった。三たび通読してみたのであるが、そのような言葉はどこにもなかったのである。しかし、その再読は、筆者に思いもよらぬ収穫をもたらすものとなったのである。手〓富雄訳(中央文庫)で、幾つか文章を引くことにする。但し、丸括弧内の数字は、その文章が引かれたページ数を表わす。「君は君自身の炎で焼こうと思わざるを得ないだろう。いったん灰になることがなくて、どうして新しく甦ることが望めよう。(100)」「まことに、自分自身の烈火のなかから、自分自身の教えが生まれてくることが、もっと意味のあることなのだ。(143)」「人間たちのあいだにも、灼熱の太陽によって孵されたひながいる。(230)」「そしてまもなくかれらは枯れた草、枯れた野のようになるだろう、そしてまことに、自分自身に倦み、水を求めるよりは、むしろ火を求めてあえぐことだろう。(274)」「万物を焼きつくす太陽の無数の矢に射貫かれて、灼熱しつつ至福にふるえているように!(346)」「精神に火を(373)」「熱い火を与えよ、(407)」。

『ツァラトゥストラ』にある、これらの文章が、筆者に、「私は火を欲する。」といった言葉を思い浮かべさせたのかもしれない。
 
 或は、もしかすると、「わたしは火がほしい」という吉増氏の詩句が、『ツァラトゥストラ』の全内容を、「私は火を欲する。」といった非常に短い言葉で、筆者に要約させたのかもしれない。
 
 また、『ツァラトゥストラ』の中には、「そしてまことに、没落が行なわれ、葉が落ちるとき、そのとき生はおのれを犠牲にしてささげているのだ──力のために。(181)」「おお、ツァラトゥストラよ、木の葉をして落ちるにまかせるがいい。そして嘆かぬがいい。むしろその木の葉を吹き散らす手荒な風を吹き送るがいい。(287)」「そしてわたしは自分自身を保存しようとしない者たちを愛する。没落してゆく者たちを、わたしはわたしの愛の力のすべてをあげて愛する。かれらは、かなたへ渡って行く者たちなのだ。──(320)」といった文章もあり、これはまさに、筆者が前に引いた、吉増氏の詩句である「落ちても枯葉に行く処なし」と呼応するものである。
 
この詩作品における引用の妙については、まだまだ言及するべきところがある。しかし、いまは、紙幅に余裕がない。後日、また、機会があれば、それらについて論じることにしよう。

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