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作品 - 20180214_574_10254p

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


生命線

  うんち

 白色の鐘が鳴る。この世で最も美しい光景のひとつだ。あたりは晴れていたって曇っていたって構わない。月の重力は潮の満ち引きに影響を与える。満月よりかはその前の日の晩の月の方が美しい。満月が完成形だとすれば、そのひとつ手前の少し足りない月の影の中に、私は人間の奥底に眠る核との鮮明な共鳴を感じる。
 深夜の公園には誰もいない。私はそれをとても不思議に思った。本の好きな奴は本屋へ行き、映画の好きな奴は映画館へ行き、食事の好きな奴はレストランにでも行く。そこでは人と会わないようにするほうが難しい。月の光の中に僕らの心臓はないのだろうか。
 こんなつまらないことは書くべきではないのでこのあたりでやめておく。重要なのは夜が開け放たれているということに気付いているかどうかなのだ。
 川の水は冷たいと思われている。でも実際は温かいのだ。都会に育ったせいで、そんなことも知らない奴がたくさんいる。虫は鳥よりも優しい奴らだ。こんなつまらないことを語るのもやめておこう。
 ではいったい私の書くべきことと言えば、何が残っているのか。
 ある晩の話、それもまだ訪れていないある晩の話。
 水は流れている。血も流れている。月も同じように流れている。生命はその中で流れている。つまり重要なのは、流れている液体というのは、常に温かみをもって存在しているということなのだ。
 静けさはコップに溜まった水のように静止している。だから沈黙は肌を刺すように冷たい奴らだ。だけどそれが悪いと言うんじゃない。空気が氷のように透明なのはその冷たさのおかげなのだ。私の心がこんなふうに見透かされているのも、沈黙のもつ冷たさの影響だ。孤独についてはもう散々語られてきた。苦しいだの寂しいだの悲しいだの暗いだの。だから私はそれについては語らない。私は一本の花の話をするとしよう。そちらの方が新鮮だ。新しさとは柔らかな温かさのことをいう。
 野原に風が吹くと、花は脇腹をくすぐられたように笑い出す。私がこんなことを書くだなんて信じられるだろうか。でもあなた方は私が以前書いたものを知らない。
 ねずみという生き物は純白な奴らだ。汚い環境におくと奴らは汚れていき、衛生的な環境におくと奴らは清潔になっていく。キッチンの裏に入り込んだねずみと手術台の上に載せられたねずみはどちらが幸福なのだろうか。ねずみは幸福について考える脳をもたない点で幸福だ。でも奴らが幸福について何も知らないというわけじゃない。月並みな言い方をすれば、奴らは遺伝子で幸福を考えている。芸術的な言い方をすれば、私は白痴だ。幸福な遺伝子は生き残り、不幸な遺伝子はそこで途絶える。
 これはいわば、ひとつの濾過作用であって、もともと100あったはずの幸福はその最後には1になる。これは不幸なことだろうか。
 人間はひとつの幸福から生まれ、100の幸福のうちをさまよって、結局はひとつの幸福の中へ戻っていく。芸術家はそのことをよく知っている。ぼくらの人生はその大半が無駄によって構成されていて、ぼくは君の涙一滴でさえ美しいと感じていたのに、野蛮な奴らは赤や青や黄や黒の絵の具をキャンバスの上にぶちまける。その白い画布の上に君の涙だけが塗られているとしたら、ぼくはぼくの人生でもって、その絵を買い取ることにしよう。
 この理論を宇宙の話にも適用してみせるとするならば、宇宙はひとつの爆発によって生まれ、またひとつの爆発へ収束していくことになる。ぼくは笑われているのだろうか。
 つまり野に咲くあの白い花は、例えその色が赤だったにしろ、オレンジだったにしろ、黄だったにしろ、たった一輪咲いているという点だけで美しい。その花びらがあとたった一枚しか残されていないとしたらなお美しいだろう。ぼくはその花が萎れて倒れ尽くすまで、その花を眺めつづけるだろう。ぼくはその倒れた花の横に倒れ、永遠の命の誕生の瞬間を噛み締めることにしよう。そこでは空が晴れていたって曇っていたって構いはしない。
 それでは私は、人間の生み出した最も悲惨な喜劇、戦争について語るとしよう。これについては誰もが恐れをなして、これまで一度も語られることがなかった。
 戦争の起こる前の日の天気が雨だったとしたら、その戦争は起きなかったのではないかと私は書く。そして頭の中ではそれでも戦争は起きていただろうと考える。こうすると思考の間に高低差が生まれ、その水路を私の血が渡っていく。
 世間では戦争は悪い行為であると教えられている。そしてみなそれを信じている。と、みなそれを信じている。でも私はそれを信じない。と、あなたはそれを信じるだろうか。
 私は戦争について語りたいのではない。私は戦争を通して語られる、戦争とは全く無縁のひとつの感情について語りたいのだ。
 戦争という行為はその呼称を変え、私たちの生活のいたるところに存在している。冷蔵庫の中だとか、番組表の中だとか、水の中だとか、字の中だとか、心臓の中だとか、原子核の中だとか、アルバムの中だとか、砂場の中だとか、地球儀の中だとか、携帯電話の中だとかにも。私たちの身の回りの中から、戦争ではないものを見つけ出そうとする方が困難なのだ。
 私は鏡に向かって、「君は戦争か?」と問いかける。すると私は「そうではない。」と答える。戦争ではないものがここにあった!
 それでは私は私についての解析に移ることにしよう。
 あなたのお名前は?――ナナミナオ。
 生年月日は?――1994年10月28日。
 性別は?――どちらでも結構。
 あなたは戦争について反対ですか賛成ですか?それとも賛成ですか反対ですか?――賛成。
 その理由は?――戦争に反対して戦争が起こるのならば、私に残された戦争に反対する手段は戦争に賛成することしかないからだ。つまりはこうだ。我々の役割とは常に少数側の立場に立って、議論を均衡化させ、物事をその場で釘付けにしておくことなのだ。YESと言われたらNOと言え、NOと言われたらYESと言え。わかったか?
 わかりません。――それで結構だ。
 つまりあなたは戦争に反対なのですか?――賛成。
 それは戦争に反対するための便宜上の賛成なのですか?――本質的に賛成。
 その理由は?――戦争に賛成した奴が戦争によって死ぬことほど滑稽なものはないからだ。
 戦争によって、戦争に賛成した人間が死ぬ姿をみるために、戦争に反対した人間が巻き込まれて死ぬは可哀想だとは思いませんか?――思わない。
 その理由は?――戦争を止めることすらできなかった無能な人間たちが死んでいったところで私たちの心を打つところは何もないからだ。
 そうなった場合、あなたも戦争を止めることのできなかった無能な人間のうちのひとりに数えられますか?――数えられない。
 その理由は?――私は戦争に賛成だからだ。
 あなたは戦争に際して、その徴兵を受け入れますか?――受け入れない。
 それによって処罰されるとしても?――受け入れない。
 それによってあなたの最愛の人間が処罰されるとしても?――受け入れない。
 その理由は?――私には該当する者がいないからだ。
 それは最愛の人間が処罰されないように便宜上そう答えているのですか?――いいえ。
 あなたが徴兵を拒否したことにより、処罰を受ける対象者が無作為に選ばれ、その該当者があなたの最愛の人物であった場合、それでもあなたは徴兵を拒否しますか?――拒否する。
 あなたは戦争へ賛成なさるのに、どうして徴兵は受け入れなさらないのですか?――本が好きでも本を書かない奴がいる。映画が好きでも映画を撮らない奴がいる。食事が好きでも食事を作らない奴がいる。私が戦争に賛成しても戦争に参加しないのは全くもっておかしな話ではない。
 それでは戦争を始めましょうか?――そうするといい。各々が各々の恨むべき存在を打ち砕け!
 ところであなたにとって敗北とは?――戦争について語ったことだ。
 これは2004年9月2日、私から私へ行われたインタビューからの抜粋である。その他にも彼は地球儀から転落死した男の話や、魚の鱗の中に見られる刑務所での食事との類似性、チョコレートに含有されている女性の血液の割合などについても語ったが、これらはあまりにも有名な話であるので、あえてここで再び語る必要もない。
 それでは宇宙についての話に戻そう。ひとつの石橋を想像していただきたい。
 その石橋は宇宙のようにどこまでも続いているかのようにみえる。ぼくらの見る水平線はその橋によって左右に二分されている。この橋は今も建設中で、この橋のずっと先では今も橋が伸び続けている。その始まりへあなたは出現し、そこへ一歩を踏み出す。そしてもう一歩踏み出すと、初めに踏み出した一歩の乗っていた部分の橋は崩れてなくなってしまう。あなたがさらにもう一歩踏み出せば、二歩目に乗っていた部分の橋も崩れていく。あなたの歩みは橋の建設速度よりも早く、あなたはこの崩壊を連続させ、いつかはその建設部分にまで到着する。そしてあなたがその建設用の足場に乗った時、この橋はすべて消滅してしまうのだ。宇宙もこのようにして消滅する。そして今度はあなたが橋を作る番になるのだ。
 宇宙の始まりはいつか宇宙の終わりに追いつかれる。そして今度は追い抜かした宇宙の終わりが宇宙の始まりとなり、追い抜かれた宇宙の始まりが宇宙の終わりとなって同じことを繰り返していくのである。そしてこの波はいつか静まるのだろう。そのあとには何が残るのか。そこには何も存在しないという状態が残る。何も存在していないということは何も存在していないということではない。そこにはプラスとマイナスの結合が存在しているのだ。すなわち無。無というのは何も存在していないというだけで何も存在していないというわけではない。
 この世界には目に見えないものがたくさん存在する。光を透過させるもの。光を吸収してしまうもの。何かに覆われているもの。とても小さいもの。そしてこの世界に存在していないもの。
 愛は目に見えない。見たというものがいるのならば、それはお気の毒さま、ということになるのだろう。おすすめの精神病院を紹介しよう。
 愛は目に見えない。ということはつまり、それは光を透過するのか、あるいは光を吸収するのか、はたまた何かに覆われているのか、それともとても小さいのか、もしくは存在していないのか。勉強をよく積んだ良識のある読者ならこう言うのだろう。それもたいそう真面目な顔をして。愛は僕らの中に存在している。
 聞いただろうか?愛は僕らの中に存在しているだって!その小さなおつむで考えたにしては、なかなか笑わせてくれる冗談を思いつくものだ。メスを入れてみよう、乾燥肌がご自慢の彼の真っ白な腹の上に。
 他にも愛が存在する証拠を提示しようと数多くの人が声をあげる。貧しい子供たちのために集まった義援金の山の中だとか、ピンク色のカーテンに写る男女の抱き合ったシルエットの中だとか、我が子を見つめる母親の眼差しの中だとか、手の届かぬあの娘へ想いを馳せた青春の中だとか。これらの流れの途絶え、滞り腐った水源に対して、私はいったいどのようにして感動を覚えたらよいのだろうか。腕をつけるなり、白く小さな幼虫たちが、我が腕にしがみつこうと健気にその腕のない体で水中をかきまわる。彼らはその水の中でいったい何に怯え、私に救済を求めるだろうか。私は何も救いはしない。救われる行為とは、決して受動的な行いではなく能動的な行いだからだ。私が蠅を殺したときに驚くのは、その血の色があまりにも人間のそれと酷似しているという点なのである。
 愛は流れだ。それもひとつの強烈な流れ。私は愛という言葉を用いるときに、いつもひとつの光景を想像する。やや赤みがかった透明な液体が強烈な圧力をその身に受けながら凝結し、つまりはその巨大な熱をその小さな一点に蓄えて、ひとつの完全球体を形成する。愛はその球体の中で超高速の回転の流れを維持している。私がそこに指を突き出してみれば、私の指は炭となって朽ちるのが先か、原子へまで分解されて吹き飛ばされるのが先かわからない。
 これは私の生のイメージと芸術のイメージとひどく類似している。というのもつまり、私がそこに芸術的な感動を覚えるものといえば、それは生の結晶化的な表出であり、そこで見事な結晶を形作るために必要なだけの熱を有し得るのは愛でしかありえないからだ。私にとって生と愛と芸術は決して切っても切り離せるものではない。生を十分に表現するためには必ず愛の力が必要となり、愛を表現するためには必ず生をそのうちにはらんでしまう。私はそういった光景を芸術と呼ぶのだから。そういったところで私の説明が不十分であることはよく知っている。芸術の呼ばれるものの中では、これまで実に多くの愛というものが語られてきた。この作者のこの作品では彼の愛が表現されています。あの作者のあの作品では彼の愛が表現されています。鑑賞者たちは戸惑ってしまうだろう、昨日教わった愛についての表現が今日ではまるっきりすり替わっていると。これは愛そのものを描いたというよりも、愛から引き起こされる現象を描いたことを愛と呼ぶことからの錯誤から生まれている問題である。もう愛について語るのはやめにしよう。時計の針は夜中の3時をまわっている。
 水を温めると、それはそのうち沸騰を始める。卵を温めると、それはそのうち羽化を始める。もしくはゆで卵の完成だ。トマトの中に入っている種の数を数えてみたら、それはちょうど50個だった。でも私はトマトの中にある種の数を数えていない。
 私が書くこの手の文章にはすでにたくさんの人が飽き飽きとしていることだろう。
 こいつの書く文章の中には、涙を誘うような感動的な物語も入っていなければ、心の踊るような情景も入っていない。心の安らぐような救済も入っていなければ、明日を生きるための希望も入っていないと。
 それもそのはず、なぜならこれらの白紙のうえに横たわっている言葉たちと言うのは、どれもが捨てられてしまったものたちだからだ。そういう人気のある言葉たちはゴミ捨て場には落ちていない。落ちていたとしてもすぐに蟻たちによって運ばれていってしまう。だから蟻の巣の中には実に広大な文学と言うものが広がっている。子どもたちはよくアリの巣の中へおしっこをする。彼らに拍手を!子供たちは文学に対してどのような態度をとるのが適切かよくわきまえている。
 私が蟻と綱引きをしてようやく手に入れた言葉がひとつここにある。見せてやってもいいが、その前に手を洗ってきてくれたまえ。ついでに顔も洗って鏡を見てきた方がいいだろう。どんな文学よりも滑稽な顔がそこに映る!
 寛大な心を忘れないように。文学はお遊びではないのだから。ねえ、先生?
 日本語で書かれた最も優れた文学作品は、夏休み前に子どもたちへ配布される夏休み期間中の生活こころえであると私は主張する。なぜならそこには誰にでも理解できる表現が使われているし、守るべき道徳や規則が掲げられているし、そしてなにより夏休みに対する子供たちの計り知れないほど大きな期待が含まれているからである。子どもたちはあのリストに載った項目をひとつずつ破っていくことによって、夏休みの自由を実感してくのだ。
 親は誰しも子供には正しく生きてもらいたいと願うものなのさ。いや、隠れろ!例外な奴がきた!
















































 もう行ったか?それでは話を続けよう。
 ええとなんだったか。そうだ、親は基本的には子どもに正しく生きてもらいたいと願うものなのさ、という話だった。それがつまりどういうことかというと、親は子どもに後悔をしないような人生を送ってもらいたいと、あれやこれやといろいろなことを教え込もうとする。それもう本当にたくさんのことを。それはもう本当にたくさんだ。国語の辞書はそれをおせっかいと呼んでいる。
 それに対し私は、たったひとつのことを教えるだけで十分であると提唱しよう。後悔をしないようにと。後悔をしないためにどうすればよいのかを教える必要はない。後悔をしてはいけないことだけを教えればよいのだ。
 友よ、たくさんの疑問符を持とう!この両親から生まれてきたにしては、あまりに僕は優秀過ぎる。本当は、僕は里子ではないのかな?くらいのことを!
 ぼくは君を愛しているよ。君らは本当の未来だ。車が空を飛ぶようになるのとはわけが違う。
 未来、ぼくがやっとのことで蟻たちから取り戻した言葉。
 未来、なんと柔らかくて温かみのある言葉なのだろう。
 未来、それを無機質で冷たい言葉にしようとしている奴らがいる。
 ぼくは未来と言う言葉のひびきを明日ということばのひびきと同じにしようと努めている。明日が未来だということを忘れている奴がいっぱいいる。君らが失望するのは構わないが、その失望を私たちにまで押し付けないように。
 失望、青くて甘い、味わいのある良い言葉だ。他人のを見る分には嫌いではないよ。大いに失望してくれたまえ!
 猫と女は追うと逃げる、とよく言われる。でもただ待っているだけでは寄ってこない。彼女らを呼ぶためにはエサが必要なのだ。ではそのエサとはなんなのか?
 10、9、8、7、6、5、4、3、2、1、0。
 はい、制限時間切れ。解答権は次のあなたに、そう、あなたです。あたりを見回したって誰もいませんよ。この文章を読んでいるあなたです。この国の人間の気質からすると、この手の問題には答えてくれない。じゃあこの話はやめだ。つまらない。
 ヤドカリの生態系について話した方がよほどか有意義な時間になるだろう。
 つまりヤドカリは他者の死という強固な殻によってその身を守る。それに加え、倫理や尊厳までを身につけて、身体が重いので歩みは鈍い。別にそれでも彼らは構わないのさ。彼らの幸福は浜辺のうえで近親相姦を繰り返すことであって、ファーストフード店のフライドポテトを食べたり、レンタルビデオ店ののれんの奥へ進入したりすることではないのだから。ウミガメは産卵の時に涙を流す。これは非常に感動的な話ではないか?映画にでもしたらみんなが観に来るだろうし、道徳のよいお手本としても採用されるだろう。
 心が純粋な奴が悪をみると、善と悪の見分けがつかないものさ。深呼吸をしよう。たとえ君が汚い公衆便所の個室の中にいたとしてもだ。
 公衆便所の壁面の落書きと言うのは、匿名の作者によって作られた最も芸術的な作品のうちのひとつとして数えあげてもいいだろう。それが犬の小便のような臭いを発しない限りにおいて。君らが好きなのは血統書と狂犬病予防の注射のついた犬であって、むしろ君らが好きなのは血統書と狂犬病予防の注射の方なのさ。ヤドカリは死んだ魚を食べると聞いて、私はヤドカリを踏みつぶそうとする動作を少し思い留めた。けれどもヤドカリがいなくたって死んだ魚は朽ちて消えるのさ。私は10秒経っても私の足元から移動できないヤドカリを容赦なく踏みつぶした。ヤドカリを殺すことのできる生物の数が限られているのならば、私は積極的にヤドカリを殺してやらなくてはならない。公衆便所の壁にはそんなことが書いてあった。
 他にもいろいろと書いてある。090‐××××‐2280、爆乳天使、顔はブス。SEX。アナル。我は神なり。トイレットペーパーはおいしい。手でケツを拭け。カレー味のうんこ。パンツをください。死ね。生きる。死ね。
 カメの産卵に負けず劣らず、これらの詩句は感動的である。痛切な心の叫びがあらゆる道徳的、倫理的な監視から解放され、表現されている。これこそまさしく自由である!と、私が言うとでも思っただろうか。いや私なら言いかねない。なぜなら私は自由だから。でも素晴らしいよ、素晴らしい。いうなればこれは自由にとっての精子の段階だ。これが卵子と出会って結合し、成熟すると自由になる。もう少しいろいろなものを見て、いろいろなことを知ることだ。それとヤドカリを踏みつぶすほんの少しの勇気。これはまだ無秩序の段階だ。ぼくらに必要なのは無秩序的な秩序であり秩序的な無秩序、あるいは秩序的な無秩序であり無秩序的な秩序なのだ。ところでここに愛している!という言葉が見つからなかったのは非常に興味深い。
 ひとつ伝言を預かっているのでそれを伝えておこう。10年後のあなたからだ。
「もっと早く死んでおけばよかった。」
 目を逸らすな、目を逸らすなよ。今からこのスプーンで君の目を穿り返してやるのだから。いや、ちょっと待ってくれ。ぼくが狂った人間だと認定するのはいささか気が早すぎる。それはぼくが奇声でも発して口から泡を吹きながらこの文章を書いているのだとすればぼくは狂っているのかもしれないが、ぼくは今、いたって真面目な顔をして、非常に落ち着いてこの文章を書いているんだ。やっとこの物語も半分が過ぎたところだ。ところでぼくは反対する。本というものには大抵その隅にページ番号が書いてあるだろう。それとその本自体の厚さによって、ぼくらはその物語の変転の程度を予測してしまうし、予測させられてしまう。だからこのぼくの文章も後半の2割のページは全て白紙になっている。後ろを見るな、後ろを見るなよ。よそ見は不要だ。幅10センチの板の上を歩くように、慎重にこれらの文章を読み進めたまえ。とんちをしているんじゃないぞ。そういう表面的な技巧は嫌いだ。推理小説など糞くらえ。おっと失礼。でもバカバカしいと思わないだろうか。想像上の世界で、想像上の人物たちが巻き起こす、想像上の時間の中からひとつの真実を見つけ出そうというのだから……。これは小声で言うとしよう。そこに真実などありはしない!その作者が、登場人物たちの靴底と地面に生じる摩擦力や室内で発生する空気の流れ、配置した木々の生み出した酸素の総量や街灯の消費する電力とそれを供給する発電所の発電量などの一切を計算し尽くしたうえでその物語を描こうというのなら私は咎めないが……。現実と言うのは単純じゃない。ぼくらが言葉によって現実のほんの一秒でも描写しようと試みるのなら、ぼくらは今見ている目の前の光景から、地球の裏側までの全て、さらにいえば全宇宙に至るまでの全てを計算し、描写しなければ不十分だ。どれだけ現実的に書かれた作品も、どれだけ非現実的に書かれた作品もそれがフィクションというだけで、どちらもひどく非現実的な作品となるだの。五十歩百歩。だから描写に上手いも下手もないのさ。どれだけなけなしの観察とやらを費やしたって、現実の足元のほんの0.000000000000……00001ミリにも及ばない。言葉の限界を思い知れ愚鈍ども。でもぼくは現実世界の描写が全く不可能だとは思っていない。君らには到底無理なのかもしれないが。そう言ってやってくれないか?劣化した現実を生み出し続けることが芸術だとか文学だとか勘違いしているお偉い方に。つまり、推理小説やその類なんて、ぼくが答えを言ったあとにその答えの方を決められるのとなんら変わりはないってことさ。でもだからといって、私がノンフィクションの作品だけを評価していると思ってもらっては困るよ。むしろその逆さ。確かに現実はとても美しい舞台だよ。でもそこに登場する人物が美しくない。せっかく唯一みていられる舞台での上演だというのに、そこでの役者がこれではあまりに舞台がもったいなさすぎる。それにいくら舞台が現実だからといって、それを言葉で描写してしまえば、それはたちまちフィクションになってしまう。現実を言葉の上に書きだすのは君らでは不可能だからだ。だから実際には、この世界の文学にはフィクションの作品しかないってことだ。あるのはノンフィクションを題材にしたフィクションの作品と、フィクションを題材にしたフィクションの作品だけなのさ。わかるね?だから小説などというものは決して真面目な顔をして書くものじゃない。書かれたものの中に真実があるとすれば、それはその文章が実在するある人物によって書かれたという真実しか存在しない。そういう意味では、フィクションを描いた作品も、ノンフィクションを描いた作品も、夢で見た光景も、現実に広がる光景も、それ自体がこの現実に存在するという一点ではどれもすべて真実なのだ。にもかかわらず、夢の話や想像の話と前置きするだけでそれが非現実的で無価値な話だと判断する奴がいる。書かれたものというのは、その書かれた内容に価値があるのではなく、その内容のものが書かれたということに価値があるのだ。この視点からみれば、全ての言語的な作品はみな同じ土俵のうえで公平な評価を受けることができる。現実を題材とした作品も想像を題材とした作品も、私たちが見つめなければならない先は、その作品を通した先にある作者の存在なのだ。書物は対話であり、ひとつの現実である。あなた叶えられなかった希望を書物の中で自在に実現してやろうというのなら、どうぞそれはトイレの真っ暗な個室の中で繰り広げていただきたい。書物はあなたの叶えられなかった願望を叶えるための都合の良い舞台などではないのだ。そういうのは現実でやってくれ!自分の願望が現実で叶うのなら、そう簡単なことはないだって?馬鹿も休み休み言うように。願望っていうのは人生を捧げてでも叶えるものだ。その程度の価値もない願望など火で焼いて燃やしてしまえ。若いときの苦労は買ってでもしろというね。あれは年寄りの考え出した年少者に仕事を押し付けるための都合の良い文句にすぎない。他人から売られた苦労なんて金をもらっても買うんじゃないぞ。君の為すべきことをしろ!それがないのなら死に物狂いで見つけ出せ。死ぬのも生きるのもそのあとだ、会社へなんて行っている場合じゃないぞ。YESと言われたらNOと言え、NOと言われたらYESと言え。他人の言うことなんか決して聞くものじゃない。なにをこんなところで突っ立っているんだ。早く会社にでも行きたまえ!
 猫に魚を見せると寄ってきたが、女に魚を見せても寄ってはこなかった。女に金を見せると寄ってきたが、猫に金を見せても寄ってはこなかった。賢いのはどちらだろうか。
 つまりはだ。君の書くという行為が現実に対してどういった効果を与えるかということを想定し、その手段としてのみのためにそれ行使しろと言っているんだ。私たちには現実という実に精巧にできた舞台が用意されている以上、それをわざわざ文字で作った世界などというあまりにも不完全な舞台を用いようなんていうことは、蒙昧主義的と言わざるを得ないのだ。お前がこの文章を破り捨てるまで繰り返してやる。書くということは現実だ。書かれた内容が現実か非現実かなんてことは関係ない。あえて言えば、書かれたものというのはすべて非現実だ。書くという行為だけが現実だ!本当にこの世界が現実ならね。君の頭に脳は入っているかい?ぼくの言葉が理解できるか?なんて嫌味なことを言っているんじゃないよ。君は実は作られた機械で、自分の中身が人間なんだと思い込んでいるだけなんじゃないのかと聞いているんだ。この世界がぼくを観察するために作られていたり、もしくはぼくの作り出した想像上の世界でしかなかったんだとしたりすればこれまでのことは謝ろう。
 ところで私は生きているのだろうか?
 私は私の思いつく限りの名詞をその方程式に代入してみたが、一向にその解は得られなかった。そこで私は考えたのだった。ここで問題となるべきなのは、何を与えるのかではなく、どうのようにして与えるのかなのではないかと。私はその憶測の是非を確かめるためにさっそくそれを実験にうつした。用意したのは一匹の猫と一人の女だ。猫の方は私の実費でペットショップから購入したものであり、女の方はどうせ味の違いも分からないくせにと思いながら高級なレストランでディナーをご馳走したのち、その女よりも百倍は美しいだろう宝飾品をプレゼントして、そのうえ酒までも浴びせるように飲ませてやって、なんとか私の願いをひとつ聞き入れてもらえるように承諾をとった。
 私はそのふたつの被験体を自由に身動きの取れないよう紐でつなぎ、水だけを与えながらおよそ一週間から二週間、あるいは三週間から四週間、そのままで過ごさせたのだった。その経過についてはあまり語らないでおこう。私の唯一の懸念は女がその猫を食べてしまってはいやしないかということだったが、女はそのでっぷりと蓄えた道徳心のおかげからかその心配を犯すことはしなかった。私が彼女らのために用意したのはただのパンである。それ見た彼女らの瞳はなんと美しく輝いたことか。彼女らはすぐに駆け寄ってくるのかと思いきや、ずいぶん力なく、這うようにして私の足元にへばりついた。私は彼女らに結ばれた紐の張り具合を確認すると、ちょうど彼女らの手が届くか届かないかのところへそれを置いた。それに対し彼女らは懸命に手を伸ばす。状況は猫の方が有利そうだった。猫の爪がパンの皮膚に触れる。それを見た彼女はパンへ伸ばしていた手を自分の真上に持ち上げて、それを猫の首のうえへと目一杯に振り下ろした。その一撃はすでに半分は死にかかっている猫を殺すには十分なものだった。そして彼女は我にかえり、しまったという顔をしながら私の方を見上げるのだった。その後の経緯についてはあの日の新聞に取り上げられたとおりだ。
 愛の存在を確かめるために何千匹ものねずみが手術台にのぼった。人間の肘から手首までの長さは足の裏の大きさとほぼ等しい。昆虫は宇宙から飛来した生物である。ガラスは厳密には液体である。聴覚は味覚から派生した感覚である。猫の額の平均面積は28平方センチメートルである。フランスの国土は全国家中43番目に大きい。涙はアルカリ性である。アルファベットの7番目の文字はGである。地球は今から43億年前に誕生した。セミの羽には血が通っている。男性の3人に1人は体内に子宮の名残が存在する。蛍は幼虫の時期からすでに発光する。人間には利き目というものが存在する。イルカの祖先はアヒルである。人の血が赤いのはその中に含まれるヘモグロビンの鉄が酸化しているためである。山の中には地球上に存在するうちの4割の水分が蓄えられている。白い薔薇の棘は有毒である。
 夜は眠り朝がくる。水溜りのうえに腰を下ろした犬もそのずぶ濡れの尻をあげて去っていった。私は彼女の紐をほどいてやり、虫かごから外へ逃がしてやった。そしてそこで待ち構えていた蛙に飲み込まれてしまう。蛙は私にこう言った。
「白い犬を飼うのなら立派な靴を磨きあげてからにしな。」
 蛙にしては口が達者だ。イルカが車に引きずられてやってくる。そして去っていく。信号待ちの歩行者は少しずつ地面にのめり込んでいく。信号は赤から赤へと変わった。乳房を露出させながら牛が歩いていく。男性陣の眼はみなそれに釘づけだ。山から川が下りてきて、挨拶だけして帰っていく。花びらが動物園から逃げ出したらしい。カフェの店員が私を手で呼ぶ。空き缶の中から赤ん坊の声が聞こえる。それを犬がくわえていった。緑色の写真を渡されて、ここへ行くようにと指示される。電車が到着して、駅員のポケットにしまわれた。札束が水槽の中を泳いでいる。消防法にしたがって、街の人口の3分の1が活字となった。教会では十字架の横棒を切除する工事が行われている。海がやけに静かだとコーヒーの泡は語った。石油の値段が暴落して、みなシャワーに石油を浴びるようになった。窓ガラスは危険なのですべて取り外された。
 白色の鐘が鳴る。この世で最も美しい光景のひとつだ。あたりは晴れていたって曇っていたって構わない。月の重力は潮の満ち引きに影響を与える。満月よりかはその前の晩の月の方が美しい。満月が完成形だとすれば、そのひとつ手前の少し足りない月の影の中に、私は人間の奥底に眠る核との鮮明な共鳴を感じる、と、ある晩に逃げ出した少女は感動的な死を遂げながら言った。

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